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スペインの家の追い出し

未唯へ

 73.1Kgまでになりました。やはり、水曜日だから。

家の追い出し

 テレビの特集で、スペインは家の追い出しをしているみたいです。それも移民を中心に。そして彼らは、アルゼンチンなどに移住を開始している。

 ギリシャは家の追い出しを今年末まで禁止しています。だから、まだ、人が動いていない。その代わり、銀行への圧迫が強くなっている。

 ギリシャ人は家族の連携が強いので、家がなくなることには抵抗が強い。姪によると、その時点が一番危ない。一気に情勢が変わる可能性を持っている

 家を追い出された、職がないよりも更に不安定になります。彼らにとって、家族が第一優先です。

ハードディスクにビット

 電算部で色々なシステムを作ってきた。自分の数学ロジックをカタチにしたから、プログラマーも理解できなかったから、自分でコーディングを行った。

 システムはキッチリ動きました。なぜ、動いているのか分からないようにしておきました。何しろ、事務のシステムでありながら、ビットでの集合関係をロジックの中心にしました。

 それで、10年間作った感想としては、こんなハードディスクにビットを立てるようなことで、いいのか。

 技術に異動したときに、自分は作る人ではない、ユーザが目の前に居たから、ユーザーをいかに助けるかを目的にした。実験を助けるのではなく、技術員の思考を助けました。そのためにR&Dで分析しました。

サファイアの継承

 サファイアのThink Locally, Act Locallyの本当の意味をパートナーに伝える時かもしれません。

 ケータイの料金にしても、一律やる部分と、それぞれが頑張る部分とに分かれます。これもサファイア構造を持ちます。

 別にEU指令ではなりません。今のEUはThink Locally, Act Locallyを忘れています。自律できるLocalを前提にすることです。

 メーカーに依存していたのではダメです。グローバルに依存せずに、ローカルである自分たちで考えることで、グローバルに支援させる。それが、Think Locally, Act Locallyです。サファイアはそれをカタチにしたものです。

Global、Localの関係

 Global、Local、どちらか一方でやろうとします。ネットワークもそうです。新ネットを作るときも,Hから文句があったので、全て、ローカルにしてやろうかと思った。

 グローバルだけが全てではない。詳細の部分はハッキリ言って、空間そのものです。それに位相を付けたのが、未唯空間です。だから、近傍系もそこから持ってきます。

未唯宇宙

 その広大な空間にいつたどり着けるのか。それも位相の方から。位相から持ってこないとムリですね。感想文ではないのですから。

 そこにおいて、重要な概念は遇発性とそれに伴う複雑性です。これがない限りは、空間は消えないです。

 この進め方自体もアナロジーです。何のアナロジーなのか。数学もアナロジーです。多分、この宇宙のアナロジーです。位相による空間の切り取りです。

 だから、未唯空間に対して、詳細の部分は未唯宇宙です。ただし、宇宙ありきではない。空間からの創出です。

宇宙空間の位相

 では、宇宙のインバリアントとは何か、宇宙の位相とは何か。雑多な所から何を生み出していくのか。

 もしかすると、人間そのものが位相かもしれない。宇宙から動くもので、そちらから見えるものといったら、人間ぐらいしかない。

 内なる世界ではないけど、自分の中に宇宙を取り込んでしまう。これは位相の考え方です。それだけで全てを仕切る、それ以外は全てはじいてします。
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非本来的時間性によって導かれる道徳的類廃

『リスクの社会心理学』より 本来的な時間性と、非本来的な時間性

(2)本来的現存在と、非本来的な現存在の振る舞い方の相違

現存在(人間)のもつ「時間性」が、死を先駆しうるほどの本来的なものであるのか、そうでないのかによって、彼らの振る舞いはおおいに異なったものとなってくる。

第1に、「本来的な現存在」は、究極的な可能性である「死」を先駆的に覚悟することから、生誕から死に至る自身の生涯全体を見据え、その生涯全体の意味を問う傾向性が、「非本来的な現存在」よりも格段に強くなる。そしてみずからが、この「世界」の中に投げ出されている「被投的存在」であることをありありと了解する。それとともに、将来時点における肯定的な個人的利益の獲得「のみ」を目的に据える傾向性が、「非本来的な現存在」よりも低い水準にとどまることとなる。

このとき、みずからの生全体を、さながらみずからの生の外側から眺める力をもつ「本来的な現存在」は、個人的な利益の獲得とは異なる、例えば「善く生きる」「美しく生きる」というような倫理的、宗教的、美的な目的をもつに至る。その結果、「非本来的な現存在」のように、せせこましい利己的な「損や得」にしがみつくような生きざまではなく、真偽、善悪、美醜、聖邪等にも配慮しながら振る舞うことが可能となっていく。

