「化粧」を最初に紹介したときに,別れを主題にした楽曲の中にも系統が異なるものがいくつかあり,異なった系統の中にも僕の好みはあるという主旨のことをいいました。今度は情念的であった「化粧」ともまた異なる系統のものを紹介します。それが「生まれた時から」です。これは「はじめまして」というアルバムの中の楽曲です。
別れを主題にした歌というのは暗いイメージがつきものだと思います。ですがこの歌は例外的に明るさを感じられる楽曲になっています。それはたぶん,この楽曲が別れを主題にしているといっても,つき合った末の別れではなく,片思いの破綻の物語であるということと関係していると思います。
生まれた時から飲んでたと思うほど
あんたが素面でいるのを あたしは見たことがない
ここで「あんた」と歌われているのが歌い手である「あたし」の片思いの相手です。「あたし」からみたときの「あんた」は,いつでも酔払っていたということになります。なぜそんな酔払いに恋心を抱くのか不思議に思えますが,その理由はこの楽曲が歌い進められていくと理解できるようになっています。
あたしの気持ちを気づかない仲間から
昔のあんたの姿を 悪気もなく聞かされた
「あたしの気持ち」はもちろん恋心のことです。「仲間たち」は「あんた」の仲間ともいえるでしょうが,「あんた」にとっても「あたし」にとっても仲間だと僕は解しています。つまりここには何らかのグループがあり,「あたし」はそのグループの中の「あんた」に恋をした,グループの新参者だというように聴いています。
古参の仲間は「あたし」が知らない「あんたの姿」を知っているので,それを教えたのでしょう。だれも「あたし」が「あんた」を好きだということには気付いていないのですが,それは「あたし」がそういう素振りを見せなかったからです。実際には「あたし」の方から「あんた」の昔のことを古い仲間にそれとなく尋ねたのではないでしょうか。
第四部定理四系は,人間は自然の秩序ordo naturaeに対しては従順であるといっています。これは当然ながらその秩序の様式がどのようなものであっても妥当しなければなりません。ただし,秩序とか秩序の様式というのは,原因causaと結果effectusの順序を知ることによって概念notioとして出現するのですから,ひとつの受動passioに対しては原則的には人間は無秩序な状態にあるといえます。ただし,ここでも注意してほしいのですが,僕が無秩序というのは秩序がないという意味ではありません。無秩序というのは実際にはひとつの秩序だけれども,その秩序がどのようになっているのかを把握することができない状態に人間が置かれているという意味です。逆にいえば,それが秩序として把握される場合には,ある秩序の様式から別の秩序の様式へと移行することは,さほどの苦労を要さないでしょう。つまり秩序あるいは秩序の様式がどのようなものであるのかということを把握することが,実際に様式を移行させるためには必要で,しかもそれさえできれば,移行もできるようになるといっていいくらいのことなのです。人間は自然の秩序に従う場合には働きを受けているのですから,この受動によって否応なしにその状態に至るからです。
たとえばある人間が,何の下調べもなしに行ったことのない観光地に出掛けたと仮定します。このときこの人がそこで何を見たり聞いたりするのかとか,何を感じたり感じなかったりするのかということは,実際にそこを巡ってみなければ分かりません。ですが巡れば必ず何らかの表象像imagoが発生し,それは次の表象像へ移行し,また次の表象像に移行するという具合に,この連鎖が観光を終了するまで続くことになるでしょう。これは当人にとっては無秩序な表象像の移行だといえるでしょう。少なくとも何か秩序付けられたものをその表象像から観光をしている当人が発見するということはないだろうからです。ただ諸々の刺激と感覚があり,その中にはすぐに忘れ去られてしまうものもあれば,強く記憶memoriaに刻み込まれるものもあるだろうということでしかありません。
けれどこれは秩序ではあります。すべての表象像から同様に刺激を受けるわけではないからです。
別れを主題にした歌というのは暗いイメージがつきものだと思います。ですがこの歌は例外的に明るさを感じられる楽曲になっています。それはたぶん,この楽曲が別れを主題にしているといっても,つき合った末の別れではなく,片思いの破綻の物語であるということと関係していると思います。
生まれた時から飲んでたと思うほど
あんたが素面でいるのを あたしは見たことがない
ここで「あんた」と歌われているのが歌い手である「あたし」の片思いの相手です。「あたし」からみたときの「あんた」は,いつでも酔払っていたということになります。なぜそんな酔払いに恋心を抱くのか不思議に思えますが,その理由はこの楽曲が歌い進められていくと理解できるようになっています。
あたしの気持ちを気づかない仲間から
昔のあんたの姿を 悪気もなく聞かされた
「あたしの気持ち」はもちろん恋心のことです。「仲間たち」は「あんた」の仲間ともいえるでしょうが,「あんた」にとっても「あたし」にとっても仲間だと僕は解しています。つまりここには何らかのグループがあり,「あたし」はそのグループの中の「あんた」に恋をした,グループの新参者だというように聴いています。
古参の仲間は「あたし」が知らない「あんたの姿」を知っているので,それを教えたのでしょう。だれも「あたし」が「あんた」を好きだということには気付いていないのですが,それは「あたし」がそういう素振りを見せなかったからです。実際には「あたし」の方から「あんた」の昔のことを古い仲間にそれとなく尋ねたのではないでしょうか。
第四部定理四系は,人間は自然の秩序ordo naturaeに対しては従順であるといっています。これは当然ながらその秩序の様式がどのようなものであっても妥当しなければなりません。ただし,秩序とか秩序の様式というのは,原因causaと結果effectusの順序を知ることによって概念notioとして出現するのですから,ひとつの受動passioに対しては原則的には人間は無秩序な状態にあるといえます。ただし,ここでも注意してほしいのですが,僕が無秩序というのは秩序がないという意味ではありません。無秩序というのは実際にはひとつの秩序だけれども,その秩序がどのようになっているのかを把握することができない状態に人間が置かれているという意味です。逆にいえば,それが秩序として把握される場合には,ある秩序の様式から別の秩序の様式へと移行することは,さほどの苦労を要さないでしょう。つまり秩序あるいは秩序の様式がどのようなものであるのかということを把握することが,実際に様式を移行させるためには必要で,しかもそれさえできれば,移行もできるようになるといっていいくらいのことなのです。人間は自然の秩序に従う場合には働きを受けているのですから,この受動によって否応なしにその状態に至るからです。
たとえばある人間が,何の下調べもなしに行ったことのない観光地に出掛けたと仮定します。このときこの人がそこで何を見たり聞いたりするのかとか,何を感じたり感じなかったりするのかということは,実際にそこを巡ってみなければ分かりません。ですが巡れば必ず何らかの表象像imagoが発生し,それは次の表象像へ移行し,また次の表象像に移行するという具合に,この連鎖が観光を終了するまで続くことになるでしょう。これは当人にとっては無秩序な表象像の移行だといえるでしょう。少なくとも何か秩序付けられたものをその表象像から観光をしている当人が発見するということはないだろうからです。ただ諸々の刺激と感覚があり,その中にはすぐに忘れ去られてしまうものもあれば,強く記憶memoriaに刻み込まれるものもあるだろうということでしかありません。
けれどこれは秩序ではあります。すべての表象像から同様に刺激を受けるわけではないからです。