津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水夫米という税

2018-04-26 18:07:16 | ご挨拶

先に「年貢+雑税」を書いた際「水夫米(カコマイ)」に触れたが、これがいつの比に規定されたのか判らずにいた。
その答えは最近発刊された熊日新書、大島明秀著「細川侯五代逸話集」にあった。この著は「随聞録」にある55条の記録を原文+現代語訳で紹介したものである。
これは上妻文庫を基にその他の史料により校訂されたとあるが、私は記憶が定かではないが数年前宮村典太の「盤桓随筆」か「藻塩草」で読んでいる。
氏の筆跡は少々悪筆(謝)で難行苦行で読んだから、内容の事は頭に残っていない。

さてこの水夫米については「井田衍義」(654)に次のような記述がある。

      「水夫米之事、御参勤・御隣國長崎・天草御用渡海之御船/\、在役二て高千石ニ夫柄一人宛出申筈ニ極候處、海邊
       ニて無之御郡/\より指出候ても船方之働不相成居候ニ付、高百石壹石五斗宛出来定ニ相成候、然處其通ニてハ下
       免之所迷惑ニ及候ニ付、寛文八年より右之通壹石五斗を算用ニ〆、當時は物成百石ニ三石六斗六升六合宛出し、右
       之出来を以水夫給米又ハ雇賃米等ニ相渡候得共、惣躰近年御用多、船之渡海繁ク候ニ付、右之賃米ニてハ船々水夫
       飯米・跡扶持幷定抱之水夫給米不足をいたし候ニ付、元禄十三年より増水夫米被仰付、其時より始て被召上、同十
       五年以来年々上納被仰付候事」 

「藻塩草・巻90」に「千石水夫米物成百石ニ三石六升六合宛」とあり、上記記述に符号している。
在役にて千石に一人宛出さなければならないところ、在方では馴れない船方の仕事は無理であろうから、水夫給米に宛てるために「水夫米」の規定がなされた。

この規定の始まりが「随聞録」にあるのだが、細川家の肥後入国後本藩では既に運用されていたらしい。その「水夫米」「墓所年貢」について、三齋が八代においても同様の運用について異(相当怒っている)を唱えたことに端を発している。
発案者(?)である野田小右衛門幸長(奉行150石)は八代へ出向き三齋に説明をしているが、その弁舌鮮やかな説明に却って心を打たれて「忠利は良い家臣を持っている」といっている。

詳細な日時については「熊本藩年表稿」でも見つけ出しえないでいる。

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■お連れ様あり

2018-04-26 11:48:39 | 徒然

                 三匹やってきましたが、カメラを向けると一匹は飛び去ってしまいました。
                 雀の撮影もそろそろ止めにしようと思いますが、正面からのショットを物にしたいと思っています。

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■井田衍義・歛法式令ー八・九 (2)

2018-04-26 06:19:09 | 史料

 
 ○春御免被仰渡之事
一御土免帳、手永限御惣庄屋仕出、上地御内檢當加印を
 取、御郡代衆・御郡方御奉行衆中へ當上にて相違
一御土免差紙、御郡代衆仕出にて御惣庄屋當り也
  但、半紙巻目録村々御土免高ニ幾ツ何分と書記、會所
  /\より仕出、御内檢苗字口印日之下、御郡代印形有
  之、御免被仰渡相濟候上、御内檢より御惣庄屋へ渡す
一御郡中當御土免一紙目録、年番會所にて御郡中分継立清
 長紙清書いたし、御惣庄屋連名仕出判印にて仕出、上地
 御内檢・御郡代・御郡方御奉行衆中と當上にたいし、上
 地御内檢加印を取御郡代へ達ス、右は春御免被仰渡候
 節、會所/\より相達候手數にて候、御免被仰渡之儀は
 御郡代年番會所へ御出在、上地御内檢・御惣庄屋出席・
 御郡中村々庄屋・村役人共へ御郡代より直に被申渡、其
 詞ニ曰
  當御免御蔵納・御給知・新地方共、去御土免通ニ被仰
  付之、何れも奉得其意、小百姓共へも此旨申渡候様
一村々よりハ當御土免御受状庄屋/\持参、御惣庄屋へ相
 達候事

 
 ○御土免割しらへ方之事
一御免被仰渡相濟候得は、御内檢ハ直に手永/\之小屋へ
 出在有之、糺方有之候、よつて其以前より村々田畑抜差
 之儀、庄屋元にて質地・譲地・高出作等相糺し、見圖帳
 二付札を用、名寄帳付送いたし、御蔵納・御給知・新地
 ・諸開共持合の地方夫々相しらへ、一組限清算いたし、
 組一紙突合少も相違無之様にすゝめ立、村一紙に突合毛
 頭於無相違ハ御土免割帳仕立、諸帳取揃會所へ差出候得
 ハ、御惣庄屋手前にて御免帳の人數と竈數引合、質地、
 譲地・高出作・抜差之稜々、證文扣に引合候分ハ證文扣
 にて引合、高出作等ハ向合之名前抜差帳にて引合、見圖
 帳付札之銘書、名寄帳之付違(送ヵ)等向合/\之引合一々相
 糺、坪分之高分物成分等清算を入、或ハ諸開添畝の分ヶ
 高等精々相糺、於無相違ハ御内檢へ相渡す、御内檢手前
 ニても右同断相糺シ、抜差の稜々抜差帳より引合、於無
 相違ハ付札付送等印形を用、名寄帳清算を入、御土免割
 帳之畝高物成讀合、抜差之面々清算いたし、村一紙之置
 揚等夫々の手數相濟候上、庄屋より小百姓當之手札調達
 致候得は、御惣庄屋ハ御免帳と手札に割印いたし、御内
 檢ハ手札の裏に苗字を書印形を用、御内檢出在して小百
 姓人別へ相渡す、是迄之手數春御免割と申候

