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インターネットは「無限」を捏造する

『未知との遭遇』より

検索エンジンは、インターネット上に置かれた膨大な情報群から、特定のキーワードにかかわるものを自動的に拾ってきて表示します。検索キーワードを複数入れれば、そこから更に絞り込むこともできるし、閲覧数や頻度が上位のものから表示してくれる。だから普通、何か調べものをする場合には、せいぜいが上から数件とか、多くても十数件くらいの参照ページをチェックすれば事足ります。

けれども検索結果には、それ以後も延々とページが続いている。ある数を超えた検索結果をすべてチェックすることは、事実上、不可能だと言えるし、何より時間の無駄です。しかしそれでもネット上に、その事象にかかわる情報が、少なくともそれだけの量は有るという事実だけは間違いない。そうすると、ふと段々と心配になってくるのです。もしや、自分にとって重要な、自分にとって真に有用な情報は、まだ見れていない、もっと後のページにめるのじゃないだろうか。そう思って次々と検索結果のリンクをチェックしていきます。でもそれはいつまで経っても終わらない。どこかで止めるしかない。でも、もしも見るのを止めた次のページに、自分にとって決定的に重要な情報が載っていたら……そんなことはありえないとわかっていても、こんな奇妙な心配(?)を思わず抱いてしまって、ついついいつまでも検索結果を見続けてしまうことが、僕にも時々あります。

もちろん、このような心配は、検索機能を上手に駆使することで、かなりの程度、回避することができますし、誰もがいつでもこんな心配に陥るわけではない。しかし、ここで言いたいことは、ネット検索は、ある情報のエッセンスをコンパクトに得るためのツールであるとともに、その情報の総体の膨大さと遍在ぶりをも同時に表示してしまうということです。検索エンジンというものは、何事かについて何らかの形で僅かでも言及しているインターネット上の「すべて」の情報の在処を一挙に可視化します。上位数件を手早くチェックして「これでわかった!」と思ったとしても、その後もまだまだ延々と続いていることは一目瞭然です。だから、それは「これでわかった!」と「でもこれだけではない?」を、つまり「これだけでいい」と「これだけじゃまだ足りない(かもしれない)」という矛盾した認識を、検索主体に一緒に与えることになる。

でも、そんなのはネット検索以前だって同じことだったのじゃない? そう問いたくなるかもしれません。実際そうです。昔だって、いつだって、何かについての「これでわかった」「これだけでいい」という意識は「本当にそうだろうか?」という不足感への疑いを隠しているものだと思います。しかし前にも述べたように、昔はそれでも、まず「これ」からはじめて、ちょっとずつ掘っていって、どこかで止める(止めざるを得なくなる)しかなかった。止まる瞬間は、現実的な要請や無理矢理の納得といったような至極適当で曖昧な理由で斎されるのだけれど、とにかくそういうものだった。なぜなら「ここまで来たらすべてです」という指標が見つけ難かったからです。しかしある意味で、ネット検索は、その「指標」を明示してしまう。それはあたかも、それらが「すべて」であるかのような「検索結果」を、顕在化し可視化してしまう。そうではないことを誰もが重々わかっていても、次第にネット上の「すべて」は、現実世界の「すべて」と似たような、ほとんど同じことのごとく受け取られるようになっていく。

インターネットとは、われわれが生きているこの「世界」の、言ってみれば「データ的な表象」です。そしてこの意味で、それもまた二種の「世界」と呼んでみることができます。ややこしくならないように後者を「セカイ」と表記することにしましょう。「セカイ」は「世界」に属しているという意味で、その一部ではあっても、イメージ的にはむしろ「世界」に丸ごと折り重なるようにして存在しているものであり、けれどもしかし、たとえば「世界」の「鏡」のようなものだと言ってみても、あるいは「世界」への注釈(群)と呼んでみても、いまいち何かが足りないようにも思える、独自の存在様態を持っています。

