北京オリンピック日本応援競輪の初日特選。
並びは前予想の通り。前受けとなったのは小林選手で,中団に村上選手,後ろ攻めが飯野選手。残り2周のホームから飯野選手が上昇開始。打鐘で小林選手を抑えると小林選手は飯野選手の番手の佐藤友和選手のインで粘る形。ここからホームにかけて飯野選手が内を開けて流したので小林選手は内から再度出て飯野選手と先行争いをする構え。さらに後方の村上選手も踏み出したので,ホームでは前の3人が先行争いという態勢となり,ごちゃついたために佐藤友和選手と川口選手が落車してしまいました。一番外の村上選手がバックで出きり,番手の一丸選手との争いに。ここは一丸選手が差し切って1着,村上選手が2着で,うまく切り替えて後閑選手が3着になりました。
飯野選手は後ろが競り合いになったのを気にして流したものと思いますが,躊躇せずにそのまま行ってしまった方が自分にとってもラインにとってもよかったのではないでしょうか。よいタイミングで踏み出した村上選手の判断が光ったレースだったと思います。なお,落車したふたりは明日の準決勝には出場します。
責任というのは行為の原因causaに対して発生するのではなく,あるいは行為そのものに対して発生するのでもなく,あくまで行為から生じた結果effectusに対して問われるものであるという結果論は,それ自体では許容することもできるような考え方かもしれません。しかし責任を『エチカ』から積極的に抽出する方法が抱えている難点はこれだけではありません。これについてさらに詳しく考えていくために,第三部定理五一を取り上げることにします。
「異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし,また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる」。
この定理Propositioの意味にはそんなに問題はないのではないかと思います。
実は,責任という概念notioが結果論にすぎないということも,部分的にはこの定理から発生していると考えられます。なぜなら,もしもある行為が必然的にnecessario(絶対に)ある他者を悲しませると分かっているならば,たとえばそれを表象するimaginariことによってその行為を避ける,つまりその表象imaginatioがある行為に対する欲望cupiditasへの相反する感情として作用することによって,それをなさないように人間を駆るということもあり得ますが,絶対に他者を悲しませる行為が存在しないということがこの定理のうちには含まれていると考えられるからです。
並びは前予想の通り。前受けとなったのは小林選手で,中団に村上選手,後ろ攻めが飯野選手。残り2周のホームから飯野選手が上昇開始。打鐘で小林選手を抑えると小林選手は飯野選手の番手の佐藤友和選手のインで粘る形。ここからホームにかけて飯野選手が内を開けて流したので小林選手は内から再度出て飯野選手と先行争いをする構え。さらに後方の村上選手も踏み出したので,ホームでは前の3人が先行争いという態勢となり,ごちゃついたために佐藤友和選手と川口選手が落車してしまいました。一番外の村上選手がバックで出きり,番手の一丸選手との争いに。ここは一丸選手が差し切って1着,村上選手が2着で,うまく切り替えて後閑選手が3着になりました。
飯野選手は後ろが競り合いになったのを気にして流したものと思いますが,躊躇せずにそのまま行ってしまった方が自分にとってもラインにとってもよかったのではないでしょうか。よいタイミングで踏み出した村上選手の判断が光ったレースだったと思います。なお,落車したふたりは明日の準決勝には出場します。
責任というのは行為の原因causaに対して発生するのではなく,あるいは行為そのものに対して発生するのでもなく,あくまで行為から生じた結果effectusに対して問われるものであるという結果論は,それ自体では許容することもできるような考え方かもしれません。しかし責任を『エチカ』から積極的に抽出する方法が抱えている難点はこれだけではありません。これについてさらに詳しく考えていくために,第三部定理五一を取り上げることにします。
「異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし,また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる」。
この定理Propositioの意味にはそんなに問題はないのではないかと思います。
実は,責任という概念notioが結果論にすぎないということも,部分的にはこの定理から発生していると考えられます。なぜなら,もしもある行為が必然的にnecessario(絶対に)ある他者を悲しませると分かっているならば,たとえばそれを表象するimaginariことによってその行為を避ける,つまりその表象imaginatioがある行為に対する欲望cupiditasへの相反する感情として作用することによって,それをなさないように人間を駆るということもあり得ますが,絶対に他者を悲しませる行為が存在しないということがこの定理のうちには含まれていると考えられるからです。