スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡六十&自然の秩序と知性の秩序

2019-01-17 19:57:13 | 哲学
 書簡五十九への返信が書簡六十です。
                                     
 書簡五十九の最初に,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは延長の属性Extensionis attributumからいかにして無限に多くのinfinita物体corpusが存在することを帰結させるのかと問うていましたが,スピノザはこのことについては別の機会に譲るとだけいっています。ただしこの機会はスピノザの生存中には現実化しませんでした。
 真の観念idea veraと十全な観念idea adaequataをチルンハウスは別の観念と理解していたようですが,これは誤解で,その相違は観念の外来的特徴denominatio extrinsecaに由来するのか本来的特徴denominatio intrinsecaに由来するのかという点だけにあるとスピノザは答えています。この相違は実際にはスピノザの哲学を考察する上では重要な相違なのですが,チルンハウスの質問に対してはこれだけで明確な解答になっていると思います。
 ものに関するどの観念からそのものの特質proprietasのすべてを導くことができるのかという主旨の質問に対しては,そのものの起成原因causa efficiensを含んでいる観念であるとスピノザはいっています。同時にスピノザはそれはものの観念として起成原因を含んでいなければならないというだけでなく,ものの定義Definitioもそれを含んでいなければならないという意味の解答をしています。すでに書簡五十九を紹介しておいたときにいっておいたように,この質問はものの観念についての質問であるというより,スピノザの哲学の全体においては,ものの定義とより多くまた深く関連する質問であったわけです。
 またこのときスピノザは,ものの起成原因というのは外的なものばかりでなく内的なものもあるという自身の考えを伝えています。これはデカルトの欺瞞と関連していて,スピノザは自己原因causa suiというのも起成原因の一種であると考えていることを明確にチルンハウスに伝えたといっていいでしょう。実際にスピノザはそう述べた後で,Deusの定義である第一部定義六に言及しています。チルンハウスの質問そのものとは直接的には関係しているとはいえませんが,この書簡においてはこの部分もスピノザの哲学の理解に際して重要ではないかと思います。

 それではトイレトレーニングが哲学と関係する,もうひとつの点についての考察を開始します。概要だけいうと,これは自然の秩序ordo naturaeおよび第四部定理三三に関係します。
 スピノザは僕たちが自然の秩序に従って何事かを認識するcognoscereなら,それは常に混乱した観念idea inadaequataであると第二部定理二九備考でいっています。第三部定理一から分かるように,このとき人間の精神mens humanaは受動状態になります。もっともスピノザの哲学では,人間の能動actioと受動passioは精神にあっても身体corpusにあっても同一ですから,そのときは身体もまた受動です。よって,人間は自然の秩序に従っている限りでは,常に受動という状態にあるのです。
 同じ備考の後半部分では,人間の精神は知性の秩序に従う場合にはものを十全に認識するという意味のことがいわれています。この場合には第三部定理一により人間の精神は能動という状態にあることになります。そして前述の説明と同じ理屈で,それは人間の身体の能動でもあることになります。つまり人間は知性の秩序に従う限りでは常に能動状態にあることになります。
 理性と感情という旧来の対立に対して,スピノザが打ち立てた新たな道徳律が能動と受動の対立でした。ですからスピノザの哲学は,自然の秩序から脱却して知性の秩序に入ることを目指す哲学であるといえるでしょう。これはスピノザの哲学を道徳ないしは倫理という観点からみた場合には基本で,だれも否定することができないといわなければなりません。
 ところが一方で,スピノザは第四部定理四系では,人間は常に自然の秩序に従うといっています。これでみればあたかもスピノザが目指す道徳律は,人間にとって達成することが不可能であるかのように思われるかもしれません。ですが第二部定理三八系は,現実的に存在する人間の精神の一部は必然的にnecessario共通概念notiones communesという十全な認識cognitioによって構成されていることを示し,人間はものを十全に認識する限りでは能動状態にあるのですから,不可能というわけではありません。第四部定理四系がいっているのは,人間が絶対的に自然の秩序から逃れることは不可能で,同じことですが完全に知性の秩序に従うのは不可能だということです。

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