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地中海経済圏

未唯へ

 本当に話すことがないですね。明日はどうなるか。明日は、今日、無印で買った、小型ノートを使いましょう。いざとなったら、この中身を出せるようにしておきます。

 ロバニエミにシフトします。その時の生活を一ヶ月行います。だから、ICレコーダーとノートです。話すことが出来ないときはノートに描きます。明日はその実験です。

 豊田市まで、歩いていたら、教会風なところで結婚式をやっていました。車に乗って、出発するけど、ぐるっと回って帰ってくるだけです。

地中海経済圏

 ポルトガル、イタリア、ギリシャ、チュニジアは皆、地中海圏です。地中海経済圏を構想します。地中海圏にはイスラエルも入ります。多様な国家群です。地中海圏の方が海続きです。平板です。

 フィンランでは、朝の5時くらいで働いていた。そんな勤勉な連中とやったら、価値観が違いすぎます。価値観が異なるものがくっついても、いつまでも同じです。資本投下してもムダに使われるだけです。

 新通貨はギョロ目です。

 エネルギーもアフリカのサハラ砂漠の太陽から持ってこればいい。交通手段に船が入ります。それによってコストを下げます。ヨットも含めます。サハラ砂漠を開発の中心とします。後はナイル川です。徹底的に再開発をします。
 
 EUでは、南欧が悪いことになるけど、それは違います。価値観が異なるものを一緒にするからです。地続きだからといって、ヨーロッパと思うからです。それらを旧ヨーロッパに売って行きます。東欧から、人を以上させます。暖かさが魅力になります。

 環境と観光を二つを産業とします。地中海には豊かな自然があります。ついでに海軍とか軍備力も産業にします。紛争の真ん中にいます。ネタには困らない。軍事力の市場はアフリカです。ソマリアなどがゆったりと暮らせるようにする。そこでの資源を一緒に作り出していく。エネルギーの資源開発を中国なんぞにやらせずに、地中海でやる。ただし、エリアは北緯10度よりも上に眼底させます。

 地中海が真ん中にあれば、CO2は気になりません。地中海を人質にします。その気になれば、海峡を封鎖して、内海にできます。

環東シナ海経済圏

 日本も環太平洋ではなく、環東シナ海です。こちらの方が近いです。裏から見ていきます。そうすると、シベリアの広大な台地も我々の範囲に入ります。まだ、原始的な世界です。5千人ぐらいで別の語学圏を持って居たりします。温暖化になれば、シベリアは使えます。

 環東シナ海圏では、ロシアから、シベリアとハバロスクと択捉を離します。その代わりに、北極海を渡します。日本の中でゾーン分けするよりも、はるかに可能性が高いです。

北極海経済圏

 北欧は元々、海でつながっています。アイルランドも。北極海が開ければ、そこは使えます。

 岡崎図書館借りた10冊です。やはり、岡崎図書館には軽いものしかない。

  291.0『私の日本地図③下北半島』
  304『ニュースと歩く』
  146.8『松井紀和の「スーパービジョン」』 うまくいかない音楽療法セッション・音楽活動のために
  292.9『ハバロフスク』 編集局長のコラム
  291.3『プランツ・ウォーク』 東京道草ガイド
  336.3『As One:individual action collevtive power』 目標に向かって1つになる
  589.2『1950-2011 STYLE BOOK』永遠のファッションアイテム
  235.0『パリ・コミューン(上)』
  235.0『パリ・コミューン(下)』
  509.6『大震災のとき! 企業の調達・購買部門はこう動いた』 これからのほんとうのリスクヘッジ
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20世紀環境史の結論

『20世紀環境史』より

人間が自分たちのためにつくった壮大な社会システムやイデオロギー制度は、人間の活動に対して以上に環境に対して否応なく大きな影響を与えた。二〇世紀のアイデア、政策、政治構造の渦の中で最も環境に影響を持ったものは、絶対不可欠とみなされた成長と(それと関係がなくはない)安全に対する不安であり、これら二つが世界中の政策を支配した。両者とも当時の知的風景と政治的な展望を示す立派な特徴であり、ともに二〇世紀の想像力と制度への影響力を強固にした。両者、しかしとりわけ成長第一主義のほうは、人口や技術、エネルギーや経済統合などの同時代的なトレンドと軌跡に一致した。実際、アイデアや政策が成功する(広く受け入れられる)ためには、これらのトレンドと合致しなくてはならなかった。

