津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

齊茲のむすめ達

2009-06-11 10:41:27 | 歴史
 2009年02月11日 のブログで「こう姫様」を書いた。
図書館で吉川弘文堂のPR雑誌「本郷」(2003・7月号)を読んでいたら、日本中世史の斉藤研一氏の「子どもの肖像画-細川耇姫展によせて」という一文を発見、ここにあのおざぶに座った絵のほかに、立姿の「耇姫」の絵が掲載されていた。顔つきがまったく同じで同一作者(狩野弘信)のものであろうとされる。斉茲はこれを模写したのだろうとされている。

 斉茲は継嗣斉樹をはじめとして11人の子をなしたが、すべて斉茲より早く亡くなっている。「耇姫」は末娘でもあり64歳の時の子とされるから、可愛がりようも格別であったろう。女子6人のうち長じたのは一条関白忠良に嫁いだ長女のみで、耇姫の他の4人は夭折している。五女の「融姫」は文化十年の生まれで耇姫より10年早く生まれた人だが、斉茲はこの姫の絵も書き残している。(芸術新潮 2007-10月号p23掲載)
わずか六ヶ月ほどで亡くなったこの姫君は後姿として描かれているから、その面差しは窺い知れないが、可愛い夏服のふくよかな姿である。耇姫の絵と共に斉茲の娘たちに対する深い愛情が感じられる。

 (2008年11月発行の「熊本歴研-史叢」に、蓑田勝彦氏の「細川耇姫と荒仕子清七」という一文が掲載されている。興味ある一文である)

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