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アゴラから市場へ

『コラテラル・ダメージ』より

デモクラシー(民主主義)はアゴラで行われる活動の形態であり、アゴラはポリス〔古代ギリシアの都市国家〕の二つの領域であるオイコスとエクレシアを結びつけたり、切り離したりする媒介的な空間であった。

アリストテレスによれば、オイコスは家庭を意味し、私的な利害が形成され、追求される場であった。一方のエクレシアは「公共」を意味する言葉で、民衆によって選出され、指名され、くじ引きで選ばれる執政官で構成される民衆の評議会のことも指した。評議会の役割は開戦や講和などポリスの全市民に影響が及ぶ共通の事柄を処理し、都市国家の市民の共同生活を統括する枠組みと規則を守ることにあった。呼びかけや召集、集まりを意味する動詞rleinから派生したエクレシアは当初から、会合して語り合う場であり、民衆と評議会の出会いの場、すなわち、デモクラシーの場であるアゴラの存在を前提とするものだった。

アゴラは都市国家の中の物理的空間であり、そこで評議会が毎月一回ないし数回すべての市民を招集して、共通の問題について討議して決定を下したり、さらにはそのメンバーを選挙したり、くじ引きを行ったりした。ところがポリスの枠組みや政体が都市の境界を越えて拡大すると、当然そうした手続きは維持できなくなった。つまり、アゴラはもはや全市民が出席して意思決定過程に関わる公共の場ではなくなったのである。しかし、このことによって、アゴラの成立の基礎となった目的や、その目的を追求するアゴラの機能がその意義を失い、その目的を永遠に放棄しなければならなくなったわけではない。デモクラシーの歴史は、その当初の物質的基盤が消滅した後に、その目的と作業を続行しようとした取り組みの歴史として物語ることができる。

言葉を換えれば、デモクラシーの歴史はアゴラの記憶によって始まり、それに導かれて軌道に乗ったとも言えよう。アゴラの記憶の保持と再生がさまざまな道筋に沿って進められ、異なる形をとっているとも言えるし、そう言った方が適切かもしれない。オイコスとエクレシアを媒介できるたった一つの方法と言えるものは存在せず、どのモデルにも欠陥や難点かおる。そうであるがゆえに、二〇〇〇年後の今日も、私たちは複数のデモクラシーということを念頭に置いて考える必要がある。

アゴラの目的(表明される場合もあるが、ほとんどの場合暗示される)は、(オイコスを基礎にした)「私的」な利益と(エクレシアが扱った)「公的」な利益の恒久的な調整を図ることであり、その目的は今日も変らない。アゴラの役割はそうした調整の基本的な必要条件を提供することでありそれは今日も同じである。すなわち、個人・家族の利益の言葉と公共の利益の言葉の間で翻訳作業を行なうことがその役割である。基本的にアゴラで達成されることが期待され、望まれる事柄は、私的な関心や欲望を公的な問題に移し変え、また逆に、公的な関心事を個人の権利や義務に移し変えることだった。したがって、政治的な枠組みとしてのデモクラシーの成熟の度合いは、こうした翻訳の成否、円滑さの度合いによって測られる。すなわち、それは、間違ってデモクラシーの必要かつ十分条件とみなされている、すべてのデモクラシー、そういうものとしてのデモクラシーの一つもしくは別の手続の忠実な遵守によって測られるのではなく(ょく見られるケースだが)、その主な目標がどの程度達成されたかによって測られるのである。

