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ハイエクの複雑現象の理論

『ケインズとハイエク』より

ハイエクが前半生で打ち込んだ資本理論では、対象とする資本財や労働、消費財が、あたかも物的ないし客観的な存在であるかに描かれていた。けれども物的な差異につきすべての人が識別しうるなら、中央計画当局は価格を操作しさえすれば技術や欲望のあり方について知らなくても適切な資源配分を実現できる。これがラングの解釈したワルラスの市場社会主義経済である。ここでハイエクは、それまでは与件としてきた資本財や労働、消費財にかんする質的ないし主観的な分類に目を転じた。

ハイエクはそのように市場論を転換し深めていったのだが、ではそれはどのような人間観にもとづいていたのか。それは新古典派が想定するような、効用をはじめとする様々なインセンティブを満たすよう計算する経済人とどう違うのか。そもそも生産過程を迂回させるように資本財や労働を移動させるというとき、企業家は何に突き動かされているのか。そうした疑問に答えるかのように、彼は心理学・身体論や自由論の社会思想史、政体論へと踏み込んでいく。その指針となったのが、「複雑現象としての社会構造体」、その一領域としての市場という解釈である。

ハイエクは純粋な資本論から離れた後に、市場を「カタラクシーのゲーム」と呼ぶようになる。これは「知識の分散」にもとづく市場と同義だが、しかしそう称したことで、主流派とは哲学的ないし思想的に次元の異なる経済観を提示することとなった。彼が「複雑現象の理論」と呼ぶのは現在では「複雑系」と一括されるシステム理論である。それが日本で注目されるようになったのはせいぜい一九九〇年代だが、ハイエクはすでに、一九六一年に構想を発表していた。

ハイエクは言う。「……異なる分野の構造体を特徴づけるパターンを再現するために(言いかえれば、そのような構造体の従う一般法則を示すために)定式またはモデルがもたなければならない異なる変数の最小個数」に注目するとき、複雑現象とはその数が比較的多数であるものである。逆に構造体を特徴づけるパターンを再現するために必須の変数が少ないものが「単純現象」で、古典物理学の対象がその代表例である。

市場についてのこのような理解の深まりをハイエクはより一般化し、さらに言語や法といった社会制度も一括して「複雑現象」と呼ぶようになる。複雑現象として人間と社会を解釈しなおすこと、それがハイエクの後半生の仕事の核となり、自由論も思想史も社会主義・ケインズ主義批判も政体論も、すべてはその周辺で構想されることとなる。

ただし注意しておきたいのは、「複雑現象」という言葉は一九六〇年代頃からキーワードとして盛んに用いられるようになったのだが、一九二九年の『貨幣理論と景気循環』でもすでに一部では用いていたように、強調されるようにはなったものの実質的には当初から考慮されていたことである。ハイエクは当初、この「複雑さ」を複雑なままで考察しようとした。その成果が『資本の純粋理論』だったが、そこで行なわれた思考実験は人知の限界を越えるほど面倒なものとなった。そして考慮されてはいたが光を当てていなかった方向にハイエクの市場論が転換するのは「社会科学における知識の利用」から『科学による反革命』あたりで打ち出された商品についての主観的な分類を市場が行うという発想においてであった。それによって「時と所」によって無限に異なりうる企業家の意思決定や資本、商品のうち、何が同じで何が異なるのかの分類が抽象的かつ単純に行われると考えられるようになった。
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数学的に考えませんか

ロバニエミ後の環境

 ロバニエミに集中したので、先週まで呆然としていた。プレゼンも見えてきたの、この膨大な世界をまとめるという壁にも怯えている。

 そこで、援助してくれた奥さんのために、iPad2を買うことにしました。これで年末年始を乗り越えよう。併せて、家の環境を無線LANにすることにした。タブレットにおける無線LANの脆弱さも理解できた。これを販売店ネットワークのインフラを考えていきます。

 こうして、偶然が必然につなげていきます。研究開発部署の時も、展示会で子どもがマックを使ったら、使えたので、技術員の道具にすることを決めました。

数学的に考えるのが、私のミッション

 地域コミュニティを考えると、どうしても近傍系の話になります。地域主権とかかれた本には近傍系に触れたものはありません。数学的なバックボーンなしに説明しています。その理解がない。これは私の武器なのか、それとも単なる誤解なのか。

 エネルギーについても、周辺から始まると述べられている。これは複雑性では当たり前です。なぜ、理論的に述べようとしないのか。また、理論的な説明をしようとする、一方的に断るのか。聞けば分かるはずです。それが堂々と本になって出てくる時代になってきている。今、やるときです。

 各国の歴史を年末・年始に読んでいました。ソ連とかスペインとかフィンランド。歴史と地理は一体化している。時空間の世界です。それらをどう持っていくのかが私の課題です。

