魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

逃避難民

2015年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

60年安保を見て育ち、70年安保を過ごした者としては、晩年に見る今の状況に、何の感慨もない。
一つ一つの問題に、様々な思いはあるが、歴史や運命の観点で見れば、何の驚きも起こらない。人間は、しょせん、こんなものだ。

宇宙の生々流転は、人類の歴史にも、一点の狂いなく映される。
無秩序に見えるものが秩序であり、秩序に見えるものが、無秩序の片鱗に過ぎない。
人間個々が思う、有るべき姿が錯覚であったり、有ってはならないと思うものが真理に基づくものであったりする。

平和への道は真反対から向かっていても、歩む人は、自分の道しかないと信じている。
確かに、山の反対から登れば、いずれも頂上に到達できるような気もする。
平和のために武器を持たない。平和のために武器を持つ。どちらの言い分も、それぞれ論理的に語ることができるだろう。紙の表と裏に別々の絵を描けば双方とも立派に仕上がる。しかし、そのことが、両方の絵が、絵に過ぎないことを示している。
実体は、どちらの絵でもない。実体は絵に描けるほど単純なものではない。

森羅万象の摂理は、割り切れないところにある。細胞の共生や微生物との共存、世界に遍在する多様なDNAなど、いかなる過程でそうなったのか。和合よりも苦難混乱の方が多かっただろう。今日の地球の姿、生命の姿は、その歴史の結果だ。
食う者、食われる者がいて、生命が続いてきた。食われる者だけを見れば悲劇であり、全体を見ればそれは摂理だ。食われ続けるうちに、共生者になって生き延び、しかも主体となる。

今も争い合う民族や国家など、その成り立ちを見れば、いずれも綾なす糸であり、何を持って出自の誇りにしているのか、理解に苦しむばかりだ。
あれだけ頑固なユダヤ人は、見た目は黒人も白人もいる。また、民族を煽り立て、差別云々と声高に叫ぶ集団ほど、成り立ちがおぼつかない。目に見える絵に仕上げなければ不安になるからだ。

今もシリアの難民が500万も移動している。歴史の中では、身体一つで逃げ込む難民や、武器を持ってなだれ込む難民が、繰り返し地球上を覆ってきた。侵略の歴史は逃走の歴史でもある。純粋な侵略に見える新大陸も、たぐれば、欧州の食い詰めが見える。
日本人はどこから来たのか、その答えも同じ脈絡にある。天から降りてきたのではないことだけは、確かだ。

ものごとは、押さえつければ、漏れ出すか、爆発をする。
安倍ちゃんの、お手盛り誕生プレゼントとなった安保法案だが、この事態を招いたのは、中韓の日本叩きと、横暴な振る舞いであることを、中韓人民は微塵も感じていないだろう。
彼らは常に言う。「足を踏みつけている者には、踏まれている者の痛みは解らない」と。