スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡五十九&眠気の強度

2018-12-14 19:32:22 | 哲学
 書簡五十九もチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへの手紙です。チルンハウスはロンドンに滞在中でした。訳注ではこの書簡の初めの方が省略されていて,それは仲介者のシュラーGeorg Hermann Schullerがしたことと畠中尚志は推測しています。そうかもしれませんが,シュラーは遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりでもあったわけですから,この手紙はチルンハウスからスピノザにダイレクトに送られ,後にシュラーあるいはほかの編集者が当該部分を省いたという可能性もないとはいえないでしょう。書簡五十七は実際はシュラーが仲介し,だから返事の書簡五十八はシュラー宛となっていますが,この書簡への返信はチルンハウス宛になっています。
                                    
 内容はチルンハウスからスピノザに対する質問です。その質問はおおよそ3つの内容にまとめることができます。
 最初の質問は,延長の属性Extensionis attributumから無限に多くのinfinita物体corpusが発生するということを,どのように演繹的に導くことができるのかというものです。これは文字通りに,延長の属性を原因として無限に多くの物体が発生することを演繹的に証明してほしいという意味でもありますし,他面からいえば,人間はいかにしてそのことを知ることができるのかを演繹的に証明してほしいという意味でもあります。スピノザの哲学ではこのふたつの問いは同一の事柄を他面から論じていることになるからです。
 ふたつめは,真の観念idea vera,十全な観念idea adaequata,そして混乱した観念idea inadaequataに,正確な規定を与えてほしいという要望です。チルンハウスはAの真の観念とAの十全な観念は,同じ観念を別の観点から説明したものではなく,別種の観念であると判断していたふしがこの質問からは窺えます。
 最後は,たとえば円にはいろいろな性質があって,どの性質を取ってみてもそれは円の十全な観念といえそうだけれども,どのように円を観念するのが最も正しい方法であり,かつ,円に限らずすべての観念について,正しい方法でそれを観念すればよいのかということを一般的に示してほしいというものです。これはスピノザの哲学においては,事物の定義Definitioに関連する質問だといえるでしょう。

 過度な食欲に対抗し得るのは節制temperantiaだけです。いい換えれば過度な食欲にそれ自体で対抗できる感情affectusは存在しません。食欲に反対感情があるということは僕は肯定しますが,それは食欲一般に対する反対感情であって,過度な食欲いい換えれば美味欲luxuriaの反対感情ではないのです。
 これと同じようなことが,睡眠欲にも妥当するというのが僕の考え方です。ただし僕たちは睡眠欲については,それが過度であるか適度であるかというようには通常は判断しません。むしろ個々の睡眠欲が強度であるか軽度であるかという仕方で判断をするでしょう。すでに示したように,眠気は睡眠欲という感情を身体corpusとだけ関連させたものですが,僕たちは眠気については少しの眠気とか強い眠気という形容をします。このような形容が成立すること自体,僕たちは眠気が強度であるか軽度であるかという判断をしている証明でしょう。また,確かに僕たちがそのように判断している通り,眠気すなわち睡眠欲には強度のものもあれば軽度のものもあるといっていいでしょう。食欲との比較でいえば,食欲一般が睡眠欲を意味するのに対して,過度の食欲すなわち美味欲に対応するのが強い眠気すなわち強度の睡眠欲ということになるかと思います。
 ただし,食欲一般には節制という方法で対抗できるのですが,睡眠欲に対してこの種の節制は成立しません。精神mensの力potentiaそれ自体で強度の睡眠欲,あるいは強度でなくとも睡眠欲一般に対抗するのは人間にとってはほぼ不可能であるからです。だから僕は前に,この睡眠欲に対抗するためにはむしろ睡眠欲に従属して眠ってしまった方が,それで睡眠欲から解放されるという意味では有効な手段であると認めざるを得ないといったのです。これと似たことは食欲にもいえるのであり,確かに満腹感という喜びlaetitiaの感情が食欲という欲望cupiditasにとってかわるまで食べ続ければ,食欲からは解放されるでしょう。この解消手段は第四部定理七に則しています。そして適切な量の睡眠が人間にとっては必要であるのと同じように,適度な量の食事もまた人間にとっては必要なので,この手段をそれ自体では僕は否定しません。とはいえこれは節制とは関連しないのです。
コメント
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