魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

フランス

2012年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ショッピングモールで「アーティスト」をやっていたから、久しぶりに劇場で映画を観た。シニア割りはありがたい。
平日の最終21:25からのせいか、自分を含めて3人しかいなかった。
シニア割りの年寄りは、もっと映画館に足を運ぶべきだと思った。

白黒無声映画とは言うが、どの程度の徹底ぶりか、どう扱っているのか興味があった。
結論から言えば、「素晴らしい」の一言だ。
久々に良い映画を観た満足感に満たされた。

古き良き時代を知る人から、白黒映画など観たことも無い若者まで、おそらく誰もが納得できるだろう。アカデミー賞も伊逹では無い。

近年の機器の発達と、製作技術の向上は、創造行為を、映画館を含めるハイテク製品の単なる「コンテンツ」にしてしまった。
寸分隙の無いストーリー構成と、目を奪う演出は、全神経を集中するゲームのように、一瞬も目を離せない集中と興奮はあるものの、何か重大なものが欠落している。

近年の不可解な現象として、韓流ドラマと由紀さおりの「1969」があり、ナショナリズムの具になっているが、今回の「アーティスト」にも相通じる真理がある。

人が創造に求めるものは、単なる五官の刺激では無い。
理解や納得による哲学だ。人は、なぜ、いかに生きるかを知りたがっている。近年のドラマや映画にはそれが完全に欠落している。

だからこそ、アニメが受けるのだ。
映像刺激なら、アニメの方が無限大だ。始めから自由な表現には、「意志」がなければ、存在理由が成り立たない。

フランスの魂
「アーティスト」は、素朴で単純なメロドラマだ。こんな話を今の映画でやったら、陳腐で20分も持たないだろう。
ところが、無声と白黒という「不自由」のために、真剣にストーリーに集中する。

冷静に考えれば持って回った展開なのに、素直に感動し、「こころ」が動く。ハイテク映画による五官の刺激と違い、情報不足の白黒無声映画では、五官を自ら刺激しながら真剣に観る。
神経を集中することで、感情も敏感になり、精神全体の「満足感」が生まれる。つまり大きく感動するのだ。

昔の日本ドラマを模倣したと言われる韓流ドラマも、忘れられた40年前の歌謡曲も、心の中に一つの「世界」を生み出す。
心地良いメロディーや、古風な価値観のストーリーは、否応なく、安定した世界に浸る仕掛けとなる。

「アーティスト」は、ハリウッド創生期の映画を、ふんだんに織り込んだストーリーで、チャップリンや、バレンチノ、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースなどの名前を思い出す。

また、「しのび泣き」や「モンパルナスの灯」などのフランス映画得意の悲恋と、ハリウッドのハッピーエンドを上手く取り合わせて、古き良きストーリーが楽しめ、すっかり、当時の観客の気分になれる。

しかも、トーキー出現の衝撃や、「芸術とは何か」まで、改めて気づかせてくれる。映像転換期に投じられた、極めて大きな一石ではあるまいか。フランスの魂は死んではいなかった。

(断っておくと、さすがのジジイも、これらの映画をリアルタイムで観たわけでは無い)