魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

縄文の魂

2015年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム

古いVHS録画を観ようと思い、3台のVHSを試したが、全て機能しなくなっていた。
数年前に動かした時は、いずれもかろうじて動いていたが、今回は、テープの挿入自体が困難になり、挿入できたものも、一台は送りも巻き戻しもできず、もう一台は、テープが出せなくなってしまった。

カバーを開けて見たが、上面からだけではどうにもならない。あまりひねくり回すと、却って手が付けられなくなるかも知れないので、そのまま元に戻し、メーカーのサービスを検索すると、「修理受け付け終了」となっている。

VHSの仕組みは、極めて複雑で、素人はうかつに手を出せないことは知っていたので、途方に暮れたが、どこにも頼めないなら、一か八か、自分でやるしかない。
動かない原因は、おそらく、ゴムベルトの劣化だろうから、こいつさえ替えれば動く可能性はある。

ネット上で探すと、やはり、修理キットのようなものが売られている。需要があるのだろう。直せる保証はないが、これしか道は無さそうだ。ただ、ベルトの位置がどこなのか、どうやって取り替えるのか、まだ、開いてないから皆目、見当が付かない。

ハウルの動く城
日本のVHSが世界を席巻したのは、この複雑な機構を誰もマネできなかったからだが、デジタル時代になって、全てがICに組み込まれ、ガチャポンと組み立てできるようになったら、隣の意地悪じいさんでも、簡単にマネして大金を設けた。

VHSは恐らく、テープレコーダーの仕組みから、発展させたもので、そのアイデアは欧米のものだが、日本の職人に掛かると、『ハウルの動く城』のような、ハード時代の極致にまで発展させてしまった。
縄文土器からカラクリ人形に至る、日本人の凝り性がこんな物をつくり出した。
しかし、この視覚的詳細にこだわる質が、抽象概念の実用化を疎かにしてしまった。

日本が電脳ソフト面で後れを取るのは、能力が無いからではない。関心が無いからだ。
今でこそ、焦って自動運転開発に集中しているが、世界が先行するまで、自動車のハード面にしか関心を持たなかった。もちろん、IC化は進んでいたが、あくまで人の補助としてであり、次元を超える、自動運転には注力されなかった。

日本人の感性が、即物的な美や完成度にこだわり、妄想の実現には興味が無く、ゲームやアニメに熱心なことは、いかにも、AB型的国民性をよく表している。
妄想はゲームやアニメの世界と割り切り、自然に有る物は、庭や盆栽のように、そのまま美しくしようとする。大自然の摂理に従いながら夢を見る。それが、AB型の使命感とメルヘンだ。

ただ、手塚治虫の世界がロボットへの関心を高めたように、妄想を具象化するイメージを、既存の世界のたたき台として、次なる既存世界の完成度へと向かっていく。日本人にはそういうステップが合うようだ。

この点で、妄想をいきなり実現させようとする欧米のような冒険魂はなく、多くは、アイデアを後追いしていくことになる。
そこが残念なところだが、漫画やアニメでイメージ化された物への執着心と、緻密な完成度を求める習性は、ロボットや、ロケット製作には適しているのではなかろうか。