開かれた社会における国内政治は、権威主義的な社会における国内政治より、市民を悩ませる環境問題に対してもう少しよい反応を見せることが、とりわけ一九七〇年以後に分かった。しかし、そこには市民が望んだ環境的慎重さに対するはっきりとした限界があった。政治システムに関係なく、地方レベルから国際レベルまであらゆるレベルの政策立案者は、明確な現在の危険(および可能性)に対してより素早く反応し、環境問題のような徐々に大きくなるような心配事には反応が鈍かった。経済の衰退や戦争での敗北などといった予測は大いに国民の注目を引くが、汚染、森林伐採、気候変化などはそれほどの反応を引き出すことができない。もっと就職先を、もっと税収を、もっと強い軍隊をなどといった目標はどれも即効的な誘惑の力を持つが、もっときれいな空気をとか、もっと環境の多様性をといった目標には魅力がなかった。

しかし、一九七〇年までに新しい変化が進行していた。われわれが便宜的に工業化社会と呼んでいるシステムー相互に連動していて、相互支援的で、(共進化する)社会的、イデオロギー的、政治的、経済的、技術的なシステムーーぱ、従来の産業の正当性と抜け目のなさに疑問を呈するいくつかの運動を生み出した。これらの運動の中には技術や富、巨大な組織を非難し、工業化社会に対するアンチテーゼを突きつけたものもあらた。そうではなく、環境問題の解決策として、より多くのより良い技術と組織を求め、持たざる人々のために富を求めた運動もあった。今までのところ、これらの新しい運動はどこをとってみても限定的な影響しか及ぼしていないが、まだまだ始まったばかりのものである。毛沢東政権下の中国で長く外務大臣を務めた周恩来は世知に長けた人物だったが、フランス革命から一八○年後に革命の意義について質問されたとき、「意見を言うにはまだ早すぎる」と答えた。近代の環境保護主義はまだ三五年しか経っておらず、結論を下すのにはまだ早すぎる。

二○世紀に目撃された環境変化--規模、程度、多様性は様々だが--には複数の相互に補強しあう要因があった。最も重要な直接的な原因は経済活動が巨大に膨らんだことであった。その影にあるのが、エネルギー利用の急成長と人口の急増だった。経済成長が環境と密接な関係を持つ理由は、二〇世紀の技術史、イデオロギー史、政治史にある。これらの歴史(筆者が省いたその他の歴史も含めて)は相互に作用しあっている。そして、これらの歴史は環境史を決定づけ、環境史によって決定づけられている。

この複雑な問題について立ち止まって考えてみようとする人はほとんどいない。生存競争、権力闘争、稼いでは消費する慌ただしさの中で、自分たちの行動や考え方が自然に及ぼす影響について考えてみようなどという市民はほとんどいないし、そんな統治者はさらに少ない。環境保護に市民が関心を寄せるようになった、一九七〇年以後でさえ、公開講演や政治演説で支配的だったのは簡単な善悪の寓話だった。この文脈では、環境にもたらされる影響は、主に予期しなかった結果から派生するものであり続けた。多くの特定の結果はある意味で偶然だった。しかし、人間がもたらす影響と作用を増やすような一般的な傾向--本書で様々な事例によって描かれた、人間がもたらす影響力と衝撃の増加--は偶然ではない。それは、たとえ意図したわけではなくても、ヒトの歴史の軌跡によって決定づけられたのである。-それではどうしようか。
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浪費の世紀の特徴

『20世紀環境史』より

地球上の環境変化は地球という惑星が誕生したおよそ四〇億年前から始まる。われわれ人類は、約四〇〇万年という人類史を通して地球環境を変えてきた。しかし、二〇世紀ほど環境に変化をもたらした時代はかつて存在しなかったのである。

あらゆる天文学的、地学的な営力の中でも、限石衝突と火山活動は、われわれが現代において目撃したものよりも過激な環境変化を引き起こしたであろう。従来、人間にはそれほど大きな力がなかった。ところか、二〇世紀は人類史の中で初めてわれわれが未曾有の強さと、広さと、速さで生態系を変えた世紀となった。地球史の中でも、二〇世紀ほどの規模と速度で変化が生じた時代は数少ない。アルバートーアインシュタインはよく知られているように「神が世界とサイコロゲームをしていると信じる」ことを拒んだ。しかし、二〇世紀において人類は、ゲームのルールを全く知らずに、地球とサイコロゲームを始めたのである。

