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ソーシャルワーク理論の展開 エコ・システム理論

『社会福祉学』より

システム理論とは、部分と全体が分かちがたく結びついて無数の「まとまり」(システム)を形成し、それらの「まとまり」がまた相互に結びついているという見方に基づいて人間と社会をとらえようとする考え方である。このように部分と全体を有機的に関連づけて理解しようとする視点そのものは、アメリカの人間科学や社会科学全般においては、1930年代頃から台頭した「ゲシュタルト心理学」や「文化とパーソナリティー論」などを通じて発展した視点であり、広い意味では機能主義の伝統に連なるものだといえるだろう。

このような視点を人間と社会の分析に応用すれば、部分と全体、すなわち個人と社会は分かちがたく結びついているのであるから、個人への働きかけと社会への働きかけは究極的には同じものとしてとらえられるし、いずれが欠けてもうまくいかないものとして解釈できる。こうして、個人と社会いずれに働きかけるべきかをめぐって対立していた1970年代のアメリカのソーシャルワークの文脈では、システム理論は分裂しかけた実践を統合する理論的枠組みとして受容されていったという側面があるだろう。また、高度な専門性を追求することによって専門分化していくなかで、1つの専門職としてのアイデンティティをいかにして維持していくのかという専門職集団としてのジレンマを解決するうえでもシステム理論は有益だった。

1940年代から経営学などの組織研究で用いられていたシステム理論を、ソーシャルワーク実践に適用しようとしたのは、ゴールドシュタインや、ピンカスとミナハンである。ゴールドシュタインの著書も、ピンカスとミナハンの共著もともに1973年にアメリカで出版された。また、この頃からジャーメインやサイポリンたちによって、システム理論に生態学の視点を加味してソーシャルワーク実践に適用しようとする動きが生まれ、1980年にはジャーメインとギッターマンの共著によって「生活モデル」(life mode1)として発表される。「システム理論ソーシャルワーク」と「生態学的生活モデル・ソーシャルワーク」は、同じものなのか、違うのかという点では議論もあるが、現在の入門的なソーシャルワーク論においては、エコ・システム理論(ecogical system theory)として、両者は一括して扱われることが多い。

ところでエコ・システム理論は、ソーシャルワークの「理念知」とどのように関わっているのだろう。まず、その人間観についてだが、「システムのなかの個人」「環境のなかの個人」「状況のなかの個人」といった考え方が重視されている。これは利用者個人を責めないという点で、かろうじて「性善説」を維持した人間観だといえるだろう。しかし、伝統的なソーシャルワーク理念からいえば、利用者による積極的で主体的な「状況や環境」への働きかけを期待できる理論でなければならないだろう。エコ・システム理論とも整合的な側面のある「行動変容アプローチ」は、強化子などによる条件づけや、状況や環境を操作することによって、個人の望ましい行動を強化しようとする。もしも個人を、条件づけによって左右されたり、環境に適応するだけの受動的存在としてとらえるのであれば、ソーシャルワークの伝統的な人間観とは矛盾することになる。

また、エコ・システム理論と「社会正義」の接点はきわめて見いだしにくい。エコ・システム理論における「社会問題」とは、「環境と個人の交互作用における不調」、あるいは「社会的汚染」(social pollution)という概念でとらえられ、あたかも水槽内の生態系バランスの崩れのようなものであり、このバランスの崩れをどこまで「社会の不正」として糾弾できるのか定かではない(ジャーメインほか1992)。こうした疑問は残るものの、個人と社会を一体のものとみなして、その双方に働きかけようとするエコ・システム理論は、ソーシャルワークの[理念知]と対立するものではなかったといえるだろう。
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アメリカ新世紀、あるいはテロの時代

『最終兵器の夢』より

二〇〇一年九月十一日、民間航空機四機をハイジャックした十九人の男たちは、ボーイング社製の飛行機を意図的に選んだわけではなかった。ボーイング社が爆撃機から宇宙兵器まで、アメリカの超強力兵器生産における中心的な役割を演じてきたことも、おそらく思考の中にはなかったであろう。飛行機を兵器として使い、何千もの無防備な民間人を殺す案を練っている時、彼らはフランクリン・D・ローズヴェルト大統領の一九三九年の言葉のもつ皮肉を思い浮かべることもなかったはずだ。口ーズヴェルトは、飛行機を使って何千もの無防備な市民を殺すことは「すべての文明人の心を痛めてきたし、人類の良心に深い衝撃を与えてきた」と述べた。ところがその間、ボーイング社の工場の組み立てラインからは「空の要塞」B-17が次々に生み出されていたのだ。第二次世界大戦初期の最強の兵器であったB-17は、じきに「平和の担い手」と名づけられた爆撃機に取って代わられる。「超空の要塞」B-29という名でよりよく知られている、このはるかに強力な爆撃機は、日本の数々の都市を焼き払い、広島と長崎には原子爆弾を落とした。それに続いて、核装備の爆撃機が続々と登場するー-ボーイング社のB-50、B-36、B-47から、クリントン政権時代に巡航ミサイルでイラクを破壊した最新版のB-52まで。しかし、ボーイング機をワールド・トレード・センターやペンタゴンに突入させた十九人の心におよそ浮かばなかったのは、自分たちの行動の結果として、ボーイング社が何十億ドルも儲けるということだったのではないか。

