NHK「古田家のテレビ」で、東京オリンピックの3年前に東京を走るアベベは、バイクの野次馬に取り囲まれ、ひどい状態で走っていたが、警察も取り締まらなかった。
現在の日本人は、何かといえば、中韓を笑いものにするが、欧米への買い物ツアー、東南アジアへの買春ツアー・・・の歴史を知っているのだろうか。
懐かしの昭和30年代と言われるが、恥ずかしの30年代でもあったことも知っておくべきだろう。焼け野原の戦後から、わずか十数年。今なら、2000年頃に焼け野原だったわけだから、ついこの間のことだ。
しかし、あの戦後の混沌が日本をリフレッシュさせ、経済成長の原動力になった。
旧弊が一切取り除かれた何も無い天地で、全てがイケイケ。ちょうど昨今の中国のように、あっという間に企業、産業が勃興し、甚大な公害が起こった。アベベの騒ぎは、その頃の無秩序ぶりを克明に記録している。
無秩序だから元気だったのであり、元気だから無秩序な青年日本だった。
当時の混乱ぶりは今の日本の価値観からすれば、あり得ない恥ずかしさだ。逆に言えば、今日の日本の閉塞は、経済発展で積み重なった成功体験や方式が、十二単のように覆い被さり、日本人を身動きできなくさせているからだ。
今、何かと言えば、「ヒンシュク」とか、「あり得ない」とか、「どや顔」とかの言葉が氾濫し、勝手な行動や出る杭を押さえ込もうとする空気ばかりだ。社会全体が、目立っては生きられない「いじめ教室」のようになっている。
「電車での携帯電話はお控えください」と告げるアナウンスを、普通のことだと思って聞いている人は、完全に閉塞社会にはまり込んでいる。
電車では、話しさえしてはいけない雰囲気がある。携帯で話してはいけないから、電車で話してはいけないになり、みんな沈黙してスマホだけを見つめる電車風景を、異様だとは思わない社会を、異様だと思わないことの方が恐ろしい。それどころか、国としての先進性だとまで思っている。
携帯電話が出現した時のバブリーマンが、得意げに電話する横柄な態度を締め出すために始まった、携帯電話危険物論で、日本の「携帯マナー」が始まった。
携帯でする会話と、人同士でする会話の声に物理的な変わりはない。しかし、携帯出現当時には、一人で話す風景に、慣れていなかった。ただそれだけのことだった。
本来日本は、公共の場で、知らない者同士が、積極的に言葉を交わすのがマナーだった。黙っていると、むしろ変に思われた。(世界では今でもそうだ)
「袖すり合うも多生の縁」と言われ、その様子が森の石松の「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」や、「三十石船」の噺に残っている。
そうした、人間の関わりを捨て、スマホ、ネットの中だけに逃避することで、みんな沈黙する社会は、表面的には美しい秩序に見えるが、陰湿で非生産的な社会に埋没していく。
そんな今の日本から見ればとんでもない、中国や日本の30年代こそが、閉塞日本を打ち破る原動力になるのであり、アベベを困らせた、傍若無人こそが当時の活気そのものだった。
今の日本に必要なものは、生意気な奴、下品な奴、そしてそれを面白がって許す、社会のメンタリティーではなかろうか。