スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宇都宮ワンダーランドカップ&第五部定理四二備考

2016-05-31 19:08:27 | 競輪
 熊本地震被災地支援の宇都宮記念の決勝。並びは早坂‐佐藤の北日本に橋本,和田‐石井‐五十嵐の南関東,金子‐園田の西日本で矢野は単騎。
 スタートを取ったのは佐藤で早坂の前受け。4番手に金子,6番手に和田,最後尾に矢野の周回に。まず残り2周のホームから和田が上昇。矢野も続きました。バックで南関東勢は早坂を叩き,金子が矢野の位置を狙いに行くような動きから外に出て,和田を叩いて打鐘。引いた早坂がすぐさま巻き返していくと叩かれた和田も発進して先行争いに。1コーナー付近で早坂がかましましたが,橋本が離れてしまったので北日本のふたりで前に。和田を捨てて石井が3番手に上がりましたが佐藤とは少し差が開く形に。これは佐藤が有利かと思いましたが,3コーナーから仕掛けた金子に乗った園田が,佐藤と石井の中を割って強襲すると突き抜けて優勝。北日本から離れてバックでは最後尾だった橋本が,前にいた矢野の内から園田を追い,佐藤とほぼ並んでのフィニッシュとなり1車身差の2着は写真判定。佐藤が2着で橋本が微差の3着。
 優勝した福岡の園田匠選手は昨年7月に寛仁親王牌を優勝して以来のグレードレース制覇。記念競輪となると2010年11月に松坂記念を勝って以来の3勝目。宇都宮記念は初優勝。ここは南関東が折り合った並びになったので,先行争いも予想はされました。その場合は金子の出番が大いに考えられたところ。実際に先行争いにはなったものの,わりと早い段階で早坂が制し,自力に転じた石井との間が開いたので,展開的には恵まれたというものにはなりませんでした。それでも金子が仕掛けましたので,そのスピードに乗って直線は強烈な伸び脚を発揮。鮮やかすぎたという感じもしなくはないのですが,番手の佐藤も早坂が早くからいっている分,さほど余裕が残っていなかったということなのでしょう。

 第三部定理五七,あるいは第四部定理三二第四部定理三三が,自分がされて嫌なことは他人にするな,という主張が倫理的規準となり得ないことを端的に示しています。規準というからには統一的なものでなくてはなりません。いい換えれば万人に妥当するのでなければなりません。しかし何を嫌と感じるかというような受動状態においては,現実的に存在する諸個人の本性essentiaはまちまちです。なのでそれは統一的見解ではあり得ず,万人に妥当する規準たり得ないのです。もう一度いいますがこのような主張はきわめて自己中心的であり,かつ自分の現実的本性actualis essentiaが不変であるという幻想を伴っているのです。
 このように考えると,もし倫理的規準が成立し得るなら,それはどういったものでなければならないのかも明らかだといえるでしょう。人間の現実的本性が一致するのは第四部定理三五にあるように,人間が理性ratioに従うという場合です。すなわち精神の能動actio Mentisによって「考えるconcipere」という営みをすることが,まずその第一の規準になるのでなければなりません。
                                     
 ただし,これは論理的にはそうであるということです。僕は現実的に存在する人間にとっての倫理の規準が統一できるということに関しては,不可能であるとはいいませんがきわめて悲観的です。そしておそらくスピノザ自身もそう考えていただろうと思います。第五部定理四二備考の最後の一文,すなわち『エチカ』の最後の一文はこう書かれています。
 「たしかに,すべて高貴なものは稀であるとともに困難である(Sed omnia praeclara tam difficilia, quam rara sunt.)」。
 これは『エチカ』でスピノザ自身が記述した事柄全般に到達することについての言及です。つまりスピノザは自身が記したことに人が到達するのは稀であると考えていたといっていいでしょう。このことはいくつかの点からも確かめられると思います。
 たとえばスピノザは人が「敬虔pietas」であることができるなら,それは能動actioに依拠しようが受動passioに依拠しようが構わないと考えていました。だから理性によって敬虔であるということだけを評価するのではなく,「服従obedientia,obsequium,obtemperantia」という受動によって人を敬虔にする聖書を,「服従の条件」を満たすものとしてスピノザは肯定したのです。
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