魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

目糞鼻糞

2013年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカのトーク番組で、中国への大借金をどうすれば返せるかの問いに、6歳の子供が「中国人を皆殺しにすれば帰さなくて済む」と言った場面を流したと、在米中国人が大問題にしている。

これは、広島と長崎で二重被爆した人をジョークにしたBBC放送に対する日本中からの批難と同じだ。
下品なジョークではあるが、ジョークと理解した上で、ジョークの批判は、ジョークで返すのが、文明人の態度ではなかろうか。

異文化に対する嫌悪感はやむを得ないとしても、グローバル時代に生きて行くには、少なくとも、相手の文化から出て来る言葉であることは、理解する必要がある。
日中韓の確執も、言葉や文化が同質であるという、相互の甘えが、思慮の無い怒りにつながっている。

例えば、中国人の上下意識や、韓国人の素朴な感情が、日本人とはかなり違うと言うことを前提に、彼らの言葉を聞くべきだろう。
中韓ともに、すぐに「バカにされた」といきり立つ。さらに朝鮮の場合は、相手を罵ることが親しさの表現のような文化でもある。逆に言えば、彼らが聞き心地の良いことを言う時は、ウソと知る。

以前、南米の奥地を訪ねる番組で、森から出てきた原住民の中に一人混じった女が、人類学者の日本人に、いきなり
「お前、変なアタマ(髪)してるな、首切ったろうか?」と言ったら、他の男が全員大笑いしていた。

日本でも、大人が子供にこういう冗談を言うことがある。
初対面の大人に言うのは、彼らの視点で異邦人を見下しているのであり、同時に、ストレートな親愛の情を表している。
また、世界のどこでも、子供同士が初めて出会うと、こういう会話が交わされることがある。珍しい者と親しくなりたいからだ。

こういう悪態は、素朴さから出ている。こちらから見て、理解不能な言動の、本音や潜在意識を知れば、腹を立てることもない。
人類学の視点から考えれば、すべて興味深いのであって、対等になって腹を立てるより、どう付き合うかだけを考えればいい。
その上で、個人の生活や言動を見ながら親しくなり、本音を知れば、信頼のポイントが分かってくる。

これは、異邦人でなくても、親しいはずの家族でも同じだ。互いによく解っていると思うから、喧嘩が始まる。
相手が自分の基準で考えているはずだと思うのは、自分に対する客観性や厳しさに欠ける、甘えだ。

イスラム圏から、マホメッドに関するマンガやジョークに、テロや死刑宣告が起こるのと同様、マンガやジョークに本気で怒るのは、文明レベルの問題だ。
欧米からのこうした抗議は起こらない。それだけ視野が広いと言うことだろう。

残念ながら、日本も同じように抗議する。しかも、止める者がいない。日中韓で揉めているのにも、それなりの理由がある。日本が本当に合理的に国際法を遵守していたなら、今日のようなことは無く、中途半端な人情論で反応したことが、もつれの原因だ。
欧米には理解できない、目くそ鼻くその世界だろう。


予想提言

2013年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

言ったことが、しばらくすると実現する。半年か1年後のこともあれば、10年20年経ってそうなったこともある。
これは、予想が実現したと考えるべきか、それとも、アイデアを聞いた人が実行したと考えるべきだろうか。

このブログでも、エコビジネスや原発懸念について、執拗に書いてきたが、ほとんど実現した。
今回も、電車のホーム・ドアのアイデアが、ほぼ全くその通りに実現し、しかも、それが大変なイノベーションかのような、ニュースになっている。

ここで書いたのが、ちょうど1年前だから、これを読んでから開発を始めたとしても充分な時間だ。
1年前に書いた、ちょうどその時、開発中だったのだろうか???

どちらでも良いのだが、もし、読んで頂いたのなら、ここに書くぐらいだから、始めからケチなことを言うつもりは無いし、アイデアなら腐るほどあるので、後でも良いから一声掛けて欲しかった。
まあ、出来過ぎた偶然なのだろう。・・・ですよね

念のため、去年書いたホームドアについての記事「細やかな」と、
11月4日の、東洋経済の記事から一部を挙げさせて貰う。
パクパク2012/11/8 「細やかな

東洋経済ONLINE 全文は ↓
http://toyokeizai.net/articles/-/23190

(前略)・・・
そこで考えられたのが、ドアは左右に開くという先入観を取り払い、シャッターやすだれのようにドアを上下させるタイプのホームドアだ。板状のドアの代わりにロープやバーを使うことで重量を軽くすることに成功した。戸袋がないため車両のドア位置が異なっても問題なく使えるし、さらに言えば、仕組みが簡単なため、コストも安い。