ギリシャの姪

 そんな時に、ギリシャの姪になりました。9月以降、ギリシャは暗いから、正月だけでも日本で息抜きだそうです。無印の文房具売り場で偶然に会って、スタバで話し込んでいた。1時間以上、対面で話せる相手は彼女ぐらいです。

冬眠状態

 先の先を考えると、個人は生まれてきた理由を明確にして、行動しないといけない。そんなことを考えながら、周りの人間を見ると、そんなレベルではない。組織に依存しているだけで、何も考えていない。

 奥さんにしても、子どもにしても、そんなれべるではない。ギャップを感じて思考停止に入りました。今は、冬眠状態が続いています。その先が考えられなくなった。

 冬眠のもう一つの理由は部屋の寒さです。空気が冷えて、やっていられない。布団乾燥機で寝ています。私のホットスポットです。

偶然で全てを言えるのか

 私は偶然を信じているし、それが全てだと思っている。それはインターネットでのごまかしという本は面白かった。まだまだ、多くのことがある。集合知も一緒だけど、まだまだ上がある。そう思わせるのがインターネットです。それらの殆どはごまかしです。環境塾でわかったことに一つです。

 自分が得たものが全て、そこから考え出したものが全て、それしかありえない。自分の内の世界では。だから、自信を持って、先に進めばいい。

平和に対する国家の役割

 これは大きいかもしれない。数学の先の世界で社会を考えた時に、超国家とグループのコミュニティを考えた時に、その間の中途半端なものとしての国家は邪魔です。国家の役割は終わったのかもしれない。行政はそういうところに入っていけない。コミュニティの世界とつながった方が平和になります。

 そうした時に、ルーマンの複雑性が出てきます。社会学でのロジックです。これもやらないとダメです。もっと、哲学ではないけど、考えるものに持ってこないと、世の中は変えられない。組織の単純さの中から新しい答を見出さないといけない。
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トポロジーの先から社会を見る

未唯へ

 一ヶ月ぶりのサウナです。まあ、垢落しですね。体重は恐くて測れません。靴履くときに、まためまいです。下を向くのは極力なくしましょう。

プレゼン資料

 ロバニエミへの往復と滞在中はプレゼンの資料を作っていました。

 年末年始はプレゼンを考えていた。というよりも、第8章の先を考えていた。

 数学編については、今まではトポロジーで止まっています。その先進性をこなした上でその先の世界です。それが分かれば、社会編に活用できる。トポロジーはグローバルとローカルを考える時にありがたいです。先を考えた時に、グローバルはさらにグローバルになり、ローカルはさらにローカルになっていく。その考えるのが自然です。

 社会に置き換えると、グローバルの先は超国家になり、ローカルのコミュニティの単位が小さくても済むようになります。個人の単位になるかもしれません。小さなグループの単位になった時に、個人のポテンシャルが要求されます。何のために生まれてきたのか、そこまで行き着いてします。

パートナーの立場

 パートナーについては、次期ネットの資料を作ったのに、説明する機会が与えられなかった。落胆していた。次期システムの当たり前のこと、何も書いてない資料の発表が主だったみたい。電算部は何を考えているのでしょう。

 異動は肝心な人が動かずに、周辺の人間が動いていきました。
 
環境塾

 トルコでの地域コミュニティの放送記事を見つけたので、チームに展開したけど、本質がわかっていない。日本の愛知しか見ていない。

 塾は合宿して、最終の発表資料を作りこんでいた。私の意思は取り下げました。彼らに分かるはずがない。まとまらないので、やめました。これをどこで生かそうかというところです。

 世界の地域コミュニティも考え出しました。これをベースにして、広げていきます。

 環境塾での発表を含めて、自分の意思を相手に擦り寄っていくのはやめました。無意味です。これがスタンスです。

自分の内側と外側

 世界は自分の内にある、ことの逆で自分の内は外側にある。だから、個人事とか身体については無関心です。実際、そうだと思います。そうやって考えると、内側と外側の境目がなくなります。その感覚はなかなかつかめないけど。

環境社会

 環境社会について、半年掛かって分かったのは、今は歴史の変換点にあるということです。それに気づいている人は少ない。気付いた時に聞きに来てもらえば、教えて差し上げます。

ロバニエミ図書館

 ロバニエミの旅行は本当にフリーです。制約がなかった。自由に動いていた。奥さんが一緒だと、全く違ったものになっていたでしょう。

 ロバニエミの図書館は出発点になってしまった。本当は図書館調査の最後の結論にするつもりだった。今後の地域活性化を考えると、これは完全に出発点です。だから、次の頂を考えます。宗教的な感覚も含めます。

フィンランドの感想

 フィンランドとサーミ人、それを観光立国としてやっているかが分かりました。地域での知恵の世界です。

 日本人の女性の忍耐強さ。オーロラを見るために、あれ程、我慢するものなのです。その忍耐力は他に使ったほうがいい。
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