 
 ○青葉改の事
[付箋]「青葉改ハ畑損引之為也、畑損引は本蒔之粟畝迄ニ
    て大小豆畝ハ除ル也、其為之改也」
一大小豆作付候坪々、村役人帳面野面に罷出、見圖帳に張
 札いたし大小豆の畝を付記申候、尤見割等之畝數は遠見
 にてハ間違有之、自然畑御損引等致時間違、小前之難
 澁とも相成候ニ付、坪毎に見しらへ青葉帳仕出せ、一紙
 帳三冊上地御内檢へ遣置候上、五ヶ村組之内一ヶ村見分
 の鬮(くじ)を入、右鬮當り之村へ入、下ヶ名鬮を入、鬮當之下
 名見分ニて相違無之候得ハ相濟、若相違之儀有之候得は
 外之下名ニて引合、其下名も相違有之候得は、五ヶ村組
 不残引合相成筈

 
 ○田畑作色付の事
一田方ハ早・中・晩田或は早大唐・中晩大唐、畑方ハ大小
 豆・粟諸作・居屋敷と何れも見圖帳・名寄帳に腰札を張
 り、坪々色を付記、名寄帳田畝合の所幷は田畝合の所に付
 札いたし、一品限坪々算用仕上、右付札に書ならへ、組
 一紙を堅惣一紙に突合清算相濟候上、村々一紙帳仕立、
 手永一紙相添、御内檢加印・御郡代中印之上、毎年六月
 廿五日限御郡方へ相達候事

 一〇
 ○荒地改方之事
一洪水之節田畑當毛荒有之候分ハ、洪水損所改書附ニ加、     毛荒=けあれ
 遠方いたし置候ヘハ、上地御内檢中見分にて當毛荒に被
 立下候間、損所達之扣上地御内檢へ壹通可遣事
  但、本行之通、享和元年迄の御仕法猶御改、左之通
一田畑當毛荒、是迄ハ上地御内檢一手の改方被仰付置候
 處、以來ハ皆無同前、御郡御吟味役・御郡横目両役の内
 立會被仰付候段、享和二年二月改
一田畑荒地一紙目録之儀、御郡中継立にて上地御内檢仕
 出、御郡方へ達ニ成り、尤年番會所にて帳面出來之事
一荒地之儀、五ヶ年目/\改方被仰付候段、安永二年四月
 御達
一極荒之内御百姓手入仕作付候分は、御惣庄屋改起ニいた
 し相達候得は、五ヶ年は無免にて六ヶ年より本免上納被
 仰付候事

 一一
 ○御惣庄屋毛上見分の事
一田畑作の毛上を見ることハ、一朝一夕の見様にてハ實ニ叶
 かたし、第一御惣庄屋ハ百姓の生産を能存知候て、各生
 産に精を入取継候様に導き申心配無之候ヘハ、手永中の
 治方實に叶不申候、就中御免方仕損等有之、不慮の難澁
 引受候様之事有之、一秋の仕損より終身之難澁、且御損
 米の多も大切之儀に有之候、依之初秋迄之内、手永中
 村々田畑の毛上得斗見究置候儀肝要ニ候、先春の初勤農
 の道を施し、人別家内/\に至迄農業出精いたし、定免
 に作出候様心懸、手入肥水引等精を入候様教示いたし、
 其教に化し出精いたし、又ハ不合點にて出精不致境ハ田
 面にて見分、折々精粗等相糺、精敷者ハ彌勤め惰なる者
 ハ督責いたし、察討褒貶の糺方仕候内ニハ、相境の田主
 の名をも聞覺目印も出來申候、惣て村々の強弱、地味善
 悪、無難所・災害所之境等見糺、春耕の時より根付草浚
 かりほしまての間、度々見分いたし、實々の所見極加申
 候、常並の年ハ左程心を用不申候とも見損無之候得と
 も、旱雨風蟲の災有之候年ハ至て見にくに、先旱田ハ旱
 田の見様あり、水害田ハ水害の見様あり、風災・蟲災共
 各見様有之候、不覚心を用ひ候ヘハ其術を得る事難から
 さる事ニ付不能委筆候、右之通心かけ手永中見極、何村
 /\は土反に引合候得ハ通方之毛上又ハ分り損引にも成
 不申、又ハ何村々々村高之半を過損高ニ成可申、又ハ惣
 損引ニも至可申哉と胸算用いたし置、至秋村々より損引
 願等いたし候節、即席に及議論候様に有之候得は、容易
 なる損高ハ出し不申候、若又右之通心を不用、春以來取
 構不申押移、至秋不當之損高出し候時、内舛入候上減高
 申付候とも、下方より侮を入容易に除かたし、其時に
 至、見落之坪抔にて内舛いたし、高割なと切起し火急に
 追除候様に有之候てハ當り兼申候、是等之儀未御内檢
 の手にわたし不申内、御惣庄屋の計ニおいて困窮いたす
 なと申、氣受悪相成候、是境能々相考農務に心を盡し、
 毛上を見極置候儀肝要ニ候事

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