このタイプのホームドアが10月25日、東急田園都市線つきみ野駅に設置された。列車が到着すると、20本以上のワイヤを板状に組み合わせたさくが2メートルの高さに上がり、列車が発車すると再び下に降りてくる仕組み。日本信号の開発によるものだ。
・・・(後略)


先手必勝 3

2013年11月04日 | 大転換

話を最初に戻すと
日本企業の製品が売れないのは、日本文化の弊害でもある。
島国の安定志向は、一度、上手く行くとワンパターン化を始める。
タガの外れた明治維新や、敗戦の直後は、日本文化の本質がむき出しになり、度外れた創造力が発揮された。

ところが、一度成功すると、それを不変化しようとし始める。
家訓や社訓のように伝統的なものから、集団組織、社会システムにいたるまで、着々と緻密に固定化していき、形を固めるために、国家や集団の構成員が熱心に荷担する。

最も徹底するのが教育で、可能性を拒否し、偏った人間のみを作り始める。これは日本人の合理性の悲劇でもある。
戦前は愛国、戦後は企業のために、人間的な可能性を徹底的にそぎ落とす。記憶と論理のために、創造性や柔軟性を排除し、教育現場では、それを徹底させるムードが、イジメを生み出す。

その結果として現れた、超エリートは、大局観や創造力を持てない人間ばかりになり、硬直した旧日本軍や官僚、保身だけの大企業幹部が、国家や企業を、衰退を待つだけの組織にしてしまった。

皮肉なことに、日本文化が活かされるのは、安定した日本国土ではない。むしろ、日本人が日本を出て混沌の中に入った時であり、日本にいてそれが発揮されるのは、維新や敗戦の無政府状態の時だけだ。

国際化の中で海外進出する企業も、日本国内に権限がある会社は成長できない。現地化に力を入れる企業ほど、日本人の資質が活かされる。
このことは、国家消滅の時代にこそ、日本文化が生きてくることを暗示している。

日本が自ら、工業立国を捨て文化立国知財学術立国に向かうならば、日本人、日本文化は将来、世界に大きな存在になれるだろう。
しかし、衰退すまい、亡ぶまいとする「現状発展」の努力が、かえって躍進の可能性を封じ込め、ますます危険な高みに登って行くようで、もう、とても見ていられない。息が詰まるほどだ。


先手必勝 2

2013年11月04日 | 大転換

生き馬の目を抜く世界
明治維新後、時代を拒否して亡んだ武士と、いち早く武士の精神を商売に活かした武士がいる。
これから起こる、近代国家消滅の時代にも、国家の形にこだわって亡ぶ集団と、文化資質を活かし、世界で生き抜く集団が現れてくるだろう。その最も古い集団がユダヤ人だ。

士農工商が失われた時、束縛の太平に浸って暮らしていた人々には、自由はむしろ、大きな束縛になった。自由は、誰も守ってくれないことを意味する、生き馬の目を抜く世界だからだ。

同じことが、これからの国家消滅時代にも起きる。その始まりの始まりが、現在のグローバル企業だ。幕末維新の個人のように、各地の法と権力を利用し、実体を強化している。
これからますます、様々な生命体(組織)が世界に広がり根付いていく。

ミレニアムに広がる、国家消滅の時代に逆らう国家は、騒動を起こした末に滅び、企業やマネーを上手く利用できる国家は、近代国家から新時代の生きものに変身して生き残る。
領土や民族にこだわる人々は、新しい枠に呑み込まれる氏族だ。

小さな政府を推し進め、民間に実体を移し、身を捨てて生体変化していくことのできる国家や国民は生き残る。
大きな政府は中国であり、小さな政府に向かうのはアメリカだ。
アメリカは元々、国家の末端である植民地の集合体であり、自在に変化できる複合生命体だ。

また、国家破綻して、国家を失うような小国の方が、むしろ、未来に可能性を持っていることは、極めて重要なポイントだろう。
要は、個々人、小組織の質が良く、自在にネットワークに関われる者が生き残る。

ユダヤ人が文化により何千年も生き抜いてきたように、多様な価値と権力の中を生き抜けるのは、人間の必要とするものを知り、それを提供できるからだ。権力は興亡するが、知力は滅びない。企業は興亡するが頭脳は滅びない。国は興亡するが文化は滅びない。

