第22回TCK女王盃。
マルカンセンサーは立ち上がって1馬身の不利。先手を奪ったのはクレイジーアクセルでしたが,アイアンテーラーが掛かり気味に追い上げ1馬身差の2番手。さらにエイシンセラードも行きたがりつつ2馬身差の3番手。ここから6馬身ほど離れて,ブランシェクール,ビスカリア,ジュエルクイーン,ラビットラン,アルティマウェポン,ワンミリオンスの順でこの6頭は一団。3馬身差でマルカンセンサー,4馬身差でガーデンズキュー,3馬身差でスプリングキャロルとラモントルドールの2頭が併走で最後尾を追走という縦に長い隊列。最初の800mは48秒8のハイペース。
クレイジーアクセルは3コーナーの手前から差を広げ始めました。2番手のアイアンテーラーの内からビスカリア,外からエイシンセラードが追い上げ,さらに外からラビットラン。コーナーの途中でアイアンテーラーは一杯になりました。直線に入ると逃げるクレイジーアクセルの外に出されたビスカリアがこれを捕え,そこからはほぼ独走となって圧勝。ずっと内を回ってきたマルカンセンサーもクレイジーアクセルの外から脚を伸ばして5馬身差の2着。大外を回ったラビットランが1馬身4分の3差で3着。
優勝したビスカリアは重賞初制覇。まだ1600万条件馬ですが,前々走で牡馬相手に2着に入っていて,牝馬重賞なら通用のレベル。ここは能力的にはラビットランが断然なのですが,大井の1800mは一筋縄では収まらないケースも多く,これほどとは思いませんでしたが波乱の可能性はあるとみていました。。2着馬との力量差を考えると5馬身差はさほど不思議ではないので,能力のあるほかの馬があまりにも走れなかったという気がします。上位の2頭はずっと内を回ってきましたので,枠順も有利に働いたのでしょう。大きなトラックバイアスがあったとみるのが妥当で,この結果をそのまま鵜呑みにするのは危険のように思います。父はヴァーミリアン。馬名は花の名前。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は東京盃以来の重賞2勝目。管理している山内研二調教師は第5回以来17年ぶりのTCK女王盃2勝目。
第二部定理一七は,僕たちがいかにして外部の物体corpusを現実的に存在するものとして表象するimaginariかを説明しています。そして同時にこの定理Propositioは,ある物体の表象像imagoは,それを表象している人間の精神mens humanaのうちに,それと別の表象像が出現するまで存在し続けるということをいっています。これは逆にいえば,現時点で表象しているものはそれとは別のものを表象することによって遮られることを意味します。つまり,Aを表象しているときにBを表象すると,Aの表象像はその人間の精神のうちから消滅するのです。僕は,ある自然の秩序ordo naturaeの様式から別の自然の秩序の様式への移行の原理となるのは,このことであると考えています。
ただし,この定理は様式の移行そのものを完全な形で説明できるわけではありません。なぜなら,Bの表象像によってある人間の精神のうちからAの表象像が存在しなくなるとき,その人間がある様式から別の様式に移行するのは必然necessariusではないからです。もちろんそれは移行である場合もあるでしょうが,この人間はAもBも,同一の自然の秩序の様式の下で表象しているかもしれないからです。それでも,それらは別の様式の下で表象されている場合はあり得るわけなので,まず原理はこの定理のうちにあると僕は考えているのです。
ただし,この場合にはひとつだけ気を付けておかなければならないことがあります。たとえば僕たちがAだけを表象し,それ以外の何も表象することはないとしたら,それはもはや秩序とはいえないであろうということです。実際に僕たちは,複数のものを俯瞰的な視点から眺めることによって,そこに秩序があるとかないとかいうのだからです。たとえば第二部定理七は,観念ideaの秩序は観念対象ideatumの秩序と同一であるということを意味していますが,これは観念と観念対象を比較して同一の秩序といっているのですし,また,複数の観念あるいは観念対象を比較して同一の秩序であるといっているのです。
これでみれば分かるように,実際にはAを単独で認識するcognoscereならそれは様式であったとしても秩序ではありません。同様に,Bだけを単独で表象するのなら,それも様式ではあり得ても秩序とはいえないのです。
