魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

賢い悪人

2013年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

読んでいないが、週刊文春が安倍総理の私的発言として
「中国はとんでもない国だが、まだ理性的に外交ゲームができる。一方、韓国はただの愚かな国だ」
と、言ったとか言わないとかで、物議を醸している。

真偽の程や、どういう流れの言葉かなど、皆目分からないから、あれこれ言うべき問題ではない。
しかし、これは中韓とは関係なく、昔からの自論と一致する。

自論
賢い悪人とは話せるが、馬鹿な善人とは話せない
どんなに良い人であっても、感情で考える人には言葉が通じない。
一方、どんなに悪意があっても、論理で考える人には、話し合いの余地がある。

感情は、感覚のストレートな反応だから、理性を介さない。感情論者は気持ちが良い時は「いい人」だが、不快になると、たちまち敵になる。
今まで、「大好き」と言っていた人が、突然、「鬼畜」と叫び出す。

論理思考は、感覚から離れて、知識に基づいて考える。異なった感覚から生まれた言葉でも、先ず、それを知ろうと「聞く耳」を持つ。
その上で、「悪意」実行の可能性を考えるから、その可能性を縮小させたり、あるいは味方に転化することさえできる。

例えば、相手にとって不利に見えることが、実は相手自身に必要なことだと理解すれば、こちらの主張を受け入れることができる。
利己的な悪人でも、賢ければ、話し合って共存することができる。

しかし、自分を善人と信じる馬鹿は、理解させようとしてもムダであり、不快にさせないように、常に気を配って、「危険物」として取り扱わなければならない。
おだて、ダマし、沈黙して、反応をコントロールし、その上で、必要であれば、静かに啓蒙する。

子供の死んだ母親に、死んだ人は生き返らないと説得し、慰めたお釈迦さんの話は、
「死人を出したことのない家のカマドの灰で生き返る」と言われた母親が、どこにも死人が出ない家が無いことに気づき納得した、方便の物語りになっている。

お釈迦さんならぬ、凡夫のわれわれは、話し合える人とそうではない人を見極め、「人を見て法を説」かなければならない。

そして、もっと大切なことは、自分自身が、実は、その馬鹿かも知れないと考えておくことだ。
啓蒙も何も、馬鹿(下手)の考え休むに似たりだからだ。

酔っ払いは自分が酔っているとは思わないし、馬鹿は自分が馬鹿とは思わない。

ネット上の争いは、善人と善人の罵り合いだ。
日中韓。悪い奴だけ生き残る。