人類は、全く意図することなしに、地球上であまりにも巨大で制御することすらできない実験を行った。それはやがて、二〇世紀史の最も重要な局面として現れるであろうと私は考える。第二次世界大戦、共産主義、識字率の向上、民主主義の拡大、あるいは女性解放などよりも重要なものとしてである。二〇世紀がいかに特異な浪費の世紀であったかを知ることは、過去をより深く長期的な視点で捉える手助けとなる。

環境史において、二〇世紀は環境変化をもたらす様々なプロセスが急加速した特別な世紀として意義づけられる。このプロセスの多くは新しいものではない。有史以来われわれは木を切り、鉱石を掘り、廃棄物を生み出し、穀物を育て、そして動物を狩ってきた。近代以後の人類は以前にもましてこうした行為を行い、そして一九四五年以降、たいていの場合において、その度合いが増してきたの‘である。人為的に引き起こされたオソン層の破壊のような、二〇世紀に新しく発生した環境変化は少ないかもしれないが、多くの場合、二〇世紀に生じた変化はその規模と強度において群を抜いていた。

時々、量の違いが質の違いになることがある。二〇世紀の環境変化もそうであった。変化の規模と強度が非常に大きかったため、千年もの間ローカルな関心事であったものがグローバルなものになった。その一例が大気汚染である。五〇万年前に初めて火を使用して以来、われわれは局地的に空気を汚染してきた。ローマ時代には、地中海で行われていた鉛の製錬が北極の大気を汚染した。しかし、近年の大気汚染が非常に総合的かつ大規模になったので、全世界的に大気の構成物質を変えてしまった(第3章を参照)。このように規模の変化が状況の変化をもたらすのである。

それとは別に、人間の行動と同様に、自然システムにおいてもまた闇値やいわゆる非線形効果が存在する。T九三〇年代に、アドルフーヒトラーのドイツはオーストリア、ズデーデン地方、そしてチェコスロバキアの残りの地域を、激しい抵抗を引き起こすことなく併合した。しかし、一九三九年の九月にヒトラーかポーランドを併合しようとしたとき、彼自身とその行動、そして(一時的に)ドイツ自体を滅ぼすことになる六年間の戦争が勃発した。知らないうちに1彼はリスクに気づいてはいたがー闇値を越え、非線形効果を引き起こしたのである。同様に、熱帯大西洋の水温がある程度上昇しても、ハリケーンが発生することはない。しかし、水温がいったん二六度を超えると、(リケーンが発生する。単に漸進的な増加によって閥値が越えられ、スイッチか押されるのである。二〇世紀の環境史が過去の世紀と異なっている理由は、単に環境変化が大きく速くなったからではなく、強度の増大がいくつかのスイッチを押したからである。たとえば、漁獲量確保のための過度の努力が大洋でのいくつかの漁業を壊滅させた。多くのこうした強度の増大が集合すると、地球に根本的な変化をもたらすような何か重大なスイッチが押されてしまうかもしれない。そのことを誰も知らないし、今後もそれが実際に起こるまで誰も知ることはないだろうー-少なくともその時までは。

この章は、環境変化を引き起こすいくつかの人間行為の長期的な歴史を分析する。その期間の長さは情報の有無によって事例ごとに変わる。問題となる行為とプロセスは簡単に測定できる場合もあれば、できない場合もある。データの信憑性もまた問題にせねばならない。こうした様々な問題があるにもかかわらず、二〇世紀がいかに特別な世紀であらたか、そしていかなる点で過去のパターンと決定的に違うのかということに関して、何らかの判定を下すことは可能である。
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アテネの環境の歴史

『20世紀環境史』より

アテネは自動車の登場より二五〇〇年前に建設された。しかし、アテネも深刻な公害問題を経験し、アテネ人はその問題を何十年もの間、「雲」と呼んできた。山地が三方から都市を囲んでおり、四番目の方向は海に面している。熱逆転が春と秋に発生する。ロサンゼルスと同様、アテネはスモッグの形成に理想的な、日当たりの良い気候を有する。

現代のアテネは、一八三四年にギリシャの首都になった後に、現在の形となった。一八三〇~一九二〇年の間に、アテネの人口は一万五〇〇〇人から五〇万人へと増加し、その後、ギリシャの軍事的冒険「一九一九~二二年の希土戦争」の失敗によりアナトリアからの避難民が流入したので、人口はすぐに倍増した。一九六〇年代初頭までにアテネの人口は二〇〇万人、一九八〇年までには三〇〇万人に達していた。そのときまでに海と山地の間の土地のほぼすべてが占拠されており、そこに国の人口の三分の一が居住していた。

