魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

政治適性

2010年06月07日 | 自動車人間学

No.923

これまで、何度か、「政治家には向いていませんか」と、相談されたことがある。

能力、資質の適性はもちろん判定するが、政治家になりたいという考え方には、個人的に、たいてい反対している。
「政治家になりたい」と思うこと自体が、本末転倒であり、実際、政治家のほとんど全てが、そういう動機でなっており、その結果が現在の政治状況だ。

情熱の結果が政治家となるのであって、政治家という職業に就くようなものではないと思う。
政治は権力であり、権力の側にない人間が権力を得ようと思えば、闘争になる。例えどういう形であれ、権力の側が無条件で権力を譲ることはないからだ。

権力の側から招待されて、権力の座に就くのは傀儡であり、本当の権力ではない。
与党であれ、野党であれ、既成政党の候補になる段階で、もう政治家という職業に就職している。

仮に、議会制民主主義のもとで単独立候補するなら、当然、無所属ということになるが、それよりも、立候補以前に、志をともにする同志集団ができていなければ、権力は握れないし、意味もない。
政治は、集団を動かす総意(民意)を引き出すものだからだ。

立候補とは、自分の意見で不特定の人々を同志にすることだ。
しかし、実際は、選挙演説で直接、民心を得ることは、地盤、看板など、様々な背景からほぼ不可能だ。

したがって、先ず、草の根から同志を募り、その同志が賛同者を集め、その過程で、集団の意志内容を強固にしながら、立候補、当選を確実にしていく。そういう、意志と勢力を拡大していくことが、権力闘争としての政治であり、それをやる人が結果として、本当の政治家となるのではなかろうか。

今回の菅総理は、そういう本当の権力闘争で、のし上がった、現在、唯一の政治家だと思う。
政治家になろうとしたのではない。政治をやろうとしてきた。
誰かに招待されたり、譲り受けたりして政治家になったのではない。

しかも、一つの主義や仲間に固執せず、政治のため、時に応じて態度を変え、組む相手を替える、極めて現実的な行動を重ねてきた。
だからと言って、菅総理が成功するとは限らない。

重要なことは、このようにして政治を志すことが、政治の常識となることだ。権力がお上から与えられる儀式のような、世代交代論まで出てくる、現在の政治の常識が変わらない限り、日本に本当の民主主義は生まれない。
政治家は、向いているかいないかの問題ではなく、やむにやまれぬ情熱の問題だから、思い立ったが吉日だ。

ところで、
政治家の適性は星座により、様々な政治スタイルが可能だが、
自動車人間で考えると、政治集団の役割分担として考えられる。
※ここで、ワールドカップの熱気に便乗して、役割分担をサッカーに例えたが、
サッカー通に、お叱りを受けるかも知れないと反省して、省略します

どんな組織にも、参謀役のハンドルは必要だが、黒幕が表に立てば、ブッシュや金正日のように悪役になってしまう。


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