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コミュニティに内在する「平和力」の復興と活性化

『平和構築・入門』より

現在の南部スーダンにおけるコミュニティ・レベルの紛争と平和に焦点を当てることにより、本章では以下のことが明らかになった、2005年1月に締結されたCPA以降、ナショナル・レベルでの平和はおおむね維持されており、国連と国際社会の支援の下に大規模な戦後復興と開発のプログラムが進行している。しかし、コミュニティ・レベルでは、平和自体が確立していない地域が多数ある。こうした地域では、人々は戦後復興と開発の恩恵に浴することができず、苦境の中で生活している。また、政府、国連機関、国際NGOのいずれもが、こうした事態に対する認識と対応がきわめて不十分である。

2011年1月に実施された住民投票では、有権者の圧倒的多数が分離独立に投票した結果、南部スーダンは同年7月9日に新しい主権国家、南スーダン共和国として独立を達成した。国家建設と国民建設を進めるうえで、コミュニティ・レベルでの平和と安定の確立は必須である。そこで重要なのは、コミュニティに内在する平和を求める意志--ここでは「平和力」と呼ぶ--に注目する「下からの平和」のアプローチである。

本章で見てきたように、コミュニティ・レベルでの平和構築は一筋縄ではいかない困難な作業である。この事業が成功するためには以下の2つの条件がみたされる必要がある。①主体は紛争の当事者たちであること。②中立の立場である調停者が存在すること。調停者は、紛争の細部と全体について詳細で正確な知識を有していなければならない。また、通信と交通の手段と会議の開催などに必要なある程度の資金も必要である。この役割を果たせるのは、国際NGOとローカルNGOの連合体であろう。

コミュニティ・レベルの平和構築事業を実施する際、出発点にすべきなのは、紛争状況から利益を得ている者は少数であり、大多数の人々は日常生活において大きな不利益を被っているという事実である。内戦前に実践されていたコミュニティ間の共存関係は、人々の生計維持にとって不可欠であった。こうした近い過去の生きられた記憶は、平和力にとって重要な資源であり、意図的に再活性化する必要がある。国や地域の違いにかかわらず、人々は正常で安定した生活を希求しているはずであり、この真理こそ私が主張する平和力の基盤である。人々の平和力に注目した「下からの平和」とは、複数の村落と民族集団から構成される「地域社会」を再構築することにほかならない。

「内発的発展論」は、援助の対象とされる社会に内在する開発・発展への内在的で固有の力に注目するものであった。既存の主流的な開発の理論と実践に対する、最も根底的で鋭い批判であったとともに、代替的(オルタナティブ)な開発モデルを提起するものであった。平和構築論において、下からの平和論は、いわば開発論における内在的発展論に相当するものと考えている。

最後に、下からの平和は上からの平和と別個に存在するのではなく、両者は有機的に接合されるべきであることを指摘しておく。たとえば、教育と医療の改善、家畜の健康状態の改善、人間と家畜に十分な飲料水を供給することは、武力紛争の軽減に役立つだろう。また、人々から信頼される機動力を備えた警察の確立と配備も重要であることはいうまでもない。つまり、コミュニティ・レベルでの平和構築の実現には、上からと下からのアプローチを総合した包括的なアプローチが必要なのである。国連と国際NG0、そして南部スーダン政府に課せられた責任は大きい。
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インドネシアの人ロボーナス

『経済大国インドネシア』より

タイ、ベトナムより長く続く人ロボーナス

 人ロピラミッドか、ある一時点における一国の人口構成をいわば「輪切り」にしてみせてくれるとすれば、人口構成の時系列的な変化から浮かび上がるのが「人ロボーナス(demographic dividendまたはdemograph bonus)」である。

 人口の構成要素を「年少人口(○~一四歳)」「生産年齢人口(一五~六四歳)」「高齢人口(六五歳以上)」の三つに区分し、それぞれが総人口に占める比率の時系列的変化を描いたのか図2-2である。この図で、生産年齢人口か総人口に占める割合(生産年齢人口比率)が上昇していく局面が「人ロボーナス」である。同じことは、年少人口と高齢人口を合わせた「従属人口」を生産年齢人口で割った比率(従属人口比率dependency ratio)が低下していく局面、すなわち、生産に従事しない従属人口を生産年齢人口が背負わなければならないその負担か軽くなっていく局面としても表される。

 人ロボーナスとは、言い換えれば、出生率か低下し始め、生産年齢人口か総人口に占める比率が高まることによって経済成長か促進される効果のことである。

 この概念を一九九七年に提唱した人口経済学者アンドリュー・メイソソは、生産年齢人口の比率が上がったことか一国の丁人当たり所得を増加させたことを、アジア諸国の分析から明らかにした。そして、その背後に各国の人口抑制政策かあったと指摘した。

 図にみるように、インドネシアでは、一九七〇年頃から人ロボーナス期間か始まっている。これはスハルト政権による人口抑制政策の開始時期と一致する。人ロボーナス期間の終点については複数の研究による推計があるが、推計結果は二〇二五~三〇年あたりに集中している。だか、既存の推計には二〇〇〇年代に出生率か上がったことは織り込まれていない。その影響を勘案すれば、インドネシアの人ロボーナス期間の終点は「早くて二〇三〇年、より遅い可能性もある」とみておくのが妥当であろう。

