魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本のアステリスク 米

2008年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

コシヒカリなど、聞いたことのない昔。
秋田出身の友達が「家から新米を送ってきたから来いよ」と言うので、下宿に行った。
5合炊きの電気釜のフタを厳かに開けて、のぞき込み、「よし・・・」と言いながら居合わせた四人の顔を見た。アランドロンのような美形がくずれてエビスさんになっている。
四人が釜の中をのぞき込むと
「銀シャリ」があった。

農家ではない四人が初めて見た「銀シャリ」だった。
今のように、どんな米でも達人炊きする電気釜の時代ではない。

料理は?と思ったら、一緒に送ってきた自家製の梅干しとミョウガを皿に載せて「くえ、くえ」と言いながら、自分は腹ぺこの犬のように食べ始めた。
「えっ?えっ?」と思いながら
同じように、ご飯に梅干しを載せて食べた。

米だけを「うまい!」と思って食べたのは初めてだった。

一粒の米
食糧難の時代、アメリカの給食援助と輸出戦略に乗って、パン食が進められた。
戦後、青春を過ごした80代以上の人は、朝、パン食をすることがおしゃれな「文化生活」だと思っている人が多い。
余談だが、この時代、文明よりも文化が流行った。おそらく、文明開化のもたらした戦争に対して、文化の方が人間性を感じさせたからだろう。そういえば、文明は衝突するが、文化は摩擦だ。

パン食の普及で、効率の良い経済活動が広がるとともに、古来の日本文化は崩壊した。米のブランド化が起こったのも、米離れが原因だから皮肉だ。

パン食の広がる前。おかずは、米を食べるための物だったから、お新香と、みそ汁だけで特に不思議でもなかった。女工哀史の食事メニューの「ひどさ」は、当時としては普通だった。
子供の頃、ケンカの強い筋肉マンの友達が、鮭一切れで、ご飯を六杯食べたので驚いたことがある。
農家に行くと、お嫁さんがご飯を「ほてい頭」のように盛り上げて
「上手に盛れなくて申し訳ありません」と、もてなしてくれた。
米こそが豊かさの象徴だった

日本人にとって米は神聖な文化であり、酒と餅以外には使うこともはばかられた。糊も貴重だった(舌切り雀)。
一方で、味噌、醤油、豆腐、餡、納豆・・・と、何でも豆でつくる。
米と豆と魚が、日本人と日本文化を育んできた。

「お百姓さんが一粒ずつ心を込めて作ったのだから、一粒残らず食べなさい」と言われて食事をした文化も、トラクターやビニール米袋を見て、冷凍食品をチンでは、人間が毒入りに育っても不思議ではない。