津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■「門出の黒豆」

2018-04-23 20:52:22 | ご挨拶

 ご厚誼頂いている豊前小倉在住の小川氏は、日本ソムリエ協会の名誉ソムリエであられる。
又「小倉藩葡萄酒研究会」を主宰され、「小倉藩葡萄酒事情」という著も上梓されている。

                                            
今般熊本大学永青文庫研究センターから機関誌「永青文庫研究」が創刊され、記念すべきこの号に後藤典子氏の「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」が掲載されていることをご連絡した。お読みになってフェイスブックで葡萄酒研究会の御仲間に一文を寄せて居られる。お許しを頂戴してご紹介申し上げる。


「門出の黒豆」

   正月の話ではない。寛永六年(一六二九)の葡萄酒の話だ。
小倉藩細川家の記録に葡萄酒造りに関しての記録があるが、黒大豆(黒豆)も併記している。
ひょっとして、黒豆を葡萄酒の仕込みに使用したのか。

私はふと頭に浮かんだのが、ベトナムのダラットワインである。
葡萄だけでなく桑の実を使用する。桑の実(マルベリー)ジュースはワインにダークレッドの色素と赤い果実のニュアンスを添える。


江戸初期に小倉藩が製造していた葡萄品種は山葡萄であるが、どちらかと言えば、明るい紫だ。
当時、宣教師がもたらした葡萄酒はポートワインのような酒精強化されたものや「キリスト血」のイメージの赤ワインで深みのある赤だったのだろう。
何とか、この色に近づけるために黒豆を使用したのではないか。
おそらく、豆を一旦煮て(蒸す)皮から色素を抽出し、熟成した葡萄酒に添加したと推定する。
(葡萄酒は甕(壺)で醸造、この時点で仕上げたと考える)

 シャンパーニュに「門出のリキュール」があるが、これはまさに「門出の黒豆」だ。

忠興がガラシャと最も幸福な時を過ごした丹波・丹後に思いを馳せ、「丹波の黒豆」という愛のエッセンスを加えた「愛の葡萄酒」だったに違いない。

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■寶暦より天明迄・郡中法令(24)

2018-04-23 07:04:01 | 史料

 五一八
   覺
一町在運上銀稜々之内左之通
 一櫨蝋
 右は熊本町旅人より惣會所改方申付置候處、改方被指止、
 運上銀も被指免候條、相對勝手次第可致商賣候
 一麹本手 但拾五匁宛運上之内、半高ニ減七匁五分宛
 一紺屋藍瓶 但一本ニ付三匁宛之内、右同断壹匁五分宛
 一油本手 但拾匁宛之内被減五匁宛             扌偏に乄=締
 右之通當年より被減下候條、町在不洩様可被申付候、以
 上
   安永四年二月十六日

 五一九
一村々庄屋・御山口等改願之書附、今迄は時々被相達來候
 へ共、以後ハ七月ハ算用以後八月中迄取揃可被相達候、
 尤無據子細有之、差延かたき分ハ其譯被相達候上、改願
 之書附可被指出候、已上
   同年三月七日       御郡代中

 五二〇
   覺
一荒仕子共給米を以御年貢差継相願候分ハ、前冬書割を以
 皆濟目録へ立置、翌年四月迄相勤不申病死之者は村方よ
 り立返し上納皆濟、四月以後病死ハ直ニ御年貢ニ被立下
 候、其節給扶持被差放候歟、致缺落候節御取立殊外致難
 澁候ニ付、御年貢差継相願候節、自身又ハ親兄弟御年貢
 ハ差継上納被仰付、内證申談ニて村方之者たり共他人之
 御年貢差継、自身ハ村方より米受取候儀は難成候、右之
 趣は御惣庄屋其外村役人得斗相糺し、米相渡候儀無之様
 尤於荒仕子會所も精々承糺候様及達條、在方へ委敷達有
 之候條、御郡代中へ可有御達候事
   安永四年五月十八日     御勘定方御奉行中