検索エンジンは、そんな「セカイ」に見取り図を与えてくれます。だが問題は、「セカイ」は物理的な条件を持つ「世界」とは違って、地図や地球儀のようなものを描けないということです。「セカイ」は本質的に外延を確定できない、不定形なものです。しかし、それでもそれはけっして「無限」ではない。ネット上にアップロードされた情報は、どれほど膨大であっても、常に必ず「有限」です。「セカイ」に置かれたデータの総体から、自分が参照すべき特定のデータを拾い出してくれるのが検索機能です。だから、それは絶対に「有限」な筈だし、事実、検索エンジンには「○○の検索結果約××件」と表示されています。なのに、そうした具体的な数がわかってしまうからこそ、不可避的に「そんなに沢山の全部は無理」という気持ちが芽生えてきてしまう。たとえ「有限」だとしてもキリがない、だったらそれは「無限」と同じことじやないか、というわけです。

すでに述べたように、ネット検索がなかった時代は、自力で手探りで情報を得るしかありませんから、ある事象にかんする有用な情報の総量は、まったくわかっていません。だから原理上はキリがないことになる筈ですが、そうはならず、それぞれの人間が持っている調査・探索の具体的な制約の中で、それなりにベストを尽くす、ということでよかったわけです。明確なゴールが設定されていないので、できるだけやってみるしかなかったし、それでよかった。ところが、ネット時代になり、検索エンジンが登場して、何を調べるにも、まず最初に自分の能力とは別個の、客観的な検索結果が弾き出されるようになった。つまり、かりそめのものではあれ、ゴールが、最長到達点が、外延のようなものが、つまり「すべて」のようなものが、ある具体的な数値を伴ったものとして、目に見えるようになった。
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「すべて」という幻想

『未知との遭遇』より

それは「何事かのすべてを知る(把握する/獲得する)ことの絶対的困難による絶望」ということになるでしょう。時間の経過とともに「すべて」がひたすら増え続けているので、遅れて来た者には「すべて」を把握/所有することがどんどん難しくなり、しまいには不可能になってしまう、少なくともそう感じられてしまう、ということです。

だが、この「すべて」というのがクセモノだと思うのです。いったい「すべてを知る(把握する/獲得する)」とはどういうことなのでしょうか。何をもって「すべて」に至ったことになるのでしょう。ちゃんと考えてみようとすると、よくわからなくなってきます。

彼ら彼女らにあらかじめ到達不可能と判断されている「すべて」というのは、実際に数えてみる前からほとんど計量不能の、言ってみれば「無限」にも近いもののように感じられているのではないかと思うのです。

もう少し繊細に言うと、仮にそれが具体的な数を持っているとしても、そこまで自分が到達するためには決定的に時間が足りない、自分がそのために使える時間よりも、必要だと思われる時間のほうが圧倒的に長いということが、実際やってみたらどうであるのかということとは別にして、最初から歴然としてしまっている、という感覚が、ここでの「すべてを把握することの絶対的困難」の核心です。そして同じことは、それに投入できるお金についても言えるだろうと思います。

ところで、ここにはすでに、幾つかの誤解が挟まっていると思えます。まず第一に、もしかしたら有限かもしれないのに、どういうわけかはじめから「無限」であるかのように受け取ってしまっていること。第二に、そんな証明されざる「無限」を、これから把握するべき「すべて」に直結させてしまっていること。第三に、そんな「すべて=無限」を手にしなければ、それをわかった/知った/所有したことにはならない、と思い込んでしまっていること。そして僕が思うに、これらはどれも同じ根っこを持っています。

なぜかといえば、その頃の僕には「すべて」というものが見えていなかったからです。いや、もっと正しく述べると、その頃の僕にとっての「すべて」とは、現在の「すべて」とは違うものだったからです。

それともうひとつ、僕が若かった頃、今から四半世紀ほど昔には、まず「起源」に遡行して、そこから「現在」までに至る「すべての歴史」を把握する、という試み自体が、はなから無理な場合が多かった。というか、そんなことを考えること自体が、ほぼナンセンスなことだった。なぜなら「歴史」を確定するために参照可能な「記録」が、まだほとんど整備されていなかったからです。

話を戻すと、現在の「すべての把握の絶対的困難」は、時間が沢山流れたせいで数多の出来事、すなわち「歴史」が「堆積」してしまったから、というよりも、どこかのタイミングで、「すべて」イコール「無限」という短絡のスイッチが押されたからなのではないか、と僕は考えています。そしてまた、そのイコールを「絶対的困難」と感じてしまうような心性が、それ以降、刻々と醸成されていったのではないかとも思うのです。これが、先ほど述べた“根っこ”ということです。

では、そのタイミングとはいつなのでしょうか? 僕の考えでは、それはかなりはっきりと示すことができます。端的にいって、それはインターネット検索が広がってきてからだと思います。
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トゥルーエンド ハルヒの世界

