日本つぶし
アメリカの状況から生まれた「格差」と言う標語は、今や世界的なトレンドだが、そもそも、何でもアメリカの動向や流行を安易に持ち込み、日本の実情に合わないものや、無用なものまで流行らせようとすることが問題だ。そういうことを60年も続けているうちに、実際、アメリカと同じ状況が生まれてきた。
アメリカの真似をするのは良いとしても、少なくとも日本語に置き換えて考えるべきだ(直訳ではなくて)。そうすれば、日本の文化、伝統の中で考えることもできるだろう。アメリカから持ち込んだ、言葉と問題意識が、むしろ、日本の伝統的理解と解決を崩壊させている。
近年だけ、ちょっと思い浮かべても・・・
セクハラ、パワハラ。PTSD、心のケア。ストーカー。DV・・・そして、格差社会だ。
こういうものは日本にも昔からあった。ただ、とらえ方、対処の仕方はアメリカ式である必要はないはずだ。
昔の伊映画「ナポリと女と泥棒達」で、聖堂に飾られた宝を強奪しようと、アメリカの泥棒が地元の悪党と手を組む。ハイテクを駆使するアメリカ人がどうにも盗めないものを、地元の悪党は簡単に持ち出してしまう。
地元で盗まれなかったのは、盗めないからではなく、信仰心という文化に守られ誰も盗もうとしないからで、地元の悪党も単に高報酬につられただけだった。
ヨーロッパがアメリカに対して批判的、嘲笑的なのに対し、日本は二者択一だ。
極端な拝米か国粋に振れる。
現代がアメリカ化していることは事実だが、日本の底流にある伝統文化も失せてはいない。日本に起こる問題には日本人なりの解決策があるはずだ。
例えば、児童虐待の概念やその対策もアメリカ式だ。核家族化してしまっている以上、同じ現象が起きるのはやむを得ないとしても、違った対策があって良いはずだ。近頃はお地蔵さんまで盗むやつが現れたが、日本はそれでもまだ、51番目の州ではないからだ。
言葉狩り
男と女を、女性と男性に改めさせようという風潮は、日本(文化)撲滅運動だ。
言葉に否定的側面があるからと言って、言葉そのものを取り替えようというのは整形手術の発想で、「臭い物に蓋」にすぎない。「格差」という標語を掲げて、問題の本質を置き去りにすることと同じだ。
問題のある人間を次々と死刑にしたら誰もいなくなる。戦時中の英語禁止と同じ感情論では逆効果だ。
言葉の問題は使い方と意識が問題なのだ。人間も適材適所、無駄な人はいないし、ブサイクが個性として光っている「美人」もいる。
映画「男と女」を「男性と女性」と訳したら、理科の教材になってしまう。つまり、そういうばかげたことを強制するムードがあることが問題なのだ。
確かに「男」「女」は、「・・・のくせに」のような差別概念を伴って使われてきた。しかし、呼び方を変えても、根本意識と使い方が同じなら何の変わりもない。認識は名詞で変わるものではない。「女性のくせに」と5年ほど使えば、差別に何の違和感もなくなるだろう。言葉の置き換えは際限のない「おみおつけ」現象だ。
「男と女」、この奥深く味わいある言葉を、日本人として愛でようではないか。
(おみおつけ:慣れた言葉では失礼だと思い、丁寧を上乗せしていく言い換え。ご飯の付け汁=付け→御付け→御御付け→御御御付け)