そして第2に、「非本来的な現存在」は、十分に将来を「先駆」する力をもたないため、「利己的利益の増進」という基準でも、十分に賢明なる予期を行うことができず、彼らのいう「合理的な」行動を選択することもできなくなってしまうが、一方みずからの死をすら先駆する力をもつ「本来的な現存在」は、さまざまな意味で将来を先駆することが可能である。それゆえ、「本来的な現存在」は、「利己的利益の増進をもたらす合理性」という、「非本来的な現存在」が「のどから手が出るほど」に欲しいものを、軽々と手に入れることができることとなる。ただし、繰り返しとなるが、「本来的な現存在」は、そうした「合理性」のみでなく、さまざまな倫理的、宗教的、美的な価値観をもつ以上、合理性のみを基準として振る舞うわけではない。

以上、「本来的な現存在」と「非本来的な現存在」を二分して論じたが、実際には、すべての個人が両者の側面をもつ、と考えることの方が妥当であろう。すなわち、本来的時間性と非本来的時間性の双方を各人が携えており、その両者の程度に個人間の差異があるのが、実態と考えられるだろう。

いずれにしても、こうしたハイデガーの議論は、先に紹介した筆者らの「焦点化仮説」に基づく議論と実証的知見に一致するものである。そもそもハイデガーが「気がかり」とよんだものと、焦点化仮説において「注意」と呼称するものとは同様の事柄を意味するものである。

焦点化仮説から演鐸されるのは、次のような事態である。

将来に対して気がかり=注意ができない人々は、「いま・ここ」のことばかりを考え、利己的で、享楽的な生活に従事するようになる。その一方で、将来に対しても十分に配慮できる人々は、他者のことも、伝統的なる事柄にも配慮できる人物となる。これはつまり、他者との関係性軸・時間軸の平面上で配慮範囲の狭い人間は「非本来的」な現存在である一方、同平面上で広い範囲に配慮可能な人間は「本来的」な現存在となりうる傾向が強くなるのである。

ただし、焦点化仮説に基づく心理学的議論よりも、ハイデガーの哲学的議論がより深い洞察を含んでいる。なぜなら、ハイデガーの議論は、濃密な時間性を携えた人々は、「死」を先駆的に覚悟しうるからである、という1点を含むものだからである。

いずれにしてもこうした経緯を踏まえるに、実証を過剰に重視する現代心理学は、前世紀初頭のハイデガーの哲学的議論の到達点にまで、いまだ至ってはいなかったのだということは認めざるをえないである。もちろん、死生観についての心理学研究はさまざまに進められているが、ハイデガーの議論を凌駕しうる、あるいは、それと類比しうるほどの広がりをもつ心理学研究は、少なくとも筆者が知るところでは、なされていない。そうであればこそ、心理学においては、哲学的議論を仮説形成のための基本的理論と見なすという「実証哲学的展開」は、これからますます重視されて然るべきだということはできるであろう。例えば、筆者はいま、ハイデガーの『存在と時間』の議論に基づいて、「本来的時間性」の程度を測定するために、以下のような項目で構成される尺度を用いた実証研究を進めている。

 ・人はいつ死んでもおかしくないと思う。

 ・自分が死ぬなんてことは、まったく想像できない。

 ・「明日、自分が死ぬこともあるだろう」とあたりまえに感じる。

 ・この世の中、何かあっても全然不思議ではないと思う。

 ・何も努力しなくても、きっと自分の人生はうまくいくと思う。

 ・いまさえよければそれでいいと思う。

 ・昔のことは、だいたい忘れる。

 ・何かやるとき、経験があるかないかで、全然違う。

そして、こうして測定される本来的時間性を用いて、ハイデガーが論じた哲学的議論等から演鐸されるさまざまな実証可能な仮説を検証した結果、例えば、本来的時間性をもつ人々は、ニーチエが論じた「運命愛」(運命を肯定する傾向)が強く、かつそれゆえに、主観的幸福感にも間接的な影響を及ぼしていることが確認されている。
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非本来的時間性によって導かれる道徳的類廃

『リスクの社会心理学』より 本来的な時間性と、非本来的な時間性

まず、(リスクヘの態度という考え方のさらに背後にある)「危機的事象への態度」なるものは、早晩、「死への態度」そのものに抜本的に決定づけられている一方、「死への態度」は、ハイデガーがいうところの「時間性」(将来に対する「気がかり」を行いうる力)を携えた「現存在」であるならば所持可能であるが、時間性をもたない「非・現存在」には所持不能なものである。一方で、そんな「時間性」には個人差があり、いまのことばかりに気をとられてしまう人もいれば、将来のことを「きちんと」考えて、節度をもって自制(セルフ・コントロール)できる人もいる。そして、そういう個人差は、彼らが生きていくうえでのすべての指針になりうる「価値観」そのものを決定づけるものである--これが、ここまでで論じた内容のおおよその概略である。

