魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

死仏生仏

2012年06月11日 | 兄弟関係

両親が高齢離婚して、独居した父親が同じ町で病死したが、離婚した母親同様、闘病中も死ぬまで一切関わらなかった三兄弟の長男が、仏壇位牌を持ち帰って、墓守をすることにした。

父親と特に不仲だったわけでもないのに、近くに居ながら、闘病中に死ぬまで病院に顔を出さなかったのは、母親に同調して嫌ってか、遠慮してのことだろう。
30才を過ぎても、親に言いくるめられている例は少なくない。
自分が実際に体験したわけでもないのに、親の言い分を真に受けるのは、反日教育と同じ事だ。

大人になって自分の判断力を持った人なら、親がどう言おうと、客観的事実を考える。
反日の中国でも、政府の言い分を信用していない人は少なくない。(韓国の場合、政府批判は、北の立場に替わるだけだから、反日への疑問は起こらない)

兄弟関係で言えば、長子の方が弟妹より客観的だが、国家でも中韓のような差になって現れるのは面白い。
中国人が政府の立場通りの反日ではないからと言って、愛国心が無いわけではないように、親の言い分を信じなくても、親を愛する気持ちが失われるわけではない。

親でも国でも友達でも、あるいは恋人でも、相手を本当に愛することは、その人(の言い分)を信じることではない。
冷静に客観的に見ながらも、その人の為になることを考えることだ。

糖分を摂り過ぎてはいけない人が、「ケーキを食べさせてくれないのか」と怒っても与えないのが愛情であり、同じ人が死にかけて欲しがっているなら、与えるのも愛情だ。その判断ができるのが大人の判断力というものだ。

敬虔な墓守
冒頭の長男が、なぜ、実父のいまわの際まで会いに行かなかったのか分からない。そんなことも無いとは思うが、実父が望まなかったのかも知れない。
事情は分からないが、最後まで会いに行かなかった父方の、位牌や墓の面倒を見ようという話は、一面の理屈だが、大局を見失っている。

兄弟そろって母に従い、父に会わなかったが、弟達とは違い、「長男」の意識があったのだろう。
大家族時代の家系を守る責任意識が、誰もが拒否する、父方の墓守をしなければならないと思わせたのだろう。そこまでは一面の理屈だ。

しかし、家系を守る責任者(今はそんなものは無いのだが)であるならば、どういう事情であれ、父の看取りをするのも責任のうちだ。
看取りは父の親族にまかせて、祭祀権だけ行使するのは、責任意識では無く自我意識だ。

父は三男で、祭祀権者でもなく、墓も位牌も生前、自分で建てたものであり、それを守ることは、一族の家系を守ることではなく、父に始まる家系を守ることになる。
父の家系を守るなら、父を生前から守るべきではないか。母の言い分に従いながら、死んでから守ろうとするのは、自分のルーツだけしか関心が無いわけであり、究極の自己中だ。

ここで言いたいのは、墓を誰が守るかとか、親孝行をすべきだという話ではない。
形骸化した家系や葬儀にとらわれて、人間としての判断力を失うのでは情けないという話だ。

世の中には、葬儀や墓参りには熱心だが、仏の生前には一切関心が無かったり、争っていたりする例は少なくない。
歴史的にも日本の場合、政権を取った側が、滅ぼした亡霊に恨まれないように、神社を建てたり、厚く供養する。

墓参りに熱心な人は、あたかも仏を敬愛しているように見えるが、実は、そうしないではいられない事情を抱えた、自己中の表れかも知れない。
人への敬慕は生きている時にこそ意味がある。
死に仏より生き仏


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