大アテネは長い間、特にピレウス近郊において、ギリシャの産業に大きなシェアを占めてきた。塗装業、製紙業、化学工業、皮なめし業、鉄鋼業、造船業、そしてさらに多くの産業-一九六〇年までにギリシャ産業の半分-‐-が、首都圏に押し込められていた。大部分の工場は小規模のものであり、・規制されておらず、エネルギー効率が悪かった。一九五〇年以降に飛躍的に成長した電化は、都市西部にある化石燃料を燃焼させる発電所を基盤としていた。

家庭暖房がそれらに加わった。アテネは、一九二〇年の時点では主に木材と木炭を燃やしていたが、その後、一九三一年の大恐慌までには、次第に輸入された石炭を使い始めた。第二次世界大戦とギリシャ内戦(一九四〇~四九年)によるさらなる混乱の後、アテネはエネルギー基盤をゆっくりと、輸入石油と高煤煙炭である国産の褐炭へと移した。T几六五年以前、工場や家庭の煙突はアテネの汚染物質の大部分を生み出し、それらは煤煙や二酸化硫黄の形をとった。もっと悪いことは、まだ起こってはいなかった。

自動車は、一九五五年以降にアテネに定着し始めた。世界初の地下鉄のうちの一つであるアテネの地下鉄は、一九九七年までは一路線しかなかったため、ほとんどのアテネ人にとっては、陸上交通の代替手段が全くなかった。アテネには一九六五年にI〇万台、一九八三年までにI〇〇万台の自動車か存在した。ギリシャ人は自動車を長期間使い続けたので、自動車の大部分は老朽車となり、明るいアテネの日光の中に過剰なスモッグ成分を吐き出していた。都市の無計画な成長は、迷路のような街路パターンをつくり出し、交通渋滞の一因となった。昼寝の伝統は、アテネが毎日四回のラッシュアワーを持つことを意味した。一九七五年以降、常にアテネの自動車のかなりの割合が、交通量が少なくなるのを待ちながら、ギアを外してアイドリングを続けていた。一九九〇年代後半まで、アテネのバスの多くが東βlyロッパから輸入されており、悪名高い汚染源となっていた。これらすべてが結びついて、乗り物一台当たりの排ガス量を最大にした。

時折もやのため視界が曖昧になることは、アテネでは少なくとも一九三〇年代から起こっていたが、「雲」は、一九七〇年代になって初めて現れた。媒煙と二酸化硫黄のレベルは、実際には一九七七年以降低下したため、汚染に対する規制は結局、目立たない政治的課題となった。しかしスモッグは存続し、一九七五年以降に顕著となった。なぜなら、アテネが経済的に繁栄し、ほとんどの家庭が自家用車の所有を切望するようになったからである。最悪の事態は一九八七年の熱波のときに襲来し、死亡者数は二〇〇〇人を超えた。一九八〇年代後半のオソン濃度は、一九〇〇~四〇年までの濃度の二倍であった。自動車の規制は、媒煙や二酸化硫黄の放出を規制することよりも厳しい政治的課題であった。

「雲」は、一九八一年の選挙においてギリシャの政治に入り込んだ。そのとき、社会主義政党(PASOK‥全ギリシャ社会主義運動)が、おそらく編されやすい人々の票(アテネの有権者のごく一部)を確保しようとして、三年以内に大気汚染を根絶するという信じがたい約束をした。PASOKは勝利し、工業燃料の燃焼の制限(一九八二年)、低鉛ガソリンの導入(一九八三年)、自動車のナンバープレートの奇数・偶数に基づいて一日おきに都市中心部での自動車運転を禁止する規制の制定(一九八三年)を行った。裕福なアテネ人は、二台目の自動車を購入することで対応した。排出量検査は一九九〇年代前半に行われた。しかし、これらの対策や、その後の対策は十分ではなかった。一方ではアテネの地理上の運の悪さが原因であり、他方では汚染防止法の施行が緩いままであったのが原因である。一九九〇年代初頭までに、アテネのスモッグはロサンゼルスの二~六倍の濃度を記録した。

ロサンゼルス、アテネ、もしくは他のほとんどの場所では、市民の大部分が自動車の運転を制限してスモッグを少なくすることよりも、自動車を運転してスモッグを吸い込むことを好んだので、都市のスモッグは存続した。スモッグの存続にはさらに二つの理由があった。すなわち、公共交通の脆弱さと自動車エンジンの技術である。これら二つに関して、市民はより少ない選択肢しか持っていなかった。
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