ほとほと、世相にあきれ返っている。
柳田法相辞任の失言について、世間の大半が「失言」だと思っていることに、そら恐ろしさを感じる。
何度も言うのだが、日本人の「人間力」が薄っぺらになっている。
精密機械、ガラスの国民による国家は、小石の一撃で崩壊する。
柳田法相の「失言」は、面白くはないが冗談だ。冗談にはうまいもヘタもある。冗談で済まない冗談もある。
しかし、それが冗談で言われたことか、そうでないかぐらい理解して、むしろ下手な冗談を笑いものにするぐらいの度量がなければ、人間力が機能しない。正常な判断ができなくなる。
冗談の揚げ足を取って、攻撃のネタにする野党も野党だが、不都合だからと言って、すぐ詰め腹を切らせる与党も与党で、それを見ている、マスコミ、国民も、冗談を許さないのが当然だと思っている。
これは、「非国民だ!」「敵性英語を使うな!」と、同レベルの、ゆとりの無さだ。
「ただの冗談じゃないか」と、表だって言えなくなっているのだ。
国民の人間性の衰退は、「人間性」を努力目標にした時から始まった。
「差別をするな」、「弱者優先」・・・など、人間性を絶対正義にした時から、何かが欠落し始めた。
人間性というものは、単純なものではない。にもかかわらず、人間性を、単純な比較論だけで考えるから、弱者優先の逆差別が起こった。
例えて言えば、身長の高低を優劣の尺度として、背の低い人に合わせなければならない。大きい靴の生産は後回しにして、先ず、小さいサイズから生産しなければならない・・・
そんなルールがまかり通っていると、いつのまにか、身長の高い人は悪であるかのような雰囲気ができあがる。
たがいの違いを優劣として捉えれば、こういう「差別」が生まれる。人間は心も形も多様であり、それが理解できるのが人間力だ。
劣等者とされていた概念を、単純に逆の立場にすることが、人間尊重だと勘違いするから、単なる立場の逆転、逆差別になる。
人権は平等でも、人間には多様な個性があり、それぞれに、別な能力を持っている。
例えそれが、社会にマッチしない能力であっても排除されるべきではないし、最も必要にされる能力だからと言って、その人が全能な人と言うわけではない。
社会を強くするのは、違いを認め合い、助け合う「理解」だが、
戦後の機械的な平等主義が、そうした「人の絆」を裁ち切った。
糸の切れた個人は、不安で、寛容と結束が出来ない烏合の衆となり、スキあらば、たがいに非難やイジメに走るようになった。
烏合の衆は付和雷同する。
言葉尻や、小さなミスを攻撃することが「卑怯」とは、誰も思わなくなった日本では、マスコミは小さな欠点をほじくり出し、ネットはハイエナのように個人攻撃をする。
そうして、世論が西に東に群れ動くたびに、首相が替わり、大臣が更迭される。
国民は、首相がクルクル変わり、恥ずかしいと思っているが、そうしているのは、冗談すら通用しない国民なのだ。