魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

不浄不潔

2020年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
実は子供の頃、教育用スライド幻灯・・・と言っても解らないかも知れない。今ならプロジェクターで動画、あるいはタブレットでチェックだろうが、昭和30年頃の学校は幻灯機でスライド写真だった。
暗室で見た、「手を洗う」話に、大きなショックを受けた。
先ず、手はいかに汚いか、どれだけバイ菌が付いているか、身の回りはいかにバイ菌だらけかを見せられ、「手を洗いましょう」で、手の洗い方を説明。
石けんの有無、水流の強弱で、手のバイ菌の落ち方がどれだけ違うかを、丹念に比較する写真のインパクトが、心の奥深く焼き付き、朝から晩まで手を洗うようになった。
これが習性になり、アライグマとして大人になると、手の温かみが汚れの手袋のような気がして、すぐ手を洗いに行く。

元々、脂性ではない上、これだけ手を洗うと手はガサガサだ。「指パッチン」がどうしても鳴らない。ハンドクリームも、塗った触感そのものが手を洗いたくなる。
買物には、袋詰めビニールを開くため、小さな水スポンジケースを持って行く。

これだけ手を洗うのに、30代には、食中毒にやられた。
食中毒は、自分が気をつけても、食事提供者のミスがあれば、「一服盛られた」ようなもので不可抗力だが、一緒に食事した人の中で自分だけ「当」たった。そもそもが虚弱体質なのか、手の洗い過ぎによる抵抗力の退化なのか、菌に弱いようだ。手を洗い出してから後の少年期も、自慢したいほど様々な病気に罹った。

この手洗いは、強迫性障害だと言われるだろうが、自分ではそうではないと思っている。
洗うには一応、理屈があって、汚れが想定される物に触れたときや、食品などに触る前に洗う。この条件がなければ、手の温かみを感じても、すぐ洗うわけではない。
また、手を洗える環境が無いところに行った時は、頭を切り替え、『もう、自分は外の環境と同じ、全て汚れた人間で、手だけ洗っても意味が無い』と言い聞かせて過ごす。
しかし、清潔に保てるところなら、やはり執拗に洗う。洗わずにはいられない。つまり、ある程度、理性的に制御できている。

大人になり、手を洗うだけが万能ではないことも解ったし、この習性は自分でも鬱陶しいので、意図して、汚いことを心がけることにした。
観念的な不浄と、物理的な不潔を峻別し、「汚い」と思われることも避けない。「きれい」に見えることでも、不潔であれば避ける。
日本人的常識では不潔なことでも、欧米人は無頓着で、それでも病気に罹らないのを見ていると、むしろ抵抗力が付くのではないかと、乾いたテーブルに落ちた程度のものは、積極的に食べることにした。(ただし、人前では気分を害するかも知れないし、公衆の場は不潔が成立している。他人の不浄と不潔は配慮する)

コロナが残すもの
子供の時に焼き付いた「手洗い」を克服するために、わざわざ、こんな努力もしてきたわけだが、今回のコロナショックは、子供たちに大きなトラウマにならないか心配だ。
手洗いうがいは絶対的に良いことだが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、抵抗力が低下するかも知れない。
子供はどこにでも入り込み、何でも手にして、汚さかのなかで抵抗力を育んでいく。これも重要な成長プロセスだ。
子供だけではない、近年、「除菌、除菌」と、不浄と不潔を取り違えた「清潔信仰」が広まっていたところに起こったこ大異変で、社会全体が中世のように忌避化しないだろうか。
マスクしない人を白い目で見るように、不潔と「信じる」不浄で、差別が生まれたり、職業差別が生まれたりしないだろうか。

差別は、無知、無理解から起こる。自分は特別だと思い、特別な自分を侵されないために、自分の知らないもの、理解できないものを差別し、拒絶する。差別する人の知的レベルとは、自ら差別されるべき無知蒙昧なのだ。
今起こっている医療従事者への差別は、まさに、無知蒙昧、想像力の欠如であり、差別する人こそが差別され、教育されるべき人なのだが、この先の社会は、この種の偏見が次々と起こり、戦時中のように、寛容さの無い不浄ヒステリーが横行しないか心配だ。
逆に、戦時中に育った戦後の若者のような、反動になるのかも知れないが。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