Zずれにしても、以上の議論が暗示しているのは、危機的事象への態度や価値観、そして、それに支えられる「生きざま」は、すべて濃密に関連している、という1点である

そして事実、ハイデガーもまた、上述の「時間性」を論じた彼の主著『存在と時間』の中で、「死に対する態度」によって人間(現存在)の「種類」が抜本的に二分されるということを、直接的に論じている。以下、その彼の議論の概略を紹介することとしよう。

まず、現存在であるならば時間性をもつのであって、将来に対してさまざまな形で関わり合いをもつこととなる。そして、1人の現存在が慮る事柄の中でもとりわけ重大な意義をもちうる事象は、その現存在の「死」である。

しかし、濃密なる「時間性」をもたない現存在は、そうした「みずからの死」にとりたてて重大な関心を寄せず、みずからは早晩、必ず死ぬという事実に目を背けながら生きていく。その一方で、濃密なる「時間性」をもつ現存在は、先々のことをさまざまに考えていくうちに、否が応でもみずからはそのうち死ぬほかないのだという事実から目を背けたくとも背けられなくなっていく。かくして、希薄な「時間性」のもとで生きる現存在と、濃密な「時間性」のもとで生きる現存在とでは、同じ現存在であったとしても、「みずからの死」に対する態度において、天と地ほどの相違が生じることとなるのである。

ハイデガーは、こうした論考に基づいて、みずからの死を徹底的に先駆的に覚悟しうるほどに濃密なる「時間性」を「本来的時間性」とよぶ。その一方で、そうした時間性からはほど遠い、みずからの死について先駆的に覚悟することなどありえようもないほどに希薄な「時間性」を「非本来的時間性」とよぶ。

そして彼は、この「非本来的時間性」こそが、現代人の「道徳的類廃」の根源因なのだとの論を進める。

ここで、本来的時間性を携えた現存在を「本来的現存在」、非本来的時間性のもとでただただ生きさらばえ続ける現存在たちを「非本来的現存在」とよぶとするなら、彼らにとっての現在、過去、未来は、まったく異なったものとなっていく。

表11-1は、そんな相違を図式的にまとめたものである。「非本来的時間性」しかもたない「非本来的現存在」は、確実に訪れるおのれの死から目を背け、目の前に現れ出る諸現象である「現前」に没頭する。そして、将来は漠然とした「期待」として立ち現れ、既在(過去)はもはやないものとして「忘却」されるほかなくなってしまう。かくして、「非本来的現存在」は、将来や既在よりも「現前」をとりわけ重視せざるをえなくなる。そして、「現前」におけるさまざまな刺激を、享楽的に求める傾向性が強くなる。

こうした状態は、例えば、戸田(1992)のいうところの「いま・ここ原理」(いま、ここのことしか考えず、将来や他者のことを一切気づかわないという行動原理)に支配された状態である。あるいは、社会的ジレンマ研究でいわれるところの一切の協力的傾向をもたない完全なる非協力者(藤井, 2003)だということもできる。さらには、新古典派経済学が想定する合理的経済人(藤井, 2009)と、完全に一致した人間だということもできようし、「生の哲学」を主張したオルテガ・イ・ガセット(Ortega y Gasset, 1929)の用語を借りるなら「大衆」ということもできよう。いずれにしても、非本来的現存在は「時間性」をもつ「現存在」でありながら、その「時間性」は希薄で弱々しいものにしかすぎないものであることから、さながら「下等動物」のように、時間性などなき存在であるかのように、この世界の中をさまよいながら生きさらばえる存在なのである。

それゆえ、このような「非本来的な現存在」が仮に将来を先駆することがあったとしても、己の「死」までを先駆することなどはありえない。将来時点における個人的な利益に配慮することが関の山である。つまり非本来的現存在は、せっかくの時間性を、たんなる「利己的利益の増進」にのみ活用してしまっているのである。

一方で、究極の可能性である死に対する先駆的覚悟に裏打ちされた「本来的時間性」を携えた現存在は、究極的な死をはじめとした、将来における「あらゆる可能性」を「先駆」的に気にかけるのである。彼はそれとともに、既在を「反復」的に繰り返し意味づけ、解釈し続ける。そして、その「先駆」と「反復」によってはじめて開かれる、己の置かれた歴史的状況を「瞬間」的に直視するのである。
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