化粧③で,凡庸なことばで示された歌い手の矜持といった部分は,この楽曲の1番と2番の両方に出てきます。そしてその後,さらに同じフレーズがリフレインされています。

バカだね バカだね バカだねあたし
愛してほしいと 思ってたなんて
バカだね バカだね バカのくせに
愛してもらえるつもりでいたなんて
手紙の束を送った相手が自分のことを愛してくれる筈もなかった。そんな相手に愛してほしいと思っていた自分はバカだったし,そんなバカなことを思いながら,愛してもらえる気になっていた自分はバカだった。
「化粧」という楽曲の全体からは,この部分をそのように解釈しておくのが妥当かもしれません。けれど僕は,この部分はそれとは異なった解釈もできると考えています。
最初の2行は,愛してほしいと思っていたとはバカだったと解釈できます。これは愛してくれるわけのない人に愛してほしいと思っていたのはバカだったとも解釈できるのですが,愛してほしいとだけ思っていた,いい換えれば,自分から愛そうとは思わずに愛してほしいと思っていた,愛を与えることなく受け取ろうとしていた自分はバカだったという解釈も成り立つと思うのです。
その解釈が成り立つなら,残りの2行は,愛そうとすることなく愛してほしいと思っていたバカのくせに,それでも愛してもらえるつもりでいた時分はバカだったという解釈になります。バカのくせに愛してもらえるつもりでいた,といういい方からすると,実はこちらの解釈の方が,楽曲全体を無視してこの部分の文意だけからみれば,より正しいことばの使い方のように思えるのです。
もしかしたらこの歌い手は,愛そうとせず愛されようとしていた自分を後悔しまた反省しているのかもしれません。
これは一般的にいえる事柄ですが,ある人間の精神mens humanaのうちにXの観念の観念idea ideaeがある場合,Xの観念ideaもその同じ人間の精神のうちにあります。いい換えれば,ある人間がXを意識することができるなら,Xの観念はその人間の精神のうちにあるのです。第二部定理四三は実はそれ自体で明らかな定理Propositioであって,これがそれ自体で明らかであるということは,このことに起因します。
ではなぜそのようにいえるのかといえば,第二部定理二一により,ある人間の精神とその人間の精神の観念が合一している,つまり同一個体であるからです。よってその人間の精神のうちにある観念とその観念の観念も同一個体でなければなりません。なぜなら人間の精神というのはそれによって構成される個々の観念の集合体のことなのであり,精神と精神の観念が同一個体であるなら,精神を構成しているある観念とその観念の観念もまた同一個体でなければならないからです。
このことが一般的に妥当するのですから,排泄に関連する観念,より具体的にいえば自分の排泄に関連する観念の場合にも妥当します。つまりある人間が自分の排泄に関連する事柄を意識することができるのなら,この人間の精神のうちには自分の排泄に関連する観念があるのです。実際には僕たちは何であれ,何かを意識するという場合に,このことまで意識するわけではありません。意識は観念の観念であると僕は考えますが,それに対比していうなら観念は無意識に該当するのであって,僕たちは何かを意識するときに,自分の精神のうちにある無意識を意識しているというようには把握しないからです。しかしながらこの把握は実際には行われているといわれるべきです。というのは僕たちは何かを意識しているならそれを意識しているということを知ることはできるのであり,これは意識と意識の間,観念の観念とその観念,つまり観念の観念の観念との間で行われるのですが,これを否定することはだれにもできないでしょう。これと同じことが無意識と意識との間でも行われているのです。他面からいえば,人間は何かを意識するとき,意識されたものとその観念が同一個体であることを知っているのです。

バカだね バカだね バカだねあたし
愛してほしいと 思ってたなんて
バカだね バカだね バカのくせに
愛してもらえるつもりでいたなんて
手紙の束を送った相手が自分のことを愛してくれる筈もなかった。そんな相手に愛してほしいと思っていた自分はバカだったし,そんなバカなことを思いながら,愛してもらえる気になっていた自分はバカだった。
「化粧」という楽曲の全体からは,この部分をそのように解釈しておくのが妥当かもしれません。けれど僕は,この部分はそれとは異なった解釈もできると考えています。
最初の2行は,愛してほしいと思っていたとはバカだったと解釈できます。これは愛してくれるわけのない人に愛してほしいと思っていたのはバカだったとも解釈できるのですが,愛してほしいとだけ思っていた,いい換えれば,自分から愛そうとは思わずに愛してほしいと思っていた,愛を与えることなく受け取ろうとしていた自分はバカだったという解釈も成り立つと思うのです。
その解釈が成り立つなら,残りの2行は,愛そうとすることなく愛してほしいと思っていたバカのくせに,それでも愛してもらえるつもりでいた時分はバカだったという解釈になります。バカのくせに愛してもらえるつもりでいた,といういい方からすると,実はこちらの解釈の方が,楽曲全体を無視してこの部分の文意だけからみれば,より正しいことばの使い方のように思えるのです。
もしかしたらこの歌い手は,愛そうとせず愛されようとしていた自分を後悔しまた反省しているのかもしれません。
これは一般的にいえる事柄ですが,ある人間の精神mens humanaのうちにXの観念の観念idea ideaeがある場合,Xの観念ideaもその同じ人間の精神のうちにあります。いい換えれば,ある人間がXを意識することができるなら,Xの観念はその人間の精神のうちにあるのです。第二部定理四三は実はそれ自体で明らかな定理Propositioであって,これがそれ自体で明らかであるということは,このことに起因します。
ではなぜそのようにいえるのかといえば,第二部定理二一により,ある人間の精神とその人間の精神の観念が合一している,つまり同一個体であるからです。よってその人間の精神のうちにある観念とその観念の観念も同一個体でなければなりません。なぜなら人間の精神というのはそれによって構成される個々の観念の集合体のことなのであり,精神と精神の観念が同一個体であるなら,精神を構成しているある観念とその観念の観念もまた同一個体でなければならないからです。
このことが一般的に妥当するのですから,排泄に関連する観念,より具体的にいえば自分の排泄に関連する観念の場合にも妥当します。つまりある人間が自分の排泄に関連する事柄を意識することができるのなら,この人間の精神のうちには自分の排泄に関連する観念があるのです。実際には僕たちは何であれ,何かを意識するという場合に,このことまで意識するわけではありません。意識は観念の観念であると僕は考えますが,それに対比していうなら観念は無意識に該当するのであって,僕たちは何かを意識するときに,自分の精神のうちにある無意識を意識しているというようには把握しないからです。しかしながらこの把握は実際には行われているといわれるべきです。というのは僕たちは何かを意識しているならそれを意識しているということを知ることはできるのであり,これは意識と意識の間,観念の観念とその観念,つまり観念の観念の観念との間で行われるのですが,これを否定することはだれにもできないでしょう。これと同じことが無意識と意識との間でも行われているのです。他面からいえば,人間は何かを意識するとき,意識されたものとその観念が同一個体であることを知っているのです。