魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

百均人生

2015年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

百均が生まれて以来、すっかり百均市民だ。付加価値を考えなければ、たいていの物が百均で間に合う。簡単に壊れたとしても、また百円で買う方が安い。
昔の、職人手作りの時代と違い、百均は、複雑なものまで、ガチャポンとできてしまう時代の象徴だ。時計まで百円では、国家の命運を賭けて懐中時計を作った職人が泣くだろう。

大量生産大量消費の時代には、極論すれば、高級品など存在しない。多少の質の違いはあるが、間に合わせの使用には全く問題ない。家で棚一つ吊るのに3000円のドライバーは必要ない。百円のドライバーで充分役に立つ。
耐久性や、感触の違いを気にすれば、やはり百均ではとなるが、その元の高級品自体が、機械工業製品であり、世の中にいくらでも転がっている。

どうしても、百均を信用できない人は、全て、職人のオーダーに頼るべきだろうが、職人の作品とロボット製造では、むしろロボットの方が信頼できる。職人技には生身の人間としての出来、不出来が発生する。
名器といわれる物にも、職人、時代、場所による運不運があり、必ずしも良いものができるとは限らない。
それより何より、もう職人がいなくなってしまった。

百円で時計ができるのは、判子でポンの印刷技術でできるようになったからで、知恵も技も、時間も要らないからだ。この状況が、技術大国日本を追い詰めた。皮肉にも、技術の発展で新興国を生み出したのは、日本などの先進国自身だった。
軍事大国が手に負えないテロリストの武器は、軍事大国自身の製造だ。911の犯人は、何一つ武器を作っていない。
百均は、大量生産大量消費による飽和の姿。産業革命パラダイムの終焉の象徴だ。

百均には何でもあるが、さすがにパンツだけは買う気がしなかった。
しかし、年々、見る度に見た目は良くなっている。食わず嫌いはいけない。ある時ついに、「一度使ってみよう」と意を決して買ってみた。ポリエステル65%綿35%と書いてあるトランクスだ。

生地はペラペラで、ゴムもフニャフニャ。
『やっぱり百円だ。でも、使い捨てだから、これでも良いか』
そう、思って使ってみると、ほとんど存在感がない。少し上等のパンツは、平ゴムがガッチリしっかりしていて、メタボ腹に食い込み苦しいが、この存在感のなさは、あたかも天衣のごとき、といえば言い過ぎだが、思わぬ気持ちの良さがある。

もう1年にもなるが、いまだに、ゴムも緩まなければ、綻びもなく、捨てようにも捨てる機会がない。むしろ、上等なパンツの方が平ゴムの伸びるのが早い。
百均恐るべし。