スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

チルンハウスの誤解③&秩序

2019-01-24 19:19:49 | 哲学
 誤解②のように検討してみると,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausによるスピノザの哲学への誤解は,共通点というのがどのような意味を有するのかという点にあったという結論が最初に類推されるのではないでしょうか。誤解①で示したチルンハウスの主張のうち,スピノザの哲学と照らし合わせて誤っているのは,共通点についての主張であるⅠの部分にのみ存在するからです。
                                     
 『エチカ』では共通点という語は第一部公理五で最初に出てきます。この公理Axiomaをこのまま解すると,たとえば男と女には共通点はないのだから,男は女のことを認識できないし,女は男のことを認識できないのだ,というような理解があっても不思議ではありません。書簡六十三ではチルンハウスは神Deusの知性intellectusと人間の知性の間には共通点がないといっているのであり,共通点という語に特有の意味をもたせないならば,僕が男と女の間で示したような解釈が成立するように,チルンハウスの解釈もまた成立しなければならないでしょう。
 ただ,チルンハウスの誤解の源についてこのように解することには弱みもあります。たとえば第一部定理二を読めば,スピノザは異なった属性attributumの間には共通点はないといっていることくらいはチルンハウスには理解できる筈です。そしてそれが理解できれば,スピノザがどのような事柄を共通点といっているのかということも理解できるでしょう。そしてチルンハウスは『エチカ』の草稿の所持を許されていたのであり,実際にⅡの部分は第一部定理三から主張されているのです。もしチルンハウスが第一部定理二は無視したとか,第一部定理二でいわれていることを,属性とは無関係にごく一般的な意味で解したとするなら,確かにチルンハウスは共通点について誤解していたということになり得ますが,この解釈は僕には強引すぎるように思えます。
 よって,僕はチルンハウスは共通点に関しては誤解していなかった,あるいは誤解していたとしても,全体の主張の中で中心をなすものではなかったと解します。よって根源は別のところに求めなければなりません。

 ある事物を単独で表象するimaginariことは,様式であるということはできても秩序ordoであるとみなすことはできません。しかしここでは自然の秩序ordo naturaeの様式の移行を考察しているのですから,それが様式であり得ても秩序ではあり得ないことについて考察しても意味はないのです。ですからここからは,第二部定理一七に従えば,ある人間の精神mens humanaのうちにAの表象像imagoがあるときに,A以外の表象像が発生した場合にはAの表象像が消滅することになっていることを踏まえ,Aの表象像から別の表象像へと人間の精神が移行していくことをセットとして,ひとつの様式と規定することにします。そしてこれは確かに何らかの秩序であるのです。というのは,Aの表象像を消滅させる別の表象像は,Bの表象像であるかもしれませんし,Cの表象像であるかもしれません。よって同じ人間の精神のうちでも,AからBに移行する場合もあれば,AからCへと移行する場合もあるでしょう。もちろんさらにほかのものの表象像へ移行する場合もあります。つまりここでは明らかに複数の移行を比較することができるわけですから,そこに何らかの秩序を発見することが可能になるわけです。
 第二部定理七の証明Demonstratioは,第一部公理四だけを援用しています。第一部公理四は,原因causaの認識cognitioは結果effectusの認識に対して本性naturaの上で先立つのでなければならないことを含意します。そして観念ideaとその観念の対象ideatumの秩序が同一であるということがこの公理Axiomaに訴求されているということは,秩序というのはまずこの原因と結果の順序のことを意味していると解するのが妥当でしょう。いい換えればこの順序というのは秩序の一部であるとみなさなければなりません。ただしそれは,秩序とは順序という意味であるということではないと僕は考えています。たとえば第三部定義二は,十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかということが能動と受動を分かつといっていますが,観念が十全な原因である場合は観念されたものideatumも十全な原因でなければならず,ともに能動actioであることになります。つまり観念が能動なら観念対象も能動なのであり,これも秩序の一部と僕はみなします。そしてこれは順序であるとはいえないでしょう。
コメント
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