魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

要するに

2021年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

テレビで深川のアサリ飯が美味そうだった。
たまたま、大津京(西大津)のイオンで、テーブルマークの冷凍アサリ飯を見つけたので、試しに買ってみた。電子レンジだけでアサリが香り立ち、うまい!

その後、京都で探したが見当たらず、イオンに行けばあるだろうと、地下鉄で行かれる椥辻のイオンに行ったが、見当たらない。半分意地になって、このまま地下鉄で行かれる二条のイオンに行くことにした。
地下鉄三条駅で降りて、花見小路を北に700mほど歩けば良いと、気楽に三条駅を降り、東の一番出口を出た。ところが夜で、出たのが道の北か南か分からない。
何度か来たこともあるし、多分北だろうと思い、左の東に歩き始めたが、曲がるはずの道が見当たらない。引き換えすことにしたが、出口が南だったのかもしれないと思い、ちょうど変わった信号を渡り、南北の道を歩き始めたが確証がない。人気がない道をスマホを見ながら歩いて来る男性がいたので
「すみませ~ん、向こうは北ですかあ」
「キタ?ワカリマセン・・・ムコウハ、シジョウデス」
どうも東南アジアっぽい人だった
「ありがとうございま~す」
やっぱり反対だ。方角が決まれば、あとは確信を持って歩けた。

二条のイオンにも、やっぱりアサリ飯は無い。ますます意地になって、これはもっと大きい五条のイオンに行こう。そう決めたものの、もう一度三条駅まで帰るのと、東山通りでバスに乗るのと、どっちが歩きで近いんだろう。

「すみません、ここから三条駅に行くのと東山通りに出るのとどっちが近いですか?」
商品を並べている女性店員に、聞くと
「エ!ア、ア・・・ドコイキタイデスカ」
(あ、中国人だ)
「五条のイオンに行きたいんですが、地下鉄で五条に行くのと、東山通りでバスに乗るのとどっちが良いか、近い方にしようと思って・・・」
「アー、チョット、マッテクダサイ」
言いながら、スマホを素早く取り出すと集中している。
邪魔にならないように、はじに寄って待っていると、
「チョット、ツイテキテクダサイ」
と、どんどん入口のほうに歩いていく。
表に出て指さし、
「アソコニ、バステイガアリマス」
「え、東山に出るバスですか?」
「イエ、アレデ、ゴジョウノイオンニイキマス」
「??え、五条まで直接行くんですか!?」
「ハイ、モウスグキマス」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と、何度もお礼を言いながらも、半信半疑で行ってみた。
暗くて分からなかったが、本当にバス停がある。スマホの明かりで時刻表を見ると、32番の京都外大行きだ。しかも2分で来た。二条通に、こんなバスがあったんだ。
キツネにつままれたような気分だった。

完璧の夢に耽溺する日本
結局、彼女はバスのあることを知っていて、時刻表を調べ、すぐ来なければ、東山か三条を答えるつもりだったのだろう。そして、たまたまバスがすぐ来る時間だったわけだ。
今日、口をきいた二人がどちらも外国人だったとは・・・日本も共生時代だ。
それにしても、外国人と日本人の思考の違いに、改めて心配になる。
外国人の多くは、「要するに・・・」の世界で生きているが、日本人は、事細かなつじつま合わせの完璧主義に耽溺している。

最初に「北」を訪ねた東南アジア人?は、直接の答えにならなくても、何らかの役に立ちそうな情報を提供してくれた。
駅を尋ねた中国人の店員は、尋ねる人の目的に一番沿うことは何かと考えた。
つまり、相手のニーズは何かを最初に考える姿勢が、徹底している。
これが日本人だと、まず、ミスをしないことを考える。相手の意図が分からなければ即答しない。意図が分かっても自分の答えがあいまいだと言葉を濁す。逆に、意図もわかり答えに自信がある場合は、くどくどと聞かれていないことまで話す。

日本人のこの習慣に、大方の日本人は気づいていない。一つの文化の中にいれば、その指向に忠実になるばかりで、他の方法や価値観を考えなくなる。
日本企業が陥っている衰退は、現実よりも、旧態を守ろうとする互いの牽制によるものであり、根本的な原因は「偏差値受験による異質排除」を、半世紀も続けてきたことにある。受験勉強という「与えられたテーマをこなす」能力だけが選別され、その秀才が産官のトップにある。
想定外の事態に、自分なりの判断で下す創意工夫がない。テーマを自分で創り出す勇気が無い。日本製品は完璧で美しいが、心を打たない。人の心を打つものは、形ではなく情熱だ。
ソニーがiPhoneに劣っていたわけではない。


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