goo

MuGa(無我)誕生

μ宇宙

 さあ、μ宇宙への旅です。前に作ったモノをプリントしましょう。それ以外のことは機械的にこなします。

 その意味では、3週間+1週間フォローで一ヶ月の旅です。

 体重も本の冊数もクリアしました。体重72Kg以下、本は15000冊です。これで安心して、旅に出られます。

 μ宇宙の名称を決めました。μギャラクシーです。略して、MuGaです。マルクーハンの影響です。

生まれてきた理由からの発想

 生まれてきた理由から、個々の人間が世界の主人公という所まで来ている。だけど、日本の場合は、その観点があまりにも薄い。個々と全体を結び付けている。これはバラバラになる要素です。

 どうしても考えることがメインになります。では、考えると言うことは、具体的に、何を対象に行うことなのか。未唯空間での答えは出ています。近傍を考えるわけです。本質を考える時に。その近傍同士をつなげていく。つなげることが考えることです。

 生きることの意味を考えて行動することが、なぜ、会社で通用しないのか。会社というのはやはり、おかしい。これはもしかすると、集団性の日本だけかもしれない。それにしても、この先がありません。

他者の存在

 他者の存在が問題になっているけど、私にそれを問い掛ける相手はいない。この質問自体が矛盾している。他人が存在しないのであれば、問題意識さえない。

 皆に存在していることを納得させるつもりはない。そう思っているのであれば、当たり前すぎて、何も言えない。

ユーロ崩壊

 2002年に、ユーロが出来たばかりの時に、フィンランド、ロシア、イギリス、ベルギー、イタリアに行っています。今度は崩壊する時です。

 旅はパリ以外は考えながら、移動します。そのためにμ宇宙のシートを作っています。

 「夜と霧」のフランクルは収容所の中でも本が書けた。何がなくても書ける。それだけのものを内なる世界に作っていくことです。だから、ノートは多く持っていきます。さほどかさばりません。

哲学からの影響

 それにしても、自分編は哲学の影響を受けています。これは去年の夏からの傾向です。元々、存在と無から始まっているから、自分の言葉になっています。

 生まれてきた理由が分からないことも出発点になっている。だから、哲学に答えを見つけようとします。答えと見ると、ないです。ヒントとしてみるとあります。自分の方の概念が強いから、カントの言うとおりにはならない。

 自分の内なる世界へのコメントが多すぎる。皆、似たような内容です。それぞれのコメントに差別化します。なければ切ります、合わせます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

古代ギリシヤ・ローマ膨大な収蔵品をいやになるほど獲得してきた

『大英博物館』より

コレクターの出現と大英博物館

 十万点を超すと言われるギリシャ・ローマの収蔵品の中で、展示されているのはそのごく一部にすぎない。これらの代表的なものは一階に、また二階にも「アウグストウスの肖像」や「セイアンティの棺」など貴重なものが置かれている。

 観光客がかならず立ち寄るのは、パルテノン彫刻群を収めたコーナー。ここは両端に破風とメトープが、また両者をつなぐ長い部屋にはフリーズが飾られている。この部屋に到達する前には、「ペンテシレイアを殺すアキレウス」、「ネレイデスーモニュメント」、「エレクテイオンのカリアティード」などを見るであろう。

 訪れる人々を魅了してやまない大英博物館であるが、これらの収蔵品を手に入れるようになったのは主に十九世紀のことである。しかしすでに、十六世紀ごろから古代の骨董品蒐集は個人レベルでは密かに流行していた。カラヴァッジョのパトロンだったデル・モンテ枢機卿は「ポートランドの壷」など約六百点の美術コレクションを有し、チャールズー世は「うずくまるアフロディテ」を入手したことが知られている。一七五九年に開館した大英博物館も、スローン卿が集めた古書・写本・美術品などが当時の主たる展示品であった。

熾烈な「お宝」獲得競争

 大英博物館にとって大きな転機となったのが、ウィリアム・ハミルトンの存在であった。彼は一七六四年から一八〇〇年までナポリ王国にイギリス大使として駐在し、ヴェスヴィオス火山や発見されてまもないポンペイの調査をして大量のギリシャ陶器や美術品を集め、一七七二年にその一部を博物館に売却した。これ以降、大英博物館は古代史や美術品の蒐集に軸足を置くようになる。そして一八〇五年に「円盤投げ」や「(ドリアヌスの肖像」などのタウンレー・コレクションを購入すると、それらを展示するために博物館の増築が決定された。

 博物館は個人が集めた出土品だけでなく、遺跡や発掘そのものにも目を向けるようになる。最初に注目したのは一八一二年に発掘されたペロポネソス半島北西部のバッセ(ヴァッサイ)のアポロン神殿であった。博物館は一八一五年に同神殿のフリーズニ十三枚をオークションで獲得。翌一六年にはエルギン卿からパルテノンの彫刻群を安く買い、「エレクテイオンのカリアティード」も手に入れた。当初は「略奪品」と評判は悪かったが、それらが展示されるとこうした非難は鳴りを潜めてしまった。

 この時期の博物館の美術品獲得の方法は、決して褒められたものではない。ほかにも、ヴァチカン、ルーブル、ミュンヘンと各地に博物館が作られ、古代の美術品の獲得競争が過熱していたからである。イギリスに「ロゼッタ・ストーン」を奪われたナポレオンは、ヴァチカンから「ラオコーン」をルーヴルに運び(一八一六年に返還)、ミュンヘンはアイギナ島アファイア神殿の破風彫刻を一八一二年に競り落とした。ミロス島で発見された裸像は、フランス海軍士官デュルヴィルの迅速な行動により、現在もルーヅルに飾られている(「ミロのヴィーナス」)。

大英博物館の方針転換と今後

 ギリシャの独立が認められた一八三〇年以降は、出土品の国外持ち出しが公然とはできなくなった。しかしギリシャ以外にも、イタリアや小アジアなど、ギリシャ・ローマ時代の遺跡はたくさんあったのである。大英博物館はこうした地域から、つぎつぎと出土品を獲得していく。トルコ南部で一八三八年に発見された「パヤヴァの墓」を手に入れると、学芸員チャールズ・ニュートンを小アジアの発掘に派遣し、彼は一八五六年に「(リカルナッソスのマウソレウム」の発見に成功した。「セイアンティの棺」は一八八六年に発見されると、ほぼ完全体の遺骨が中に入ったまま大英博物館に納められている。

 二十世紀後半になると、大英博物館は方針を再び変更せざるを得なくなった。出土品の入手には多額の費用がかかり、発見されるもの自体も激減し、宝物探しがきわめて困難になったからである。またメリナ・メルクーリ(映画『日曜はだめよ』の主演女優でギリシャ文化大臣で一躍取り沙汰されるようになったさまざまな国からの返還要求もその理由のひとつである。しかし、そうした要求に屈する気配はない。むしろ、地下倉庫に眠る膨大な収蔵品の分析研究に、これまでの博物館の歴史以上の時間をかけて取り組もうとするようになった。今後、同博物館が発信するさまざまな情報に、我々は注意して耳を傾けなければならない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )