スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

あほう鳥①&第二部定理一三系

2019-01-11 19:08:33 | 歌・小説
 「化粧」は「わかれうた」も収録されている「愛していると云ってくれ」というアルバムの中の楽曲です。このアルバムの中にはほかにも僕が聴いてみたり口ずさんだりする歌があります。今回はその中から「あほう鳥」を紹介します。
                                     
 奇妙なタイトルと思われるかもしれませんが,これは歌い手である「あたし」とおそらくはつきあっているのだろう「あんた」のことを指示しています。

     あたしはとても おつむが軽い
     あんたはとても 心が軽い
     二人並べて よくよく見れば
     どちらも泣かない あほう鳥


 あほう鳥が鳴くのか鳴かないのかは僕は知りません。ただこのふたりはあほう鳥ではあっても泣かないあほう鳥なのです。

     あたしはいつも ねぐらを探す
     あんたはいつも 出口を探す
     二人あわせて 二つにわれば
     どちらもいいとこ あほう鳥


 よくてアホウドリだという表現は,分かったような分からないような表現だと思います。ただ,アホウドリがなぜこんな名前をつけられているのかといえば,簡単に捕まえることができる鳥だからです。その意味では,おつむが軽くてねぐらばかりを探している歌い手の方は,確かにアホウドリのように簡単に捕まえられてしまうのかもしれません。

 排泄が第二部定理一二だけで説明される現象であると想定すれば,それは人間の「中に起こること」ですから,身体corpusが移行期にあるときは必然的にnecessarioその人間の精神mens humanaのうちにその観念ideaがあります。そしてここでいう排泄の場合は僕たちは大抵はこの様式に則してそれを認識します。だから僕たちの精神が,自分の身体が排泄への移行期にあると表象するimaginariときには,現に僕たちの身体はそうした移行期にあることになるのです。
 実は僕たちがトイレトレーニングが可能であると思っているとすれば,それはこのことを前提としているのです。そしてこの定理Propositioから第二部定理一三すなわち人間の精神は自分の身体の観念であるということが帰結するのですから,僕たちは精神は身体の観念であるということを前提として,トイレトレーニングを課している,あるいは課されているのです。いい換えればトイレトレーニングの第一歩目は,自分の精神が確かに自分の身体の観念であることを知るという点にあるといって過言ではないのです。スピノザの哲学の中で,こうしたトレーニングが人間にとって可能であるということを示しているのは,第二部定理一三系であるといえるでしょう。
 「この帰結として,人間は精神と身体とから成り(hominem Mente, et Corpore constare),そして人間身体は我々がそれを感ずるとおりに存在する(Corpus humanum, prout ipsum Sentimus, existere),ということになる」。
 単に人間は精神と身体から構成されている,いい換えれば精神と身体が合一した一個体であるだけではないのです。僕たちの身体は,僕たちの精神がそれはあると感じている通りに存在しているのです。とりわけ,第二部定理一二でいわれているようなことであれば,単に身体があると感じられている通りに存在しているというだけでなく,身体がそのような運動motusをしていると感じている通りに存在しているのです。
 これで,トイレトレーニングという一種の身体的機能の獲得の学習について,それは単に人間の身体の運動と静止quiesだけで説明できるような学習ではなく,思惟作用が必然的に要求されている学習であるということ,かつそれはある人間の精神はその人間の身体と同一個体であることを前提とした学習であるということは理解できたと思います。
コメント
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