『外国人レスラー最強列伝』の第7章は荒法師と呼ばれたジン・キニスキーです。なぜ荒法師といわれているのかは僕には分かりません。プロレスラーとしての最大の実績は,鉄人からNWAの王座を奪取したことで,その後約3年間,王者として君臨し,ひとつの時代を築きました。
僕はキニスキーの試合はテレビの過去映像でもほとんど視たことがありません。ですからどんなプロレスラーであったのかは語ることができません。それでもキニスキーは排除せずにとりあげたのには,いくつかの理由があります。
キニスキーは身長が193㎝あり,大型でした。このために馬場の好敵手となり得ました。日本プロレス時代の馬場にとって,本当の意味で好敵手といえたのは,このキニスキーとボボ・ブラジルではなかったかと思います。馬場とブラジルが1966年6月に蔵前国技館で戦った試合は高く評価されているようですが,馬場は生涯のベストバウトのひとつとしては,翌年の8月の大阪球場でのキニスキー戦の方をあげています。ブラジルとキニスキーは共に馬場を破ってインター選手権の王者になっていますから,やはりこのふたりは特別だったとみていいのではないでしょうか。
僕はブラジルは生で見たことがありませんが,キニスキーはあります。1993年6月に,馬場の5000試合出場記念大会というのが日本武道館で行われ,このときに特別ゲストとしてキニスキーが呼ばれ,リングに上がりました。僕もこの日は武道館で観戦していましたので,生のキニスキーを目撃することができたのです。
このときに特別ゲストとして来日したように,ライバルではありましたが馬場との間では友情が成立し,それが続いていました。人間発電所ほどその関係が伝えられていないのは,キニスキーは馬場より10歳も年上だったからでしょう。ハンセンとサンマルチノの邂逅があった馬場の引退試合に,サンマルチノのパートナーとして選出されているのですから,馬場の終生の友人のひとりであったことは間違いないと思います。
人間が何かを知るとき,何かを意識するとき,その精神mensのうちでどのような作業が行われているのかということは分かりました。次に重要なのは,何かを知るためにはその何かの観念ideaがその人間の精神のうちになければならない,あるというとき,その観念がなぜあるのかということを解明することです。自分の排泄に関わる観念についていうなら,その観念がその人間の精神のうちに生じているのはなぜかということです。
これを最も単純に説明するのは第二部定理一九です。人間の身体corpusが外部の物体corpusから刺激を受けると,人間の精神は第二部定理一七によりその外部の物体が現実的に存在すると表象するimaginariのですが,それと同時に,自分の身体も現実的に存在すると表象するからです。ただしこのことは,この説明においては基礎中の基礎です。というのは,すでに説明したように排泄というのは身体がなすある運動motusなのであって,精神がなす思惟作用ではありません。したがって自分の排泄行為に関連する観念を有するためには,自分の身体の観念がまずなければなりません。この定理Propositioはそのことだけを説明します。ただしこれがなければ自分の排泄に関する観念が生じ得ないことは明白ですから,基礎であるといっても絶対的な意味において必要な基礎ではあるといえます。
排泄というのは,人間の身体が現実的な存在existentiaを維持していくためには必要な運動です。他面からいえば,排泄が行われないならば,その人間の身体は現実的に存在していくことが不可能になります。したがってそれは身体の現実的本性actualis essentiaを変化させてしまうようなことだといえます。こうしたことがその身体の「中に起こること」であると僕は考えています。よって,排泄に関する観念がある人間の精神のうちに生じるということは,第二部定理一二によって具体的に説明されることになります。
少し前に検討したように,人間は食べていかなければ現実的存在を維持していくことができませんし,眠らなければ現実的存在を維持していくことができません。ですから自分の食に関する観念とか睡眠に関連する観念も,これと同じことによってその人間の精神のうちに生じるのだといえるでしょう。
僕はキニスキーの試合はテレビの過去映像でもほとんど視たことがありません。ですからどんなプロレスラーであったのかは語ることができません。それでもキニスキーは排除せずにとりあげたのには,いくつかの理由があります。
キニスキーは身長が193㎝あり,大型でした。このために馬場の好敵手となり得ました。日本プロレス時代の馬場にとって,本当の意味で好敵手といえたのは,このキニスキーとボボ・ブラジルではなかったかと思います。馬場とブラジルが1966年6月に蔵前国技館で戦った試合は高く評価されているようですが,馬場は生涯のベストバウトのひとつとしては,翌年の8月の大阪球場でのキニスキー戦の方をあげています。ブラジルとキニスキーは共に馬場を破ってインター選手権の王者になっていますから,やはりこのふたりは特別だったとみていいのではないでしょうか。
僕はブラジルは生で見たことがありませんが,キニスキーはあります。1993年6月に,馬場の5000試合出場記念大会というのが日本武道館で行われ,このときに特別ゲストとしてキニスキーが呼ばれ,リングに上がりました。僕もこの日は武道館で観戦していましたので,生のキニスキーを目撃することができたのです。
このときに特別ゲストとして来日したように,ライバルではありましたが馬場との間では友情が成立し,それが続いていました。人間発電所ほどその関係が伝えられていないのは,キニスキーは馬場より10歳も年上だったからでしょう。ハンセンとサンマルチノの邂逅があった馬場の引退試合に,サンマルチノのパートナーとして選出されているのですから,馬場の終生の友人のひとりであったことは間違いないと思います。
人間が何かを知るとき,何かを意識するとき,その精神mensのうちでどのような作業が行われているのかということは分かりました。次に重要なのは,何かを知るためにはその何かの観念ideaがその人間の精神のうちになければならない,あるというとき,その観念がなぜあるのかということを解明することです。自分の排泄に関わる観念についていうなら,その観念がその人間の精神のうちに生じているのはなぜかということです。
これを最も単純に説明するのは第二部定理一九です。人間の身体corpusが外部の物体corpusから刺激を受けると,人間の精神は第二部定理一七によりその外部の物体が現実的に存在すると表象するimaginariのですが,それと同時に,自分の身体も現実的に存在すると表象するからです。ただしこのことは,この説明においては基礎中の基礎です。というのは,すでに説明したように排泄というのは身体がなすある運動motusなのであって,精神がなす思惟作用ではありません。したがって自分の排泄行為に関連する観念を有するためには,自分の身体の観念がまずなければなりません。この定理Propositioはそのことだけを説明します。ただしこれがなければ自分の排泄に関する観念が生じ得ないことは明白ですから,基礎であるといっても絶対的な意味において必要な基礎ではあるといえます。
排泄というのは,人間の身体が現実的な存在existentiaを維持していくためには必要な運動です。他面からいえば,排泄が行われないならば,その人間の身体は現実的に存在していくことが不可能になります。したがってそれは身体の現実的本性actualis essentiaを変化させてしまうようなことだといえます。こうしたことがその身体の「中に起こること」であると僕は考えています。よって,排泄に関する観念がある人間の精神のうちに生じるということは,第二部定理一二によって具体的に説明されることになります。
少し前に検討したように,人間は食べていかなければ現実的存在を維持していくことができませんし,眠らなければ現実的存在を維持していくことができません。ですから自分の食に関する観念とか睡眠に関連する観念も,これと同じことによってその人間の精神のうちに生じるのだといえるでしょう。