魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

暴力装置

2010年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

18日の国会で仙石官房長官が自衛隊を「暴力装置」と言ったことに抗議されて、謝罪したが、もう、何から何までメチャクチャだ。

「暴力装置」と言ったことが、メチャクチャなのではない。
すぐ、謝る態度の方がメチャクチャなのだ。
問題が起これば、すぐ対処する。取り敢えずのことを、先ず、しようとする。(まさにこれが、エンジンなのだが)
そういう態度が、立て続けの失敗を積み重ねている原因だ。

「綸言汗のごとし」と言う、古代的価値観の日本を含むアジアでは、為政者が簡単に言葉を翻したり、謝ったりするだけで、失格とみなされる。
アメリカのように、民主主義の本家では、訂正や謝罪は悪いことではないし、日本もそうあるべきだが、アジア的価値観はいまだに厳然と存在している。

だからと言って、トコトン突っ張れと言うのではない。
自分の言葉は、意を尽くしてトコトン説明をすることも責任だ。

他の失言はともあれ、「軍隊は暴力装置」であることは事実だ。
響きの悪い言葉だからと言って、間違っている訳ではない。
戦争はスポーツの試合ではない。戦争は暴力の応酬であり、それを引き受け、歯に歯を用いる役目をするのが軍隊であり、暴力装置である。それぐらい強くなければ困る。
国民が、それをコントロールするからこそ「軍」という機能が働く。

質問していた、丸川議員が「シビリアンコントロールする資格がない」と言っていたが、まったく逆だ。
暴力装置と心得るからこそ、「コントロール」できるのではないか。

軍が、内部規律の延長線上で自ら最終コントロールするとすれば、それは軍事国家だ。

たとえて言えば、腰の刀を「人きり包丁」と言う心がけこそが、抜かない意志を固める。
刀に惚れ込み美化していれば、何時、正宗が村正に変わるかも知れない。威力とはそういうものだ。

何かちょっとしたことで、すぐ態度を変える(謝る)様なことをせず、
「暴力装置をシビリアンコントロールしてこそ軍事力たり得る」
と、答えないから、話しがどんどんややこしくなる。

内政外交共に、ハチャメチャになっているのは、突っ張る「覚悟」がないエンジン政権だからだ。