スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

蒲生氏郷杯王座競輪&移行の方法

2019-01-28 19:13:09 | 競輪
 昨日の松阪記念の決勝。並びは吉田‐武田‐大塚の東日本,竹内‐浅井‐舛井の中部,村上‐神田の近畿で野田は単騎。
 浅井がスタートを取って竹内の前受け。4番手に村上,6番手に野田,7番手に吉田で周回。残り3周のホームの出口から吉田が上昇。バックで竹内の前に出て誘導の後ろに。中団の選手が続き,4番手に村上,6番手に野田,引いた竹内が7番手という一列棒状に。残り2周のホームの出口で竹内が自転車を外に出すとバックから発進。吉田を叩いて打鐘。今度はだれもスイッチすることができず,4番手に吉田,7番手に村上,最後尾に野田の一列棒状に。バックから吉田が発進。これを浅井が牽制。最後尾にいた野田がインをするすると上昇して直線の入口では浅井の内へ。直線はこのふたりが身体を接しながら競り合い。この間に後方からの捲り追い込みとなった村上が大外を強襲して優勝。浅井に押し込められたものの競り勝った野田が4分の3車輪差で2着。浅井はタイヤ差で3着。
                                      
 優勝した京都の村上博幸選手は昨年6月の平塚のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年の広島記念以来となる7勝目。松阪記念は初優勝。このレースは竹内と吉田は共に先行意欲が高そうなので,もしかしたら先行争いがあるかもしれないとみていましたが,前受けをした竹内に対して吉田が早い段階で叩きにいったため,竹内が引いて巻き返すという競走になりました。これは浅井にとっては絶好の展開で,たとえインを掬われても何とかできると思えたのですが,直線で激しく競り合ったのは,そのまま突き抜けるだけの脚は残っていなかったからなのでしょう。村上博幸は最近は自力を使うという場面はほとんどありませんから,決まり手は差しですが,捲りのような形で優勝したのは,まだそれだけの力があるということの証明になったのではないでしょうか。

 無秩序という秩序ordoから秩序として意識化され得る秩序への移行の仕組みが分かりました。これによって僕たちは,どのようにすればこのような自然の秩序ordo naturaeの様式の移行が可能になるのかという方法も知ったことになります。それはすなわち,AとBがそれぞれ単独で認識される場合に,それらの観念ideaを関連付けるという方法です。それにより,AもBも単独で表象されていたのが,Aを表象するimaginariことによってBを表象するようになっていくからです。
 スピノザが表象の動揺について説明している例は,この移行は,その移行が精神mensのうちで生じている人間からすると,意図的なものではありません。ですが僕たちはそれを意図的に関連付けることもできます。実際に,Aを表象した後にBを表象することが度重なれば,自然とAを表象するとBを表象するように人間はできているのですから,もしAを表象したときに,すぐにBを表象するということを意識的に重ねていくことにより,人間は意識せずともAを表象すればBを表象するようになるからです。表象imaginatioというのはその観念の対象ideatumが現実的に存在すると知覚することを意味するのであり,観念されたものideatumが実際に現実的に存在しているかどうかとは関係ありません。これは想起memoriaとか想像が表象の一種であるということから明白でしょう。よってAを知覚したときに,Bを想起するとか想像するということを重ねていけば,そのうちにAの表象像imagoからBの表象像への移行は,とくに意図しなくても発生するようになるのです。
 基本的にトイレトレーニングというのはこの種の訓練であるということができます。自分の排泄に関する観念は,いい換えれば排泄へと移行する状態にある自分の身体corpusの観念は,すでに説明したように第二部定理一二によって必然的にnecessarioその人間の精神のうちにあります。この観念をそれとは別の観念,たとえばトイレの観念と関連付けていくことを重ねていけば,僕たちは意識せずに排泄への移行期にある自分の身体を知覚すれば,トイレを表象するようになるでしょう。そしてそこからトイレに行くことを肯定する意志作用volitioが発生すれば,トイレトレーニングは実質的に完了しているといえるのです。
コメント
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