実際に意思決定のプロセスに参加して意見表明を行なう市民が、その成否と円滑さを評価することのできる「直接民主主義」の都市国家モデルは、近代に復活したデモクラシーの考え方にも応用できることが明らかになった。そのため、近代の政治理論は、それによって政治的な枠組みとしてのデモクラシーを評価できる代替的な基準、すなわち、アゴラの目的が適切に達成され、その機能が適切に機能していることが論じられ、その徴候が示される指標を発見し、発明しようと努力した。それらの代替的な基準の中でもおそらく非常に一般的なものが量的なもの、すなわち、法律の制定過程での市民の意見表明に代わる「代表」民主制のもとで、選挙に参加する市民の割合であろう。しかし、そうした間接的な参加の割合が指標として有効かどうかについては意見が分かれている。とりわけ、一般市民の投票が支配者の正統性の唯一の許容できる源泉に変わり始める一方で、市民の意見と表現の自由を尊重し、守ることを気遣う政府よりも、権威的で、独裁的で、全体主義的で、専制的な体制の方が明らかに選挙の際に高い投票率(したがって、公式の基準からすれば、支配者の政策に対する広範な支持)を誇示することができる。今日、デモクラシーを規定する特徴が詳細に説明される際に、その力点が、選挙の投票率から、意見や表現の自由の度合いにシフトする傾向にあるのも決して不思議ではない。その一方、消費者がマーケティング・ポリシーに対して本当の影響力を発揮するために動員する(そして動員する傾向にある)二つの主要戦略が「声(意見)」と「出口(退当)であるとするドイツ出身の政治経済学者アルバート・O・ハーシュマン(一九一五-)の考え方を引用して、市民が公の場で異議申し立てを行う権利や、それを行う手段とそれを聴衆に届ける手段の提供、承認できない主権の枠組みから退去する権利こそが、政治体制が自らの民主的な資格証明を獲得するために備えねばならない必須条件であると指摘されることも多くなっている。
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コミュニティと居住福祉 新しい共同を求めて

『居住福祉学』より

地域社会の原型は、「自給自足的な局地的小宇宙としての村落共同体や都市共同体が社会の基本形態をなしていた前資本制社会」の中にみることができる。この時代における人々の生活のありようから考えて、基本的な地域社会を取り出すことは困難なことではない。村落共同体の局地的な封鎖性を打破して成立した資本制社会においては、全国的な規模で商品や資本流通が拡大することによって、農村における前近代的な階層が分解し、その膨大な農村流出人口をもって広範な労働市場が展開していくことになる。さらに、その動きは、企業活動の広がりに対応して、人々の生活空間も拡散し、社会諸階層の生活形態の相違に応じて、それぞれに主要な地域社会が分化するといった事態が生じる。こうした傾向は、資本主義の発展、さらに成熟にっれて一層激しいものとなり、地域社会は今日のようにきわめて多義的なものとなったのである。

政治学者の神島二郎は『近代日本の精神構造』において、50年代までの日本の農村と都市、地方と大都市との特有の連関構造をとらえ、そこでは、西洋的図式にみる農村を第1次集団-ゲマインシャフト=信頼に満ちた親密な共同生活とし、それに対置する都市を第2次集団-ゲゼルシャフト=相互に独立した人間たちの機械的な集合体、人工物-とするとらえ方は、日本社会には該当せず、むしろ都市的場面に第1次集団的結びつきが持ち込まれている状態を指摘した。それが、「都市の中のムラ」としての町内会、会社組織、県人会の中にすぐれて顕在化していると見たのである。神島は日本社会の基底をなす既成秩序を「第1のムラ」(日本社会の伝統的な統合方式の典型としての自然村、秩序原理である民間信仰としての神道主義、長老主義、家族主義、身分主義)と、そしてその擬制的延長を都市社会の中の「第2のムラ」と名づけている(神島[1961])。しかし、こうした日本社会の既成秩序は、60年代の高度成長期を挟んで大きく変化し、現実的な説明力を欠く状況が生まれてきた。つまり、大規模な人口流出による農村社会の変化とムラ秩序の実質的崩壊が、「第1のムラ」の存立基盤を失わせることになる。そして、高度経済成長期を境に、日本から「第1のムラ」(自然村)は、もはや存在しないとの判断を示すことになる。

この高度経済成長期(1970年代)以降の大きな社会変動は、地域の人間関係の側面でも大きく作用し、コミュニティのインフォーマル・システムのゆるみや少年犯罪・非行問題・児童虐待等青少年問題の深刻化、家族やコミュニティの扶養能力の低下をもたらした。家族が個々に孤立し、とりわけ子育て中の若年夫婦世帯や障害者・高齢者の要介護者を抱えた家族の間で、孤立や孤独が意識され、その解決が否応なしにコミュニティの再形成や家族関係の現代的とらえなおしを求める声となって現れてきている。家族が個人化し、地域社会の匿名化か進行し、自治会等地縁組織が衰退する中で、親密さや信頼関係の崩壊が顕著である。しかし、他方では、新しい市民活動(NPOやボランティア活動等の非営利活動)の台頭も見られる。これら市民活動の要素には、信頼と互酬の規範が内在している。それは、地域コミュニティにおける「つきあい」や信頼関係が互酬的な生活習慣を普及させ、地域社会の多様なネットワークを強化し、それがまた信頼を生み出すといった信頼、規範、ネットワークの循環メカニズムを意味している。

