魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

あさり~

2010年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、「日本人は世界一器用だ」「日本人は頭が良い」と言う会話を、ほとんど毎日聞いていたような気がする。
おそらく、戦前からの、「大和民族」、「大和魂」の、民族主義がそのまま続いていたのだろう。

敗戦の失意の中で、日本人を奮い立たせるには、きっと、大いに役に立った自負心だったにちがいない。
何もかも失った焼け野原で、たった一つ頼れるものは、己のアイデンティティーしかなかったからだ。
破綻した古い時代の概念も、無から有を生み出す大きな力となった。

近頃、不況続きで経済戦争にも負け続けている中で、「日本のもの作りの伝統」とか、「日本のブランド力」とか、やはり、毎日のように聞こえてくる。
戦後、聞いた、何かに頼ろうとする言葉に似ているが、これは反対に、墓穴を掘る言葉だ。

己の「能力」を鼓舞する言葉と、「所有物」に頼ろうとする言葉とでは、祭りの宵宮と、祭りの後ほど違う。
「伝統」や「ブランド」は、先人の遺産であり、それは、現在を生きる人間が、今と戦い創造しながら、はじめて残していけるものだ。

焼け野原なのだ
ノーベル賞や日本ブームなど、今、日本が享受しているものは、過去の遺産であり、同時に、負け続けているのも、重厚長大な過去の産業システムと、そこに埋没しているマインドのためだ。

「就職難」という現象は、高度成長期の右肩上がりの大企業信仰に、企業も国民(学生)も埋没しているからだ。

先代が優秀であるほど、跡継ぎは難しい。
戦中世代が、死にものぐるいで切り開いた戦後経済を、戦後派の二代目が何とか引き継いできたものの、
「売り家と唐様で書く三代目」が、家屋敷を売り払おうとしている。

もう、売り食いもできないところまで来て、それでもなお、過去の栄光を夢見ている。
老後の優雅な年金暮らしや、個別保証のバラマキ政策など、本来、とっくに出来なくなっているのに、だれも、止めることが出来ない。
事業仕分けなど、ただの、延命処置に過ぎない。
「目を覚ませ!」と、空蔵をたたき壊すことを誰もしない以上、
黒船がたたき潰してくれるまで、待つしかないのだろうか。

「就職」する、企業もなくなれば、「夢をかなえる」などと言っていられなくなる。
食うためには、何でもやらなければならなくなるだろう。

「あさり~、しじみ~」は、起業の原点だ。