日本文化の力
しかし、日本人はユダヤ人のように、世界に生きる民族ではない。
災害に耐えながら、土地にかじりついて生きてきた。日本列島の枠を外れたら日本人も日本文化も消滅する。国家消滅の時代こそ、土地に根ざした日本文化に頼るしかない。

徳川幕府の束縛と保護が外れた時、日本を支え動かしたものは個々の日本人であり、敗戦の混乱を支え復興したのも個々の人間力だった。
そして、その個々を育んだものこそ日本文化だ。
文化とは絵や音楽のことではない。集団が紡ぎ出した無形の環境だ。

グローバルな無国籍時代こそ、日本文化を守る「新鎖国主義」が必要になる。日本のアイデンティティが、世界に貢献するようになるだろう。
現在の日本でも、地方の個性は全体に活力を与える。地方の個性が複層的に日本を支えているように、日本的なる地方文化は必ず世界に貢献できるはずだ。

大転換が始まったばかりの今は、国家が消滅したわけではない。
国家の消滅する未来など、ほとんどの人は想像も出来ないだろう。
しかし現代は、それを想定しなければ生き抜けない、大転換時代だ。

(つづく)


先手必勝 1

2013年11月03日 | 大転換

士農工商
日本の電機メーカは、4Kテレビで「倍返し」が出来ると信じているようだ。3Dテレビの時もそうだったが、相変わらず、解っていない。
と言うより、日本企業には出来ないのかも知れない。
物を買う人は良い製品だから買うのではない。欲しいから買うのだ。
悲しいかな、日本人は職人であって、商売人ではない。

農業にせよ工業にせよ、物をつくる者は動き回ることができない。
一方、漁民や狩猟遊牧民は、船や馬に乗って動き回るのが生業だ。
農工民から物を買って船や馬で運び、他の地で高く売りつけ、利ざやを稼いだことから、問屋業が発生し、生産者を牛耳るようになった。

近江商人といえば「天秤棒」での商いが有名だが、本来は琵琶湖の水運を支配した、湖族と呼ばれる海洋民の末裔など、伝統的に運送業による「商い」を心得ていたことと、都に近い立地も味方した。
→「モザイク列島

狭い日本列島さえ、物流を握る者が製造者を支配する。ましてや、遊牧民が馬に乗って襲ってくるような大陸では、真面目な生産より、略奪や詐取の方が、手っ取り早く支配者になれる。
彼らにかかれば、士農工商ではなく、士商工農だろう。

その理屈で、日本人が長年コツコツと積み上げて、ようやく日の目を見た成果は、中韓の大陸商人にかかれば、あっと言う間に持って行かれてしまう。政権の興亡だけに明け暮れる中華文明は、努力やプロセスより、最終的に押さえた者が勝ち、結果オーライの文明だ。

これが、中韓の「既に既成事実である」と吹聴する、言い回しだ。
中国の口だけ「平和台頭」は、言えば既成事実化と信じるからであり、韓国の「既にみんなが夢中」式の宣伝や、シェア優先商法も同じだ。

農工の国、志の国
生産をしない者、自分の身体を張らない者は卑怯者である。
そう考える徳川武士政権が、人の褌で相撲を取る商人を、最も卑怯で卑しい者と位置づけたことで、日本人は、動かず「コツコツと努力」して造ることが、一番美しいことだと信じるようになった。

しかし、その武士も結局は、商人からの借金で首が回らなくなり、黒船をきっかけに、政権そのものが崩壊した。
土地に根ざす士農工は、流通の商に支配される。身体を支配するのは、実は、血液やリンパや神経だ。
今、世界の政権も、マネーの力に太刀打ちできなくなっている。国家は動かないことを前提とする、地政学の産物だからだ。

マネーの支配
生産、蓄積、消費だけの古代に、貨幣が生まれたことで、物の価値は、いわば、重みから質量に変わった。
場所や時期や駆け引きで変わる物の価値の本質を、貨幣は一つの基準に統一した。ここで初めて、高い安いという感覚が生まれる。

さらに、産業革命による大量生産で、ものの価値が相対的に低下する一方、物を売るために生まれた組織=近代国家による通貨が、為替を生んだ。その結果、通貨は為替に支配されるようになった。

貨幣や通貨を支配する為替の実体こそがマネーであり、今、マネーが時代に迫っているものは、通貨の根拠となる「国家の解体」だ。
だから、国家は様々な形でこれに抵抗しているが、既に、デフォルトや、政治の不在などが、現実のものとなっている。
借金で実体を失った徳川武士政権が、「たった四杯」で崩壊したように、遠からず、ちょっとしたきっかけで、実体を失った近代国家は崩壊するだろう。

(つづく)