マルカンセンサーは立ち上がって1馬身の不利。先手を奪ったのはクレイジーアクセルでしたが,アイアンテーラーが掛かり気味に追い上げ1馬身差の2番手。さらにエイシンセラードも行きたがりつつ2馬身差の3番手。ここから6馬身ほど離れて,ブランシェクール,ビスカリア,ジュエルクイーン,ラビットラン,アルティマウェポン,ワンミリオンスの順でこの6頭は一団。3馬身差でマルカンセンサー,4馬身差でガーデンズキュー,3馬身差でスプリングキャロルとラモントルドールの2頭が併走で最後尾を追走という縦に長い隊列。最初の800mは48秒8のハイペース。
クレイジーアクセルは3コーナーの手前から差を広げ始めました。2番手のアイアンテーラーの内からビスカリア,外からエイシンセラードが追い上げ,さらに外からラビットラン。コーナーの途中でアイアンテーラーは一杯になりました。直線に入ると逃げるクレイジーアクセルの外に出されたビスカリアがこれを捕え,そこからはほぼ独走となって圧勝。ずっと内を回ってきたマルカンセンサーもクレイジーアクセルの外から脚を伸ばして5馬身差の2着。大外を回ったラビットランが1馬身4分の3差で3着。
優勝したビスカリアは重賞初制覇。まだ1600万条件馬ですが,前々走で牡馬相手に2着に入っていて,牝馬重賞なら通用のレベル。ここは能力的にはラビットランが断然なのですが,大井の1800mは一筋縄では収まらないケースも多く,これほどとは思いませんでしたが波乱の可能性はあるとみていました。。2着馬との力量差を考えると5馬身差はさほど不思議ではないので,能力のあるほかの馬があまりにも走れなかったという気がします。上位の2頭はずっと内を回ってきましたので,枠順も有利に働いたのでしょう。大きなトラックバイアスがあったとみるのが妥当で,この結果をそのまま鵜呑みにするのは危険のように思います。父はヴァーミリアン。馬名は花の名前。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は東京盃以来の重賞2勝目。管理している山内研二調教師は第5回以来17年ぶりのTCK女王盃2勝目。
第二部定理一七は,僕たちがいかにして外部の物体corpusを現実的に存在するものとして表象するimaginariかを説明しています。そして同時にこの定理Propositioは,ある物体の表象像imagoは,それを表象している人間の精神mens humanaのうちに,それと別の表象像が出現するまで存在し続けるということをいっています。これは逆にいえば,現時点で表象しているものはそれとは別のものを表象することによって遮られることを意味します。つまり,Aを表象しているときにBを表象すると,Aの表象像はその人間の精神のうちから消滅するのです。僕は,ある自然の秩序ordo naturaeの様式から別の自然の秩序の様式への移行の原理となるのは,このことであると考えています。
ただし,この定理は様式の移行そのものを完全な形で説明できるわけではありません。なぜなら,Bの表象像によってある人間の精神のうちからAの表象像が存在しなくなるとき,その人間がある様式から別の様式に移行するのは必然necessariusではないからです。もちろんそれは移行である場合もあるでしょうが,この人間はAもBも,同一の自然の秩序の様式の下で表象しているかもしれないからです。それでも,それらは別の様式の下で表象されている場合はあり得るわけなので,まず原理はこの定理のうちにあると僕は考えているのです。
ただし,この場合にはひとつだけ気を付けておかなければならないことがあります。たとえば僕たちがAだけを表象し,それ以外の何も表象することはないとしたら,それはもはや秩序とはいえないであろうということです。実際に僕たちは,複数のものを俯瞰的な視点から眺めることによって,そこに秩序があるとかないとかいうのだからです。たとえば第二部定理七は,観念ideaの秩序は観念対象ideatumの秩序と同一であるということを意味していますが,これは観念と観念対象を比較して同一の秩序といっているのですし,また,複数の観念あるいは観念対象を比較して同一の秩序であるといっているのです。
これでみれば分かるように,実際にはAを単独で認識するcognoscereならそれは様式であったとしても秩序ではありません。同様に,Bだけを単独で表象するのなら,それも様式ではあり得ても秩序とはいえないのです。