魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

デスマス

2010年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを書きながら、常に不安なことがある。
文章の冗長を避け、明瞭にしようと、断言調で書いているが、嫌悪感をもたれて、のっけから拒否されるのではないかと、不安になる。
「巧言令色すくなし仁」とは言うが、日本の政治状況をみていても、世相の人物評価をみていても、「巧言令色」が好まれるようだ。
ことに近年、その傾向が強い。

同じ文章が、「です、ます」調ならどう変わるか、昨日の文章をそのまま言い換えてみた。

「人間不在」
ほんとに、今の世相は心配になります。
柳田法相辞任の失言について、世間の多くの方が「失言」だとお考えのようで、何かそら恐ろしさを感じます。
何度も言わせていただきますが、日本人の「人間力」が薄くなってはいないでしょうか。
精密機械、ガラスの国民による国家は、小石の一撃で崩壊します。

柳田法相の「失言」は、面白くはなくても、冗談でしょう。
冗談にはうまいもヘタもあります。冗談で済まない冗談もあるでしょう。
それでも、それが冗談で言われたことか、そうではないかを解った上で、むしろ下手な冗談を笑いものにするぐらいの度量があれば、人間力がより機能して、良い判断ができるのではないでしょうか。

冗談の揚げ足を取って、攻撃のネタにする野党も野党ですが、不都合だからと言って、すぐ詰め腹を切らせる与党も与党ではありませんか。
また、それを見て、マスコミ、国民の方々も、冗談は許さないのが当然だとお考えのようです。

これは、戦前の「非国民だ!」「敵性英語を使うな!」と、同じような、ゆとりの無さではないでしょうか。
「ただの冗談じゃないか」と、表だって口にすることができなくなっている時代ではないかと心配になります。

国民の人間性が衰退しているとすれば、それは「人間性」が努力目標にされた時から始まったのではないでしょうか。
「差別をするな」、「弱者優先」・・・など、人間性が絶対正義にされた時から、何かが欠落し始めたような気がします。

人間性とは、そんな単純なものでしょうか。人間性を、単純な比較論だけで考えれば、それはそうかも知れません。もしそうだとすれば、弱者優先の逆差別が起こったとしても無理からぬことでしょう。

良い例えではないかもしれませんが・・・、
身長の高低を優劣の尺度として、背の低い人に合わせることにしたとしましょう。大きい靴の生産は後回しにして、先ず、「不遇な」小さい人のサイズから生産しなければならない・・・

そんなルールが世の中の基準になっていれば、いつのまにか、身長の高い人は悪い人のような雰囲気になってしまうかも知れません。
たがいの違いを優劣として考えると、そんなことも起こらないとも限らりません。
人は心も形も多様です。幅広い理解があってこそ、人間力が育つのではないでしょうか。

劣等者とされていた人を、単純に逆の立場にしてあげることが、人間の尊重でしょうか、単に立場が逆転しただけでは、新たな差別、つまり、逆差別が生まれるだけなのではないでしょうか。

人権は平等でなければならないとしても、人間には多様な個性があります、それぞれに、別な能力があるでしょう。
例えそれが、社会にマッチしない能力であったとしても、排除されてはなりませんし、最も必要にされる能力であっても、その方が全能な人と言うわけでもないでしょう。

社会を強くするのは、違いを認め合い、助け合う「理解」ではないでしょうか、
戦後の機械的な平等主義は、そうした「人の絆」を裁ち切ったようです。
糸の切れた人々は、不安で、寛容と結束が出来ない烏合の衆のようになり、スキさえあれば、たがいに非難やイジメに走るようになりました。悲しいことです。

烏合の衆と化した人々は、付和雷同することがあります。
言葉尻や、小さなミスを攻撃するようなことは、だれでも「卑怯」なこと解りますが、
今の日本では、マスコミは小さな欠点探しが仕事のようになり、ネットでは、炎上や個人情報の暴露などが、毎日話題になり、お祭りのようです。

そうして、日本の世論はいつも西に東に揺れ動き、その度に首相が替わり、大臣が更迭されます。

日本は、首相がクルクル変わり、国民は恥ずかしいことと思っていますが、そうなったのは、冗談嫌いで真面目な、日本国民の総意とは言えないのでしょうか。

・・・・・・ あ~、やっぱり、断言調で行こう (^^;)