『未知との遭遇』より

『涼宮ハルヒの憂僻』という人気ライトノペルがあります。これはアニメのTVシリーズにもなっていて、その中に「エンドレスエイト」というエピソードがありました。「エンドレスエイト」というタイトルは、八月の夏休みのある期間が延々と繰り返されることからきています。これは原作は短編なのですが、アニメ放送では、八週間にわたって、絵コンテや登場人物の服装を変えるなどしながら、しかし基本は同じ話を八回繰り返す、という前代未聞の試みをしました。登場人物たちはやがて時間のループ現象が起きていることに気付き、そこからどうやって抜け出すか、という話になっていくのですが、実際には約二カ月にわたって、ほとんど同じ内容が繰り返されたわけです。これをテレビでやるのは、かなり大変だっただろうことは想像に難くなく、相当に覚悟のいることだった筈です。

しかし、この試みは視聴者から、そして他ならぬ『ハルヒ』のファンの多くからも、大批判を浴びることになってしまいました。時間のループから抜けられないというエピソードをきちんと描くために、ちゃんと八週間かけて律儀にループしたということは、筋が通っているのですけれども、まあやり過ぎといえばそうだったのかもしれません。「エンドレスエイト」というタイトルなので、観ている側も三週間ぐらい経つと、どうやら本当に八週続けるつもりらしいということに気付くわけです。そのあたりから、かなり強い批判が寄せられたようです。

僕は「エンドレスエイト」という作品自体よりも、この現象が興味深いと思います。「エンドレスエイ卜」はなぜ、批判されたのでしょうか。ループからいかにして抜け出せるのか、ループから遂に脱するというカタルシスを得るためには、ループが実際に反復されないと効果がないので、僕はドラマツルギーとしても演出意図としても、八週間にわたる放送は理に叶っていたと思います。でもダメだった。でもどうしてダメだったのでしょうか?

ゲームの世界で「マルチストーリー/マルチエンディング」がごく普通のことになって以後、ある時期から今度は「トゥルーエンド」という言い方が出てきました。どういう意味かというと、プレイヤーの選択に従って複数のエンディングが用意されてはいるけれども、その向こうに、製作者側による「真実のエンディング」が隠されている、ということです。いろんなラストが選べるのだが、最後の最後には本当の結末が待っている。「トゥルーエンド」とは、いささか奇妙な言葉です。本来、ストーリーには基本的に一個の結末しか存在していなかった。つまりあらゆるエンドはトゥルーなエンドだった。だからわざわざトゥルーと言い添える必要もなかった。ところが、マルチエンディングという事態が生じたせいで、トゥルーという形で「真の結末」が回帰してきたわけです。ゲームプレイヤーは自らの選択による幾つかのエンディングを経た後で、おもむろに「トゥルーエンド」を体験して、それでやっと本当に物語が終わったのだと思う。

僕は、トゥルーエンドを求める心性、トゥルーエンドというものが要請されてくる動機は、「可能世界」的な世界観と不可分だと思います。さしあたりはこうであるのだが、こうではなかったかもしれない。ああであったのかもしれない。あるいはまた別の可能性があったのかもしれない。そうした無数の可能性の中で、良くも悪くも最終的には決定不能になるというのが、「マルチストーリー/マルチエンディング」の特徴です。しかし、一回のプレイで選べるルートは、あくまでも一通りです。そこでは無限に近い「可能な世界」の群れと、その都度決定的な一個の「選ばれた世界」が、対峙させられている。そうなると、むしろ自分の選択=意志を超えたところにトゥルーなエンドがあって欲しい、本当の結末があって欲しいという願望が出てくる。真実の、正しい唯一の結末があって欲しい。つまり「可能性を完全に収束させて欲しい」という欲望が出てきてしまうのです。

だからこそ、トゥルーエンド無しに、ほとんど同じエンディングがひたすら繰り返される「エンドレスエイト」は批判されたのではないでしょうか。そこでは繰り返しがまったく無意味なことに見えるからです。リトライやリプレイは、最後の最後に用意された「真の結末」のためにあるのでなければならない。そして重要なことは、この明らかに保守的とも思われる欲望が、むしろ「可能世界」的な想像力のリミットから惹き起こされてきたのだということです。
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