今度は米チームが発表した。オヒツジ座時代の発毛ラッシュだ。
昨年からの日本チームの成果に続き、米国コロンビア大学チームは「毛乳頭」細胞を培養する簡単な方法で、同じような成果を出した。
世界中が先を争っているが、これが成功しても、せいぜい、イグノーベル賞ぐらいだが、どのノーベル賞より儲かるだろう。
毛髪が欲しい人の努力は、涙ぐましい。かなり昔の海外ニュースで、牛の唾液に発毛効果があると信じる光輝な人々が、牛小屋の前に並んで、牛に頭をなめて貰っていた。
なめて貰うために頭に何かをべったり塗っているのだが、それが何だったかは憶えていない。
頭髪へのこだわりは、帽子と同じ保護願望だ。
日射や寒気、落下物からの保護など、実用に根ざしている。
実際、毛が無いと、直射日光の下で脳が熱せられ、ボーッとなる。
冬の寒さには、頭がカキーンとして、全身が一気に寒くなる。夜は頭が冷えて寝られない。頭髪は、確かに役に立つ。
丸刈りや剃髪は、捨て身の姿だ。
仏教の剃髪が何で始まったのかは分からないが、清潔、布教のインパクトなど、様々な説があるとしても、身を捨てて「帰依」する決意の姿には違いない。
だから、仏教国の旧日本軍や運動部には、「滅私」の丸刈りが強要されるのだろう。
ところが、封建社会は、女の黒髪やブルカ、ベール、スカーフなどのかぶり物を要求するし、男も、日本の烏帽子のようなものから、世界的にも様々な冠や帽子がある。
頭髪も、帽子も、保護はやがて束縛になる。これは、保護が母性であり、母性がやがて束縛になるのと同じことだ。
そのせいか、帽子好きは、カニ座かその裏の山羊座に多い。
面白いことに、軍隊や、刑務所のように、強制的に自由を奪われる象徴の丸刈りだが、逆に、自ら進んでやれば、むしろ自由の象徴になる。
これは、「かぶり物」を要求する封建社会を否定するからだ。
つまり、自由を奪うための丸刈りは、単に、封建社会の市民権の剥奪に過ぎない。
猿が、尻尾の無い人間をバカにするようなものだ。
「かぶり物」の積極的否定は、自由の象徴になる。
フランス革命後の女性のショートカットも、束縛と保護からの自由を表したものとして有名だ。
そうすると逆に、ビートルズに始まった長髪は封建復古だったのだろうか。
これは、また別の意味で、封建も近現代も含め、社会そのものの否定の象徴だったわけで、あえて言えば原始回帰の象徴だ。
髪にこだわるのが、保護願望であることを、何となくみんな解っているから、バーコードや、ズラがバカにされる。いいオヤジが保護を求めている姿が、「おしゃぶり」をくわえた赤ちゃんを感じさせるからだ。
頭部や頭髪を意味するオヒツジ座は、生まれたての赤ちゃんも意味する。