ゲゲゲの水木しげるが93歳で亡くなった。元気で、100歳まで生きると言っていたそうで、周囲は驚いていた。残念だが、大往生と言えるだろう。
90歳を超えた有名人の多くが、全く死ぬ気が無い行動をする。やなせたかしも死ぬまで走り続けて、「死ぬときゃ死ぬ」と他人事にしていた。宇野千代に至っては、「わたし死なないんです」とバッサリ。
死んでも不思議ではない歳に、周囲が気遣うことを拒否していた。何より自分がハネつけていた。
人間、ある程度の歳になると、死とどう付き合っていくか考え出す。ところが、意外にも長生きしてしまうと、前向きな人ほど、そんなものと付き合っていくのが鬱陶しくなるのだろう。つまり、悟ってしまう。
ところが、自分が縁を切っても、周囲は、別れた女房の消息のように歳の話を出す、
「お元気ですねえ」「お体大丈夫ですか」・・・よけいなお世話だ
やりたいことに向かって進もうとしている時に、年齢という常識の枠で邪魔立てする俗人に対して、「うるさい!」とも言えないから、「百歳まで生きる」「死ぬときゃ死ぬ」「死にません」と言い換えていたのだろう。
こうした人達は、周囲から見れば「ポックリ」死んでいる。あそこが痛いここが変だと言って、その内、寝たきりになるような人は、やりたいことや、やらなければならないことが尽きている。子育て、会社など、義務的に生きてきた人は、それが無くなると、見据えなければならない物が無くなるから、自分の状態だけを気にし始める。
歳を取れば、誰でも体調がおかしくなるが、自分のことを見つめて過ごすか、遠くを見つめて過ごすかの違いで、寝たきりと、ポックリの差が出てくる。
死ぬ時は死ぬ、「神様の言う通り」と、前ばかり向いている人は、限界まで走るから、一見、ポックリ死んだように見えるだけだ。
若くても超高齢でも、突撃人生は、皆、ポックリだ。
医療費で国費がかさむのは、高齢者の目的喪失、義務感喪失が大きい。
一億総括役社会の趣旨には賛同するが、自分がいなければと思えるような、存在感と義務感を感じる、方法と仕組みが必要だ。
大家族で暮らした昔の日本を再点検すれば、今の社会に応用するヒントがあるだろう。
なぜ、昔話にはお爺さんとお婆さんがいるのか?、高砂人形が持っている物は?、灰の縄ない話の意味は?・・・