信頼には、面識のある人に対する信頼と面識のない人に対する一般的な信頼がある。信頼の水準は、競争力や民主主義の質を規定する。すなわち、互いの信頼が薄い組織だと、品質や納期に関する情報を集めるのにコストがかかるが、信頼の厚い組織では、そうした取引コストを抑えることができる。

もう1つの要素は、互酬(助け合い)の規範である。日本の伝統社会に永らく蓄積されていた「お互いさまの思想」である。それは、直接的な見返りを求めない他者への奉仕の気持ちと併せて、将来自分か困難に陥ったときに他者が助けてくれるかもしれないという期待も含まれている。この思想は、伝統的な地縁組織の中に残影しているかのように考えられているが、実は新しい市民活動の活動原理の中にも見出すことができる。市場での交換とは異なり、ボランティア活動やNPO活動の互酬は、近年、介護や子育ての分野で、お互いの必要を充足する資源として活用されている。元気な高齢者が共働き家庭の子どもたちの夕食や勉強、遊びの相手をするなど、介護や子育てのコミュニティービジネスがそれである。

今までの研究では、地縁組織の住民活動と新しい市民活動を別々に見てきたが、これからの持続可能な福祉社会の形成には、これら両者を結合させていく方法をとる必要がある。まず、地縁組織の活性化である。自治会や町内会、婦人会や老人会などの地縁組織が重要な役割を担うことになるが、現在では大都市部や地方の集落においても、その加入率が低下するなど衰退化か著しい。他方、福祉や環境、教育など多様な市民活動を行う非営利組織(NPO)の台頭には目を見張るものがある。
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社会のプレゼン資料チェック

未唯へ

 久しぶりに、3時起きです。冬眠からそろそろと動き出します。

社会のプレゼン資料チェックで感じたこと

 DNA的な発想にならざるを得ない。プレゼン資料のチェックしていても、部分に全体がかぶさって来ます。全体に関することが毎回出てきます。くどい。けど、それらはDNAです。目と耳と鼻は違います。そう見えます、DNAは一緒です。

 まとめていても、同じところをループしています。そんな感じがしています。自分の小ささを感じます。だけど、それは大きさにつながります。あまりにも物事を知らないからでしょう。そのための詳細なんですけど。そこまでたどり着いていません。

 全体ロジックは全体を表現しないと、全体ではないけど、DNAのおかげで、ローカルでも、全体を超えるものができてしまう。それらの共通部分が全体なんでしょう。だから、全体はいくらでも変えられます。

 だけど、市民中心というけど、その市民は全体よりも大きくないといけない。その意識が持てない以上は、それはお題目です。では、それでいいのかと言う所からすると、やはり、知識から意識を持たないといけない。生涯学習は自分のためのモノです。その時に、変えるという目標を持たないといけない。

 意識を持つためのハードルがあまりにも、個人にとって高すぎる。色々な本、一万冊とは言わないから、千冊を読めば、意識は変わります。本というのは著者の存在を賭けた、意識そのものです。それといかに格闘するかです。

DNAとトポロジー

 トポロジーという考えは、結局、DNAで考えることと一緒です。ローカルから積み上げて、ローカルが全体を超えて、カバーリングします。

 今の世の中で画期的なものはDNAを使った、トポロジーを使った考え方から出てきたものです。ローカルの発想で全体を作り上げていくことは自然です。

特異点と多層化

 今まで、特異点は邪魔者と思っていたが、どうも多層化ですね。次元が異なるだけです。それはそれでくっつけばいいです。

 アルバでの無線LANのコンセプトを見ても分かるように、自分たちのグループと他のグループに分かることです。他のグループにはそれなりの存在理由があります。それは別の世界に生きています。

