魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

女と女性 (二)

2007年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

日本つぶし
アメリカの状況から生まれた「格差」と言う標語は、今や世界的なトレンドだが、そもそも、何でもアメリカの動向や流行を安易に持ち込み、日本の実情に合わないものや、無用なものまで流行らせようとすることが問題だ。そういうことを60年も続けているうちに、実際、アメリカと同じ状況が生まれてきた。
アメリカの真似をするのは良いとしても、少なくとも日本語に置き換えて考えるべきだ(直訳ではなくて)。そうすれば、日本の文化、伝統の中で考えることもできるだろう。アメリカから持ち込んだ、言葉と問題意識が、むしろ、日本の伝統的理解と解決を崩壊させている。
近年だけ、ちょっと思い浮かべても・・・
セクハラ、パワハラ。PTSD、心のケア。ストーカー。DV・・・そして、格差社会だ。
こういうものは日本にも昔からあった。ただ、とらえ方、対処の仕方はアメリカ式である必要はないはずだ。

昔の伊映画「ナポリと女と泥棒達」で、聖堂に飾られた宝を強奪しようと、アメリカの泥棒が地元の悪党と手を組む。ハイテクを駆使するアメリカ人がどうにも盗めないものを、地元の悪党は簡単に持ち出してしまう。
地元で盗まれなかったのは、盗めないからではなく、信仰心という文化に守られ誰も盗もうとしないからで、地元の悪党も単に高報酬につられただけだった。

ヨーロッパがアメリカに対して批判的、嘲笑的なのに対し、日本は二者択一だ。
極端な拝米か国粋に振れる。
現代がアメリカ化していることは事実だが、日本の底流にある伝統文化も失せてはいない。日本に起こる問題には日本人なりの解決策があるはずだ。
例えば、児童虐待の概念やその対策もアメリカ式だ。核家族化してしまっている以上、同じ現象が起きるのはやむを得ないとしても、違った対策があって良いはずだ。近頃はお地蔵さんまで盗むやつが現れたが、日本はそれでもまだ、51番目の州ではないからだ。

言葉狩り
男と女を、女性と男性に改めさせようという風潮は、日本(文化)撲滅運動だ。
言葉に否定的側面があるからと言って、言葉そのものを取り替えようというのは整形手術の発想で、「臭い物に蓋」にすぎない。「格差」という標語を掲げて、問題の本質を置き去りにすることと同じだ。
問題のある人間を次々と死刑にしたら誰もいなくなる。戦時中の英語禁止と同じ感情論では逆効果だ。
言葉の問題は使い方と意識が問題なのだ。人間も適材適所、無駄な人はいないし、ブサイクが個性として光っている「美人」もいる。

映画「男と女」を「男性と女性」と訳したら、理科の教材になってしまう。つまり、そういうばかげたことを強制するムードがあることが問題なのだ。
確かに「男」「女」は、「・・・のくせに」のような差別概念を伴って使われてきた。しかし、呼び方を変えても、根本意識と使い方が同じなら何の変わりもない。認識は名詞で変わるものではない。「女性のくせに」と5年ほど使えば、差別に何の違和感もなくなるだろう。言葉の置き換えは際限のない「おみおつけ」現象だ。
「男と女」、この奥深く味わいある言葉を、日本人として愛でようではないか。

(おみおつけ:慣れた言葉では失礼だと思い、丁寧を上乗せしていく言い換え。ご飯の付け汁=付け→御付け→御御付け→御御御付け)

女と女性(一)


女と女性 (一)

2007年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は「女の子」の日だ
近頃、「おんな」と言って、慌てて「じょせい」と言い直す「だんせい」がいる。
誰かに非難されたのか、少なくとも、「おんな」と言っては何かまずいと感じているらしい。タレントは軒並み「じょせい」と言っている。
だから、今日はたぶん「女性」の日と呼ぶべきなのだろうが、でもその前に、女性差別の象徴である3月3日であることが許されない。5日後の3月8日「国際女性デー」であるべきなのだ。
ジェンダーフリーという大義名分が、また新たな魔女狩りを生んでいる。

さかさま
弱者の立場からの攻撃は善意の相手をひるませる。しかも、失うものがないと思い込んだ弱者の攻撃は、背水の陣の苛烈さがあり、相手への思いやりを持たない。
日本の敗戦で、旧秩序が崩壊した時、弱者だった側の反転攻撃があった。明治維新の廃仏毀釈のように、行きすぎた旧秩序迫害や権利主張、中には略奪もあった。そういう過程で生まれた新秩序は、弱い者が強者であるという単なる立場の交代になってしまった。
「弱者の立場で主張すれば相手が何も言えなくなってしまう」状況が60年も続くと、弱者という強者の横暴や、弱者体制そのものの崩壊が起こる。(自ら弱者の立場を食い物にしてしまった)
いじめの場合、いじめられた子供や、その親を見ていると、相手の立場を考えようとする善意の人たちばかりだ。つまり、だからいじめられる。
ということは、いじめの背景には、善意の人たちのために、本来「制御され封印されるべき何か」が自由になっている社会があるのではないのか。
思いやりを知らない人と、思いやりのある人が対等に同居すれば、思いやりのある人の「譲り」がつけ込まれ、抑圧されるのは当然だ。
いじめの温床が逆差別社会にある一例として、いじめた側の親は人前に出てこない。さらし者になっているのは善良な被害者側だ。
強者と弱者の元祖差別時代には、「弱きを助け強きをくじく」という言葉があったが、逆差別では成り立たない。

ゆりもどしの固定化
近年、その逆差別の秩序に対する新たな反作用が起きつつある。
弱者保護の各種法律の見直し。弱者優先の無視。反日の無視。侵略の正当化。若者の右傾化・・・。
これは、ある種、旧強者の失地回復の動きだ。
一方で、
格差問題を叫んでいる人を、よく見ると何と、彼ら自身が言うところの格上の人達ではないか。これは「差別のない明るい社会をつくりましょう」という標語と同じで、差別はいけないと言いながら、実際はかけ声だけで何もせず、逆差別の圧力のみ受け入れるという「社会構造の固定化」をはかる態度と同じだ。
少しわかりにくいかも知れない。つまり、弱者を単純に優遇することは、臭いものに蓋をして、逆に暗黙の差別意識を温存し増長することだ。
「おおこわぁ~」と言いながら逆らわず褒め殺しにするような、ずるい回避策なのだ。

「格差」はいけないと叫び続ける限り、「格差」意識は定着していき、格差が実在化する。そして、逆差別のみの受け入れと同様に、格差固定化のモルヒネとして、またバラマキ行政が起こる。
差別や格差と言う前に、社会機能の足らざるところを具体的に提起すればよいのであって、「格差」と名付けて感情的対立構造を煽る必要はないはずだ

女と女性(二)