13日と14日に掛川城二の丸茶室で指された第68期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は久保利明王将が16勝,渡辺明棋王が15勝。
掛川市長による振駒で渡辺棋王の先手と決まり,久保王将の角道オープン中飛車。後手から角を交換して持久戦に。後手が馬を作ったのに対して先手が玉頭戦に持ち込むという展開になりました。
後手が8筋に歩を連打して金を上ずらせた後に7四の歩を取って手を戻した局面。ここから先手は☗8四銀☖同銀☗同角と進めました。後手は☖5五馬。
ここから先手は☗8三歩と打ち☖同王に☗6六角とぶつけました。この順は危険なようにも思えますので,先手はもしかしたら読み切っていたのかもしれません。
後手は☖同馬☗同銀と交換して☖6九角と打ちました。
この手が詰めろ金取りなので先手の手順は危険に思えるのですが,ここから☗8四歩☖9二王としてから☗7八歩と受けた局面は☖5八角成に☗8三銀と打ち込んでいって先手の一手勝ちでした。ただ,第2図の☖6九角のところでは☖8七歩の王手をして☗同金と引かせてから☖6九角と打つ順もあり,それだと☗8四歩に別の変化があるかもしれません。もし☗8四歩が成立しない手順があったのなら,後手にもまだチャンスがあったのではないでしょうか。
渡辺棋王が先勝。第二局は26日と27日です。
第四部序言から,なぜ僕たちがものを完全といったり不完全といったりすることが偏見であるといえるのかといえば,それはものについての真の認識cognitioに基づいてはいないからです。いい換えればそれは混乱した観念idea inadaequata,誤った観念idea falsaに基づく判断であり,ものについては虚偽falsitasであり,単に自分の精神mensの状態だけを表示しているのすぎません。とりわけこのような仕方でものを完全といったり不完全といったりすることが正しいと信じている人は,単に虚偽に基づいてそのものを判断しているだけではなく,そのものについて誤謬errorを犯しているということになります。よってそれは偏見あるいは謬見なのです。
こうした謬見に基づいて排泄の管理あるいは統御について判断を下せば,どんな人間であっても排泄を完全に統御したり管理したりすることはできないということについては肯定するとしても,たとえばAという人間とBという人間がいたとして,Aという人間はよく排泄を管理しまた統御できるのに対し,Bという人間はさほど排泄を管理も統御もできないとしたら,Aという人間の方が排泄の管理や統御に対してより完全であるということになるでしょう。しかしすでに説明したことから理解できるように,これは謬見あるいは偏見であるのです。僕はこのような意味で排泄の管理ないしは統御に対して完全であるということは否定します。あるいはスピノザの哲学においてもそれは否定されなければならないと考えます。
なぜなら,第二部定義六が明らかにしているように,あるものの実在性realitasがそのものの完全性perfectioにほかならないからです。そして実在性というのはあるものの本性essentiaを力potentiaという観点からみた概念notioですから,Aの本性とBの本性が異なっているだけAの実在性とBの実在性は異なります。よってAの完全性とBの完全性は異なるのです。ゆえにAに与えられた現実的本性actualis essentiaが,Bに与えられている現実的本性より,排泄をよく統御したり管理したりすることができるのであれば,Aの現実的本性とBの現実的本性はその分だけ異なるのですから,完全性も異なるのです。つまりそこに差異はあっても,AもBも同じように完全であるといわなければならないのです。
掛川市長による振駒で渡辺棋王の先手と決まり,久保王将の角道オープン中飛車。後手から角を交換して持久戦に。後手が馬を作ったのに対して先手が玉頭戦に持ち込むという展開になりました。
後手が8筋に歩を連打して金を上ずらせた後に7四の歩を取って手を戻した局面。ここから先手は☗8四銀☖同銀☗同角と進めました。後手は☖5五馬。
ここから先手は☗8三歩と打ち☖同王に☗6六角とぶつけました。この順は危険なようにも思えますので,先手はもしかしたら読み切っていたのかもしれません。
後手は☖同馬☗同銀と交換して☖6九角と打ちました。
この手が詰めろ金取りなので先手の手順は危険に思えるのですが,ここから☗8四歩☖9二王としてから☗7八歩と受けた局面は☖5八角成に☗8三銀と打ち込んでいって先手の一手勝ちでした。ただ,第2図の☖6九角のところでは☖8七歩の王手をして☗同金と引かせてから☖6九角と打つ順もあり,それだと☗8四歩に別の変化があるかもしれません。もし☗8四歩が成立しない手順があったのなら,後手にもまだチャンスがあったのではないでしょうか。
渡辺棋王が先勝。第二局は26日と27日です。
第四部序言から,なぜ僕たちがものを完全といったり不完全といったりすることが偏見であるといえるのかといえば,それはものについての真の認識cognitioに基づいてはいないからです。いい換えればそれは混乱した観念idea inadaequata,誤った観念idea falsaに基づく判断であり,ものについては虚偽falsitasであり,単に自分の精神mensの状態だけを表示しているのすぎません。とりわけこのような仕方でものを完全といったり不完全といったりすることが正しいと信じている人は,単に虚偽に基づいてそのものを判断しているだけではなく,そのものについて誤謬errorを犯しているということになります。よってそれは偏見あるいは謬見なのです。
こうした謬見に基づいて排泄の管理あるいは統御について判断を下せば,どんな人間であっても排泄を完全に統御したり管理したりすることはできないということについては肯定するとしても,たとえばAという人間とBという人間がいたとして,Aという人間はよく排泄を管理しまた統御できるのに対し,Bという人間はさほど排泄を管理も統御もできないとしたら,Aという人間の方が排泄の管理や統御に対してより完全であるということになるでしょう。しかしすでに説明したことから理解できるように,これは謬見あるいは偏見であるのです。僕はこのような意味で排泄の管理ないしは統御に対して完全であるということは否定します。あるいはスピノザの哲学においてもそれは否定されなければならないと考えます。
なぜなら,第二部定義六が明らかにしているように,あるものの実在性realitasがそのものの完全性perfectioにほかならないからです。そして実在性というのはあるものの本性essentiaを力potentiaという観点からみた概念notioですから,Aの本性とBの本性が異なっているだけAの実在性とBの実在性は異なります。よってAの完全性とBの完全性は異なるのです。ゆえにAに与えられた現実的本性actualis essentiaが,Bに与えられている現実的本性より,排泄をよく統御したり管理したりすることができるのであれば,Aの現実的本性とBの現実的本性はその分だけ異なるのですから,完全性も異なるのです。つまりそこに差異はあっても,AもBも同じように完全であるといわなければならないのです。