「化粧」の歌い手は,愛そうとせずに愛されようとしていた自分はバカだったと歌っているように解釈することができます。これは愛されようとするより愛そうとしなければならないという反省の意味を有することになります。そのことを正面から主題化した楽曲が「I love him」です。これは「泣かないで アマテラス」も収録されている「10WINGS」の中の一曲です。
この歌の歌い手は,あるときに愛することの大切さに気付きます。そしてそのことに気付く前の自分について語り,同時にそれを分析します。
夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
それが人生の幸せだって いつも信じてた
信じて待った 待って夢見た
これは過去の自分についての回想です。「化粧」の歌い手も,束にできるほどの手紙を送った相手に対して,この楽曲の歌い手と同じような気持ちでいたのかもしれません。
私にだって傷ついた日はあったと思う けれどもそれは
欲しがるものが手に入らなくて裏切られたような気がして泣いた
子供の夢ね
この部分は回想と分析とが混在しているといえるでしょう。そしてこの分析の中で特徴的なのは,愛してほしいと思っていた人から愛されないことで傷ついた気持ちは,裏切られたような気がして泣いた子どもの頃の気持ちと同じであると歌われている点です。それは裏切られて泣いたのではありません。裏切られたような気がして泣いたのです。この相違は重大だと思います。実際には裏切られたのではなく,そんな気持ちになっていただけだった,つまり裏切られたということは真実ではなかったと意味になってくるからです。
現実的に存在する人間が常に知性の秩序に従って生きていくことは不可能であり,むしろ第四部定理四系にあるように,自然の秩序ordo naturaeに対して常に従属しているのです。これは人間に与えられる現実的本性actualis essentiaがそのようになっているからです。最も簡単にいってしまえば,いくら知性の秩序に従っていようと,人間は腹が減ることがありますし,眠くなることもあります。病気になることもありますし死んでしまうこともあるでしょう、こうした受動passioからは人間は絶対に逃れることはできないのです。ただ,ここで気を付けておきたいのは,人間は自然の秩序に従わざるを得ないといっても,この自然の秩序が人間に与えられる様式は一定ではないという点です。
第四部定理三五は,人間は理性の導きに従って生きるなら本性naturaの上で一致するといっています。理性に従うということと知性の秩序に従うということは同じことを意味します。よって知性の秩序の様式というのは,人間であればだれであっても同一です。いい換えれば知性の秩序というのは唯一です。これはものの真理veritasというのは唯一であって,複数の真理があるわけではないということと関係します。なぜなら僕たちは理性に従ってものを認識するcognoscereなら,そのものを真に認識するからです。
これでみれば分かるように,僕たちがものを真に認識する様式は唯一ですが,誤って認識する様式は唯一とはいえません。あのように誤ることもあればこのように誤るということもあるからです。つまり,真の観念idea veraは唯一ですが,誤った観念idea falsaは唯一であるといえません。このことは第二部定理一一系からより明らかになります。すなわち,ある人間がXを真にあるいは十全に認識するなら,その観念はその人間の本性を構成する限りで神Deusのうちにあるのですから,これは神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念と同一です。これがどの人間の場合であっても該当しますから,Xの観念は唯一です。しかしある人間がXを誤ってあるいは混乱して認識するときには,その人間の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの認識があるのです。よってこのほかのものが異なり得るだけその様式も異なり得るのです。
この歌の歌い手は,あるときに愛することの大切さに気付きます。そしてそのことに気付く前の自分について語り,同時にそれを分析します。
夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
それが人生の幸せだって いつも信じてた
信じて待った 待って夢見た
これは過去の自分についての回想です。「化粧」の歌い手も,束にできるほどの手紙を送った相手に対して,この楽曲の歌い手と同じような気持ちでいたのかもしれません。
私にだって傷ついた日はあったと思う けれどもそれは
欲しがるものが手に入らなくて裏切られたような気がして泣いた
子供の夢ね
この部分は回想と分析とが混在しているといえるでしょう。そしてこの分析の中で特徴的なのは,愛してほしいと思っていた人から愛されないことで傷ついた気持ちは,裏切られたような気がして泣いた子どもの頃の気持ちと同じであると歌われている点です。それは裏切られて泣いたのではありません。裏切られたような気がして泣いたのです。この相違は重大だと思います。実際には裏切られたのではなく,そんな気持ちになっていただけだった,つまり裏切られたということは真実ではなかったと意味になってくるからです。
現実的に存在する人間が常に知性の秩序に従って生きていくことは不可能であり,むしろ第四部定理四系にあるように,自然の秩序ordo naturaeに対して常に従属しているのです。これは人間に与えられる現実的本性actualis essentiaがそのようになっているからです。最も簡単にいってしまえば,いくら知性の秩序に従っていようと,人間は腹が減ることがありますし,眠くなることもあります。病気になることもありますし死んでしまうこともあるでしょう、こうした受動passioからは人間は絶対に逃れることはできないのです。ただ,ここで気を付けておきたいのは,人間は自然の秩序に従わざるを得ないといっても,この自然の秩序が人間に与えられる様式は一定ではないという点です。
第四部定理三五は,人間は理性の導きに従って生きるなら本性naturaの上で一致するといっています。理性に従うということと知性の秩序に従うということは同じことを意味します。よって知性の秩序の様式というのは,人間であればだれであっても同一です。いい換えれば知性の秩序というのは唯一です。これはものの真理veritasというのは唯一であって,複数の真理があるわけではないということと関係します。なぜなら僕たちは理性に従ってものを認識するcognoscereなら,そのものを真に認識するからです。
これでみれば分かるように,僕たちがものを真に認識する様式は唯一ですが,誤って認識する様式は唯一とはいえません。あのように誤ることもあればこのように誤るということもあるからです。つまり,真の観念idea veraは唯一ですが,誤った観念idea falsaは唯一であるといえません。このことは第二部定理一一系からより明らかになります。すなわち,ある人間がXを真にあるいは十全に認識するなら,その観念はその人間の本性を構成する限りで神Deusのうちにあるのですから,これは神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるXの観念と同一です。これがどの人間の場合であっても該当しますから,Xの観念は唯一です。しかしある人間がXを誤ってあるいは混乱して認識するときには,その人間の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの認識があるのです。よってこのほかのものが異なり得るだけその様式も異なり得るのです。