明治初頭における実学党政権の「肥後藩政改革案」の特色として次の三つが挙げられる
・雑税の廃止
・上下二院の議会の設置
・役人の公選
農民たちが狂喜したのは、当然の事ながら「雑税の廃止」であり、各地に「知事塔」の建設をなしその喜びを著した。
しかし隣藩などでは細川藩同様の措置を求めて一揆などが勃発、かえって実学党政権の終焉を速めた。
その「雑税」とは如何なるものであろうか。「上米・壱歩半米・口米・諸出来銀」と呼ばれているものである。
これ等が「年貢」とは別に徴収され農民を苦しめた。
新熊本の歴史5 近世(下)に城後尚年氏の「村の生活・町の生活」がある。
その中の「年貢と蔵納」に高10石に対する年貢その他の負担が表として挙げてある。(井田衍義より之引用)
少々年代が異なるので、壱歩半米(年貢の1.5%)が見えないが、「三ノ口水夫、増水夫米納」というものがあるが、これは良くわからない。
高10石に対し、約7割の負担を強いられていることが判る。
10石を収穫するには1町歩(3,000坪)が必要とされる。
確かな数字ではないが農民一人当たりの高は2~3石とされるが、年貢も納められず質奉公に出ることになる。
次の史談会ではそんな農民の窮状を伝える史料をご紹介しようと思っている。
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