 だけど、そこに位相がないと混在して、滅茶苦茶になります。やりたいこともできなくなります。お互いが邪魔します。位相で整理して、多層化してしまいます。

 多分、知恵も一緒なんでしょうね。こっちの意見とあっちの意見、それぞれのところで空間を作っていけばいい。それでメンバーがやり取りします。

 環境問題でCO2の影響をどうみるかは、どちらでもいい。真実にどちらが近いかを競えばいい。それより、重要なのは、存続条件です。それでもって、どうするかです。それを競えばいい。それによって、相手の空間をカバーリングしてしまいます。

 上から決めるのではなく、下から決めるのですが、下のDNAのところの意識と知識がどこまであるかです。それを個人をやるのは大変だから、中間として、地域コミュニティを作り出すのです。

 国とか国の連合をその中から作っていけばいいです。価値観が同じ地域をつなぎ合わせます。そうでないと、安定しないです。それぞれが不安定なことで、全体が安定するという、空間になります。全体のコーディネートするのが、どこかです。

 人間の知恵以外ないけど、知恵の部分をどう作り出すのか。

日本での組織

 今は、国というものを作ったから、組織というもので、支配と従属で全体のバランスを作っています。日本の場合はこの関係が強すぎる。だから、上も動けないし、下も動けない。

 もしかしたら、外国の物まねをすることです。環境政策はドイツ辺りのパクリが多いです。それに、日本の特質が入るからヤバイです。
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端っこにいる人の意識と知識

未唯へ

 明日は身辺整理です。パソコンには向かないようにしましょう。まあ、それにしてもどうでもいいことです。

 今日は2時間早く、会社を出ます。豊田市の無印が明日からお休みです。

パートナーの次期ネット

 パートナーはGMに渡しましょう。自分が何を考えているかをまとめるものに集中させます。出口がないけど。私がやりたいのは地域の活性化。そのあとの新しい民主主義です。そのために、2015年までに何をするかです。自分の内なる社会を外なる社会で生きましょう。

 それと行動分析は止めます。今日もなぜ、7時45分から来ていたのか。どうでもいいことです。とりあえず、31日までは話をせずに、早く帰ります。

 別にあと三年、これで暮らそうとは思っていない。パートナーは来年にはいなくなるでしょう。今年、居なくなったと思えばいい。とりあえず、今週は口を利くことは必要ないです。

端っこに居る人

 今は、あまりにも端っこにいる人たちを相手にすることはできない。そんなことをやっていても、この会社は変わらない。この世界も変わらない。歴史も変わらない。それで意味があるのですか。

 世界の片隅で生きているという感覚の人間にとってもたら、行政への意見を言う、パブリックコメントにしても、何も出てきません。

 自分の周辺の文句を言っても、全体が変わるかというと、変わらないです。意識が全体に及んでいないと、意味が持ちません。その意識が持てない、組織に対して従順が求められていると思っている以上は、それは反逆です。

 端っこに居るとか真ん中に居るとかではなく、単に生きているということです。生きているミッションです。

 自分が見聞きしていることから、全ての論理を作っていかないといけない。マスコミはダメです。環境塾の時も、意見はいくつもある。それぞれのフィールドの利害関係で答は変わってきます。それらを聞いて、自分の考えていることとマッチングを掛けるかです。

 それには、ものすごく、意識が必要です。そのために図書館がある。それを活用していない。本がある。それも活用していない。

 自分の問題として、捉えられていない。そんなことをやっている暇があったら、という論理です。それで自分のことをやっていることで、全ての利益が持っていかれるとか。おおもとが覆されます。

 原子力が一番分かりやすいかもしれない。あれで結局、何が起こったのか、何でああなったのか、それに対して、非難していたものをいかに排除してきたのか。

 次のことが見つからない。そのためかもしれない。前との関係でやっていく。敗戦となれば、価値観は変わる。あのクライシスでなぜ、価値観が変わらないのか。

 だけど、環境専門家はあれで、自分の考え方を変えざるをえなくなった。言っていることを変えています。その瞬間に立ち会ったのが、環境塾の一つの成果です。

冬眠から出ようか

 こうなったら、穴から出ましょう。啓蟄です。常に未唯空間に漂っています。

 まずは、何にも囚われない証しに、紙を全て捨てます。全て、未唯空間で考えていきます。

 ネットワークの次のステップへ行きます。パートナーとは異なる世界です。
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