二〇〇一年九月十一日の事件は、アメリカ政府が「アメリカ新世紀」計画を全面的に実行に移す絶好の機会を与えた。これは、超強力兵器とアメリカの想像力の歴史に深く根ざした計画である。アメリカが軍事的優位に基づいて世界覇権を打ち立てようとする野心。それはこれまで種々の条約によって抑制されてきたのだが、こうした条約をブッシュ政権は数カ月のうちに体系的に打ち壊していった。条約の残骸は今やツインタワーの残骸のような様相を呈し、そこから不吉な悪臭を放つのは、危険な空想と現実から成る未来である。

二〇〇一年十二月十三日、アメリカ政府はロシアに対して、弾道弾迎撃ミサイル制限条約から撤退すると公式に通達した。翌月、二〇〇二年一月二十九日の一般教書演説で、ブッシュ大統領はイラクとイランと北朝鮮を「悪の枢軸」として非難。その「大量破壊兵器」が「深刻で増大しつつある危険」を引き起こしていると述べた。イラクは十五年前に大量破壊兵器をすべて破棄し、核兵器はおろか原子力発電の計画さえも捨てたのに対し、北朝鮮とイランは核開発を積極的に続けていた。三国の中で唯一核開発の能力のなかったイラクを侵略したことは、残り二つの国への教訓となったであろう。アメリカの攻撃を避けるには、大量破壊兵器を持たなければならない、できたら核兵器を持だなければならない、と。ほかにアメリカの攻撃を防ぐ手段などないではないか?

二〇〇二年十二月、イラク侵攻のために軍を配備するのと同時に、アメリカは北朝鮮との合意から一方的に撤退すると表明した(北朝鮮は、その合意に基づいて核兵器開発を中断していた)。それが破られたことで、アメリカがイラク侵攻中の二〇〇三年、北朝鮮は核拡散防止条約から撤退する計画であると正式に宣言した。一方、イランは急速にウラン濃縮計画を加速させかが、それは純粋に平和利用のためだと主張した。

北朝鮮とイランに核兵器による抑止力追求の動機を十分に与えたうえで、ブッシュ政権はこうした国々の原始的な核開発計画を口実として用い、ミサイル防衛というブラックホールに何百億ドルもの金を注ぎ込み始めた。その結果、この両国がもたらしかねない危険をはるかに超えて、アメリカは危険な国になった。

このような「ならず者国家」からの攻撃を防ぐ手段としてのみ示されているが、アメリカの壮大なミサイル防衛計画は、アメリカが無敵かつ全面的な世界覇権を勝ち得るための究極の「防衛的」兵器として意図されてきた。弾道ミサイルの攻撃を防げるミサイル防衛システムは存在しない。しかし、アメリカが先制攻撃を仕掛け、敵の兵器庫を破壊した後であれば、防衛は可能だ。破壊を免れたミサイルで敵が攻撃してきたとしても、いつどこからミサイルが発射されるかが明白なので、それを迎撃することは容易なのである。このようにアメリカのミサイル防衛の「盾」の本当の目的は、最も恐ろしい剣を抜くこと。つまり、核兵器による全面的な先制攻撃なのである。

目指すのはその先制攻撃を始めることではなく、あらゆる潜在的な敵に対して武力で威圧できるように、先制攻撃の可能性を示すことだ。これは、ポール・ウォルフォウィッツとディック・チェイニーが一九九二年に表明した戦略だが、その基本がミサイル防衛なのである。「戦略の方向転換が必要である。いかなる潜在的な敵も今後現われないようにすること。そこに照準を合わせなければならない」。この「アメリカ新世紀」の企画者たちの言葉によれば、アメリカが兵器を持つ目的は戦争を抑止することではなく、「潜在的な敵が、地域的・世界的により大きな役割を担いたいと望むことさえ止めさせる」ためのものなのである。
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去年のまとめ

去年のまとめ

 去年は2月までにやることを決めて、NZで深堀して、3月に室に提案した。その結果、インタープリターがいないと言われた。多分、そこでの絶望感が3.11クライシスを招いた。インフラを変えないといけない、世界を変えないといけない。

 それに対して、全然、動かない世界、特にメーカーへの絶望感から、会社を辞める算段をしました。

 そのあとに、偶然、7月から12月まで、行政と大学と企業とのコラボで、2030年の環境社会を考える環境塾にはまりました。内容自体は大したことないです。

 そこで考えたことが重要です。8月に根源的なところを考えました。世界は自分の内側にあるということで、こんなことをやっているという所で、まとめ上げました。

 チームのメンバーは県の職員、産廃業者、ネットワーク屋さんでした。彼らは、業務命令を守っていた。理解されることはなかったが、自分の中ではドンドン、答が出来上がってきました。最終的に、県への報告はメンバーに任せました。私は自分の答に従うことにしました。

