『法然の編集力』より
法然が『選択本願念仏集』のなかでおこなっているのは、一方を選び、他方を捨てるという「選択」ではありません。すでにのべたように、さまざまな価値を導き出すための仏教的な方法を少しずつ多重に選び取りながら重ね合わせてこれを絞り、その絞った視点をもって他の価値観を読み替え、そこに思い切った断章取義を加えながらぐいぐいと前に進んでいくという「選択」なのです。
それにしても多重に取捨選択するとはどういうことなのか。すこし話が逸れるようですが、パソコンの話を例に出してみます。
法然には、このマルチウィンドウ型の情報処理能力やウェブブラウザーに似た情報選択能力が、生きた状態ではたらいていたのではないかと思います。法然は一冊ずつの経典や解釈書を読んだのではなく、マルチウィンドウ的に読んだのです。また、みずからがブラウザーのようになって、数多の経典や注釈書を通過しながら情報スクリーニングして、そのブラウザー動向のヒストリーをレジストレーションできたのです。
一方、法然はこれらの動作をすべて信仰に結びつけるために、法然独白のカーソルをことごとく“心仏カーソル”にしていったのです。いわば法然はこういうパソコン的な多重選択術を開発できたのではないかと思うのです。私はそれを、あえて法然のブラウザーと呼びたいときがあります。
ともかくも法然の選択は、「多重微妙選択」という言葉であらわすことができるように思います。『選択本願念仏集』は、その構成の全体がいわば多重選択的な分岐構造になっていて、法然のブラウザーは、相互にたいへん酷似し、近接しあうもののなかからスラロームするがごとく選択をすすめていくのです。あるいは、次々にあらわれる夥しい隣接情報や界面情報のあいだを高速で擦り抜けていくようにもなっているのです。ですからたいへん多くの情報を通過していきながらも、何かをデリートすることはないのです。それでいて革新的な部分の縮約が確実にすすんでいくのです。
それでは、そういったコンピュータっぽいメタファーを借りながら、あらためて『選択本願念仏集』に使われている言葉を眺めてみたいと思います。今度は文中の用語に注意してみます。
冒頭では、聖道門と浄土門とを比較して後者を「選択」していますが、法然は聖道門をまるきり否定するようなことはしていません。往生を重視するならば浄土門を選ぶといいと言っているのであって、聖道門については「閣いて」という言葉をつかっています。法然のブラウザーは、あきらかに聖道門を通過しているのですが、それは「閣」という情報処理の扱いを受けるのです。
それは、正行と雑行の対比でも同じです。ここではブラウザーは正行を「選択」していますが、やはり雑行を排除することはせずに、投げ捨てるようにするのです。はなから手にもたないのではなく、いったんは手に取ったうえで選ぶことを避ける。ですから、ここでつかわれているのは「拠」という漢字です。
さらに「正行」には、読誦・観察・礼拝・供養といったさまざまな方法があるのですが、それらはあくまで「助業」として「傍ら」におき、とりわけ称名念仏を「正定業」としなさいと続けます。この「傍らにおく」というのがすこぶる法然らしいところです。正視はしないが脇目では見るというところです。法然のパサージュとでもいうべきで、まことにユニークです。
このように、法然のブラウザーを動かして文章を読んでいくと、ここに綴られる浄土に往生するプロセスそのものが、多重微妙選択状態になっていることが如実になってくるのです。数ある教義を次々に擦り抜けて、つまりは大半のインタラクティブなインターフェースを通過して、そのうえでそれらすべてを共鳴させうる称名念仏を選択するという方法です。これはやはりパサージュです。
ですから『選択本願念仏集』には批判や否定の言葉がほとんど出てきません。というよりも、法然にとって捨てるものなどないのです。デリートがないのです。それなのに法然のブラウザーは界面を次々に擦り抜けていき、そのたびに「選択」が進んでいくという構造になっている。弁証法もなければ、否定の神学もない。ところが気がつくと、専修念仏と阿弥陀仏だけがすべてを擬き、共振させ、共含有させていたということになっていくのです。
法然はざっと八万四千の法門からこのような選択をしたといわれていますが、この数はウェブサイトの質量としてもちょっとしたものです。法然はコンビニやスーパーの商品を無視したのではないのです。そこに「生と死のあいだの出来事」のための選択を惜しみなく作動させていったのでした。
かつて『選択本願念仏集』を読んでいたとき、私はとても懐かしいものが思い出されるような気がしたものでした。それは少年のころにとりくんだ鉱石ラジオや無線でした。チューニングがとても難しく、周辺の周波数に乗っていた情報をちょっとずつとりこんでいくのが不思議だったのです。私が法然のブラウザーに感じるのは、この感覚にも近いのです。
こういった感覚は、同じ鎌倉新仏教でも栄西・日蓮・道元・親鸞ではめったに味わえません。文章としての味や思想書としての深みは道元に及ぶものはなく、過激なラディカリズムでは日蓮が圧倒し、その含意の奥行きからすれば親鸞こそが上というべきなのですが、けれども、法然にはそれらすべての端緒を決定するための、全プロセスを踏査した相互参照性のようなものが高速度に動いているのです。ただ一人、法然だけが見せてくれる驚くべき編集力であり、驚くべきテキストです。
