魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

馬鹿下駄

2015年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム

意味の無いことを評して、「バカげた」事とか、「アホ臭い」とか言う。他にも、「ナンセンス」とか、あるいはストレートに「無意味」、時には「意味な~いじゃん」とか、方言も入れていくらでもある。

戦後70年ほど、そう言いたくなる騒ぎはない。50年とか100年なら解るが、70年の「特別」は、単に10年の陪乗だ。戦後10年も戦後70年も同じ区切りで、他に何の意味があるのか、もしかして、7のちょうど10倍だからラッキー10倍説なのだろうか。
50年や100年の区切りは、世紀単位の節目と言えるが、70年は、特別視して騒ぐほどのこととは、とうてい思えない。

70年を盛り上げようとしているのは政治家とメディアだけで、何でも有りのプロパガンダ、めしの種であることは、誰の目にもあきらかだ。
見栄えを良くする粉飾決算などに「下駄を履かせる」と言う。高下駄でなくとも、下駄を履けば、歯の分だけ背が高くなる。

政治家やメディアのバカ騒ぎは、自分の魂胆に下駄を履かせるために、70年を盛り上げる「馬鹿下駄」だ。
こんなのと比べれば、戦争も平和もあった、甲子園100年の方がよほど意義深い。
もっとも、甲子園も朝日の魂胆から始まったことだが、それを言えば身も蓋もない