 ロバニエミを最後の図書館にするつもりだったけど、図書館を出発点にして、市民活動から世界を変えていく方にしました。なぜ、ロバニエミで出来て、日本で出来ないのかも分かってきました。まあ、そんな状態です。まだまだ見ていきます。

 その間に、「つながる」という形で、メーカーの方も、既存のやり方に不満な部署が、メーカーとお客様をつなげるという所に出てきた。既存の所は動けない状態です。「つながる」そのものは、私のシナリオの範疇です。

ミッション・ステートメント

 ライブラリの拡大:ライブラリ導入の意思は販売店に伝わっていない。次期ネットでは、プル型の利用形態になる。ライブラリをネット上に配置する案を提案していく。

 コラボレーショションの意識付け:当室では動いていないが、「つながる」企画でお客様とメーカー間のコラボレーションが動き出してきた。店舗の活性化につなげる案にしていく。

 ネットワークの進化:次期Sa-ネットの開始時期は震災の関係で、開始時期が半年延びたが、IP電話などのオプションを含めて、2013年の展開に向けて、順調に推移。2010年の販売店ヒアリングの考えを生かせるようにしていく。

 慣例にとらわれない革新的発想:2030年環境社会を検討した結果、スマート社会構築のために店舗の活性化がキーになることが判明

 中長期的な展望を踏まえた企画立案と提示:2014年には、メーカーを含んだ、お客様とのコミュニケーションを提案した。「つながる」で方向づいた。

 適切な状況判断:システムを「作る」限界をもとに、販売店でありモノを「使う」ことを、次期ネットで提案をした。

 決断:次期ネットはイントラネットを販売店が活用できるようにオープン化し、次期システムの開発を助ける

 ねばり強さ:次期ネットに対する販売店要望に対して、項目を決め、室内へ提案したが、実施者が居ない。個々にばらして、展開。

 メンバーの信頼感・活力:社会の動きから、2030年のメーカーの役割を分析して、「つながる」などの影響を先見している
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地域コミュニティをどう作るか

未唯へ

 本当に寒いですね。北極圏仕様の防寒具を着て、歩いている時がホットスポットです。

 それにしても寒い。手がしびれます。手袋を二重にしました。

地域コミュニティ

 3.5の地域コミュニティはあまりにも、文言が似ています。どこで、これらを総合的にしていくのか。まだまだ、地域を知らないからこうなります。地域を成り立たせるのは、地域コミュニティです。それをどう定義するのか。あまり、先に地域コミュニティがあると、論理が逆になります。

 地域を独立させるのは何か。独立心だけではムリです。当然、行動を絞って、その中で以下にコンパクトにしていくのか。富山で行ったことです。地域ではかなりの例ができています。富山はコンパクトシティを電車でつなぐこと。そういったアイデアを連携させることが必要です。

 あとは、エネルギーです。自分たちのエネルギーを自分たちで作らなくてもいい。自分たちで使えるようにすればいいです。

 これは色々な資産も一緒です。持つよりも使うこと。その主体が地域なんです。国でも個人でもムリです。あとは、地域にあるための財産です。図書館も公民館もそうです。町自体もそうです。これは地域の財産です。その意味では大きさが気になります。豊田市は大きすぎます。ロバニエミぐらいが丁度いいかもしれない。

 意識からどのように求心力を求めるのか。エネルギーを使わずに、どうしてやっていくのか。

店舗活性化のイメージ

 カフェ・プロジェクトと生涯学習をくっつけることで、店舗活性化を地域活性化につなげることができる。

 市民意識を作っていくことにも参画させましょう。それぐらいしか出来ないかもしれない。快適なアゴラを店舗に作り出せます。

バラバラなことを活用

 地域には組織がない。バラバラでやっているものをどのようにつなげていくのか。新しい関係です。バラバラなものから答を作っていくのかが、今回の一番のテーマです。それが多様であればあるほど、系としては安定します。いろいろな世界に活用できます。

 ただし、どこまで、この世界が持つかが気になります。やはり、難しいでしょうね。

 ナチのような千年国家はイメージできない。そのまま、同じというよりも、ドンドン変わっていくけど、どう変わっても、皆のところに戻ってくるという仕組みです。

 その時に、どういう人たちがいるかで決まります。だから、裏側の世界、表かもしれない、が必要です。系を安定させる、理論的な世界です。同時に、理論だけでなく、それを見えるようにしていくことです。

 企業のように、別の目的を持ちながら、遠回りして、利益を得るところとどうつながっていくか。

 行政というジャンルも同じです。市民コミュニティと目的が異なります。そこでいかに利ざやを稼ぐのか。利ざやという概念を変えないといけない。お互いに助け合うことで、全体を成り立たせる。
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