 五二一
   覺
一田方蟲除ニ付て、鯨油差入候てハ却て害ニ相成申候事
一商賣方ニ付當時町家へ買置申候油ハ、都て鯨油ニて御座
 候事
一右之油を差入申候へハ、稲株毎に水際ニ帯を仕候様なる
 印し付申候間、競薄相成申候、尤油しつまり申候上ニて
 ハ地用随分肥へ申候、夫故稲株之根より二番仕立候て、
 双方とも初立不申皆無同前相成申候間、鯨油田方ニ堅く
 差入不申様、若蟲増方相成、銘々より油相調差入申候ハ
 ヽ、胡麻種子之油相調差入申様可有御達候事
   七月八日
 右は仁田市郎左衛門より御郡代へ被相渡、早々在中及達
 候様被申聞候事

 五二二
   覺
一田方蟲氣之節、在方へ被渡下候鯨油代銀之儀、半分ハ御
 出方に被仰付候間、油渡方等之仕法明白ニ可被仰付趣、
 當春及達候ニ付て、御郡代申談御惣庄屋共存寄をも承合
 有之、自分より才覺可仕者ハ随分銘々より相求、至て貧
 窮ニて才覺仕得不申者迄を委敷吟味仕置、蟲氣相見村々
 より願出候ハヽ、しらへ置候趣を以無間違相渡せ可被申
 由、尤差候節ハ御惣庄屋致見聞、會所役人・村役人とも
 立合紛敷儀無之様取計せ、手附横目をも差出吟味之上可
 被相達由、且又御郡ニより少々異同有之儀は其節歟被申
 達由、先達て御郡代書附差置被申御存寄無之候間、右之
 通可被相心得段可有御達候
一御當地賣買之鯨油、多は雑魚之油ニて、田方ニ差候得は
 却て蟲を生し害ニ相成由候間、自分より買調候分ハ精々
 相糺、正眞之鯨油を相求差候様、不断可被申付置段をも
 御郡代へ可有御申談候、以上
   安永四年七月十一日    御郡方御奉行中

 五二三
   覺
一諸上納銭御銀所へ納候節、缺銭改様等之儀付てハ、寶暦
 三年九月、同四年四月追々及達候處、此間在々より相納
 候銭缺立候事多有之由不埒之至候、右之通ニては御銀所
 二て改方二手數かゝり受取方も致遅候、外々より納候も
 のへ迷惑二も相成候事ニ候、鐵銭多相成當時之鳥目五拾
 目一把二て掛目拾七斤七合五勺にて候、其旨を存得斗相
 改候上相納可申候、右之通達有之候上若又缺立申候ハヽ
 其村々納は其日何程持出候とも御銀所へ受取不申筈ニ
 候、且又右之節不丈夫なるはさみ縄ハ改候て相納可申候、
 拂ぬしは纔之事ニても於御銀所は諸方より相納候事ニて、
 切銭ニ成候てハ取扱難成手數も相増候、右之趣村役人心
 を付兼て違背不仕候様筋之事
   安永四年七月十二日    御郡間

 五二四
一在中之者共無據譯有之宗旨替又ハ寺替いたし候節ハ、双
 方寺院得計懸合納得之上受込可申處、其儀無之、下方之
 物ともハふつヽか成所より猥ニ相成、間々出入有之様子ニ
 相聞候、以來新タニ旦那寺へ相頼候寺院より元旦那寺へ
 及取遣、支無之との書附受取候上且家受込可申候、尤娵
 入いたし候者ハ向方之宗旨ニ相成候事、世間通例ニ候得
 は、右躰之節ハ双方之寺ニ届ニ不及候、若譯有之郷方之
 旦那寺へ右之譯届置可被申候、此段御郡中へ御達、御同
 役中へも可有御通達候、以上
   安永六年九月六日     寺社方御奉行中

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