法然が『選択本願念仏集』のなかでおこなっているのは、一方を選び、他方を捨てるという「選択」ではありません。すでにのべたように、さまざまな価値を導き出すための仏教的な方法を少しずつ多重に選び取りながら重ね合わせてこれを絞り、その絞った視点をもって他の価値観を読み替え、そこに思い切った断章取義を加えながらぐいぐいと前に進んでいくという「選択」なのです。
それにしても多重に取捨選択するとはどういうことなのか。すこし話が逸れるようですが、パソコンの話を例に出してみます。
法然には、このマルチウィンドウ型の情報処理能力やウェブブラウザーに似た情報選択能力が、生きた状態ではたらいていたのではないかと思います。法然は一冊ずつの経典や解釈書を読んだのではなく、マルチウィンドウ的に読んだのです。また、みずからがブラウザーのようになって、数多の経典や注釈書を通過しながら情報スクリーニングして、そのブラウザー動向のヒストリーをレジストレーションできたのです。
一方、法然はこれらの動作をすべて信仰に結びつけるために、法然独白のカーソルをことごとく“心仏カーソル”にしていったのです。いわば法然はこういうパソコン的な多重選択術を開発できたのではないかと思うのです。私はそれを、あえて法然のブラウザーと呼びたいときがあります。
ともかくも法然の選択は、「多重微妙選択」という言葉であらわすことができるように思います。『選択本願念仏集』は、その構成の全体がいわば多重選択的な分岐構造になっていて、法然のブラウザーは、相互にたいへん酷似し、近接しあうもののなかからスラロームするがごとく選択をすすめていくのです。あるいは、次々にあらわれる夥しい隣接情報や界面情報のあいだを高速で擦り抜けていくようにもなっているのです。ですからたいへん多くの情報を通過していきながらも、何かをデリートすることはないのです。それでいて革新的な部分の縮約が確実にすすんでいくのです。
それでは、そういったコンピュータっぽいメタファーを借りながら、あらためて『選択本願念仏集』に使われている言葉を眺めてみたいと思います。今度は文中の用語に注意してみます。
冒頭では、聖道門と浄土門とを比較して後者を「選択」していますが、法然は聖道門をまるきり否定するようなことはしていません。往生を重視するならば浄土門を選ぶといいと言っているのであって、聖道門については「閣いて」という言葉をつかっています。法然のブラウザーは、あきらかに聖道門を通過しているのですが、それは「閣」という情報処理の扱いを受けるのです。
それは、正行と雑行の対比でも同じです。ここではブラウザーは正行を「選択」していますが、やはり雑行を排除することはせずに、投げ捨てるようにするのです。はなから手にもたないのではなく、いったんは手に取ったうえで選ぶことを避ける。ですから、ここでつかわれているのは「拠」という漢字です。
さらに「正行」には、読誦・観察・礼拝・供養といったさまざまな方法があるのですが、それらはあくまで「助業」として「傍ら」におき、とりわけ称名念仏を「正定業」としなさいと続けます。この「傍らにおく」というのがすこぶる法然らしいところです。正視はしないが脇目では見るというところです。法然のパサージュとでもいうべきで、まことにユニークです。
このように、法然のブラウザーを動かして文章を読んでいくと、ここに綴られる浄土に往生するプロセスそのものが、多重微妙選択状態になっていることが如実になってくるのです。数ある教義を次々に擦り抜けて、つまりは大半のインタラクティブなインターフェースを通過して、そのうえでそれらすべてを共鳴させうる称名念仏を選択するという方法です。これはやはりパサージュです。
ですから『選択本願念仏集』には批判や否定の言葉がほとんど出てきません。というよりも、法然にとって捨てるものなどないのです。デリートがないのです。それなのに法然のブラウザーは界面を次々に擦り抜けていき、そのたびに「選択」が進んでいくという構造になっている。弁証法もなければ、否定の神学もない。ところが気がつくと、専修念仏と阿弥陀仏だけがすべてを擬き、共振させ、共含有させていたということになっていくのです。
法然はざっと八万四千の法門からこのような選択をしたといわれていますが、この数はウェブサイトの質量としてもちょっとしたものです。法然はコンビニやスーパーの商品を無視したのではないのです。そこに「生と死のあいだの出来事」のための選択を惜しみなく作動させていったのでした。
かつて『選択本願念仏集』を読んでいたとき、私はとても懐かしいものが思い出されるような気がしたものでした。それは少年のころにとりくんだ鉱石ラジオや無線でした。チューニングがとても難しく、周辺の周波数に乗っていた情報をちょっとずつとりこんでいくのが不思議だったのです。私が法然のブラウザーに感じるのは、この感覚にも近いのです。
こういった感覚は、同じ鎌倉新仏教でも栄西・日蓮・道元・親鸞ではめったに味わえません。文章としての味や思想書としての深みは道元に及ぶものはなく、過激なラディカリズムでは日蓮が圧倒し、その含意の奥行きからすれば親鸞こそが上というべきなのですが、けれども、法然にはそれらすべての端緒を決定するための、全プロセスを踏査した相互参照性のようなものが高速度に動いているのです。ただ一人、法然だけが見せてくれる驚くべき編集力であり、驚くべきテキストです。