 既存の二つの推計を併記する形で、人ロボーナス期間の平均終了時期か早い順にアジア主要国を並べたのか図2-3である。日本の人ロボーナス期間は、T九九〇年頃にすでに終了した。二〇一〇~一五年には、タイ、韓国、中国か相次いで終了すると予測されている。インドネシアの人ロボーナス期間は、この三国やベトナムよりも長く、より遅くまで続くとみられる。インドネシアより長く遅くまで続くのは、インドとフィリピンである。

人ロボーナスが意味するもの

 インドネシアの人ロボーナス期間は、一九七〇年頃から二〇三〇年にかけて六〇年ほど続く可能性か高い。現在はその始点から四〇年あまりの地点にある。これから二〇三〇年までの約二〇年間、インドネシアは生産年齢人口比率か高く、従属人口に対する負担か軽い、人ロボーナス効果の大きい局面にさしかかる。

 まさに馬力の大きなエンジンを装着した車のようなもので、次の二〇年はインドネシアにとって先進国へのキャッチアミフに最も適した時期になる。これか、人ロボーナスを用いた分析から得られる第一の含意である。

 インドネシアか今、持続的成長のチャンスを眼の前にしていると私がみるのは、一つにはこの人ロボーナスのゆえである。

 だか、注意しなければならないのは、人ロボーナスが高成長を自動的に保証するものではない、という点である。「ボーナス」という語感は、人口構成がちょうど適切な形になりさえすれば、あたかも天から追い風が吹いてきて成長を後押ししてくれるようなイメージを与えるか、そういうことではない。馬力の大きなエンジンは、それを適切に使いこなす使い手や作動環境か整ってこそ威力を発揮するのであって、そうでなければ無用の長物、それどころか過重な積荷と化してしまう。

 つまり、人ロボーナスが成長促進効果をあらわすには、条件かあるということだ。その条件とは、まず、そもそも人ロボーナスを発生させる前提である出生率の低下を継続させることである。そして、その結果として全体に占める比率か上がってきた生産年齢人口に対して就業の機会を与えることである。この二つを実現するための政策や制度構築か、政府には求められることになる。具体的な政策については後で触れよう。

 人ロボーナスの期間は経済成長のチャンスだが、それは適切な政策や制度かあってこそ活かすことかできる。もしこの期間に人ロボーナスをうまく活かせなければ、その後に改めてキャッチアップしようとするのは難しくなる。これが人ロボーナスの第二の含意である。
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平和に対する国家の役割

未唯へ

 クルマで道を迷うと大変です。元の道に戻るのに30分掛かりました。コンビニを通り過ぎただけなのに、素直にバックせずに、方向感覚を使って、勝手な方向に走っていた。これも自分の生き方に似ている。

予言

 エジプト第二革命にはイスラエルが絡むはずです。エジプトの民衆のイスラエルへの警戒感はかなりのものです。

平和に対する国家の役割

 平和を求めるのであれば、国家という単位を忘れることです。国家間の利害関係ではなく、自分たちの地域コミュニティの利害関係です。国家はあくまでも、地域コミュニティを支援することに徹することです。

 考えるベースを下に下げることです。それによって、その戦争のニーズがあるかどうかです。そうすると、こちらの地域コミュニティとあちらの地域コミュニティが敵対することが必要かどうかが分かってきます。

民族性と宗教性

 ややこしいのは、民族性と宗教性です。民族という、一つの大きな地域コミュニティと言う側面を分解させることも可能です。

 宗教は他の面のコミュニティに変えてしまいます。宗教で戦うことは意味がない。どっち道、従うことはできないのだから。

冬眠中

 何もしなくても、時間は過ぎていきます。そして、身体は変わってきます。それにしても、夢を見ることの多いこと。

未唯空間のプレゼン

 土日で、未唯空間のプレゼンのチェックをするために、シートを持ち歩いていたが、結局、一度も見なかった。自分が小さく見えるので、見たくなかったのが、本音です

 未唯空間はいじくると、その大きさゆえに時間だけが取られます。プレゼン資料もロバニエミを挟んで、一ヶ月ぐらい掛かってしまった。

 未唯空間のプレゼンの表現をいじくることで満足することは止めましょう。結論に向かいます。

塾で分かったこと

 彼らが分かるはずがないと言うことは分かっています。根本がちがっています。行政も企業も「仕事」の範囲から抜け出せない。思考が制約することで安心してしまう。私の意見を聞ける土壌にはない。

 では、どうして分からせるか。いくら簡単にしても、理解することはムリなのも分かります。簡単にするためにプレゼンを作ったが、ロジックが膨らんでしまって、一つの結論への説明だけでも、彼らには理解できそうにない。

 やはり、ThinkとActを分けることです。考えていること、そこから出た答を行動に移してもらう。考えまで分かる必要はないです。

 これは、一種の神の啓示のようなものです。
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