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文化成金(2)

2012年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

[ 文化におよぶ大転換 ]

改革開放前の中国人は、美人論議になるとキョトンとしていた。
「美人って?心根の優しい人のことかなあ」と言っていた。
それが、今の中国のネット論議を見ていると、40年前に自由主義圏で交わされていた会話と同じ、姿、形を語っている。

美人コンテストが代表的な例だが、大量生産の産業革命パラダイムは、すべてを規格化しようとする。魅力も形で論じられる。
アメリカの美は、コスメやマッチョで、ギリシャ規格の量産だ。

完璧な規格製品
産業革命パラダイムが押し寄せる前の中国人は、形態には無頓着だったようだ。中国伝統の美人観はあるものの、庶民にはこれといった基準は無かったように思える。それは日本も同じで、昔の物語に美人はいても、それがどのような美人かは、あまり掘り下げられていない。

東洋の美女には、黄金比のような美の基準がほとんど出てこない。
せいぜい、緑なす黒髪とか、柳腰とか、一種のフェチであって、論理的、体系的な美には関心が無かったようだ。
八重歯をカワイイと思う日本のフェチと、「製品」を目指す欧米の産革パラダイムの人工美人とは、始めから次元が異なっている。

近年の日本の「カワイイ」は、非合理なフェチの集大成であり、それが、規格品に疲れた欧米人に、新鮮な驚きを与えている。
「J-POP」に便乗した呼称の「K-POP」だが、完璧さで日本より上だと売り込んでいる。工業製品ならそれで良いかも知れない。
しかし、AKBなど日本の「カワイイ」文化は、脱「完璧」の世界だ。

東西の融合
産革パラダイムの大転換の時代。欧米の価値観も転換しつつある。
「カワイイ」「もえ」など、日本の価値観が新鮮に映るのは、袋小路に溜まった日本文化が東洋の結晶となっているからだ。つまり、日本文化には東洋が詰まっている。

中国人が、東洋文化は中国が本家なのに、欧米では日本ばかり注目されると憤慨していたが、物も心も、既に中国では失われたものが、日本では完璧に昇華され、花開き、見事に陳列されているのだ。
また、中国では日本文化は古代中国文化の保存品だという見方も多いが、これも見当違いだ。日本文化は1000年かけた発展形なのだ。

だから日本が上だとか言うつもりは無い。ただ、行き止まりの日本は西欧の価値観も取り込んで、再び、新しい結晶を結実させている。
朝鮮半島が通り道なら、中国は広場だ。あらゆるものが出入りして止まるが、モザイク遺産であり、醸成されることがない。

果たして中国は、この先、西欧文明をどう取り入れていくのだろう。
実利主義中国での仏教の位置が、産革パラダイムの未来を物語っているような気がする。とうてい、共産中国が、産業革命パラダイムに替わる、新しい経済システムを生み出す「場」とは思えない。

そして何よりも、グローバル化の世界は、どこかの国や地域が中心になると言うことは無く、国家競争そのものが地域の足かせになっていくだろう。自国中心の経済競争をする国家は、一時的には成功するが、砂上の楼閣のように消え去ることになる。

経済、政治、文化は、常に一体のものだ。完全な政治は存在しないとしても、文化は政治経済の「質」を物語るものと言えるだろう。