実家で古いものを片していると、脈絡なく様々なことを思うのだが、
やはり今ちょうど秋祭の季節ということもあり、
子供の頃に印象に残った例祭の小さな風景を
久しぶりに思い出すことが、このところよくあった。
古い座敷にも、昔のままの玄関にも、そのときどきの風景が、あった。
いつ頃やめたのか定かでないが、私が小学生だった頃からしばらく、
つまり昭和40~50年代には、例祭当日は我が家で「おやど」をしていた。
文字通りに宿泊施設になっていた訳ではないのだが、
祭をされる神官さんや笛太鼓さん、巫女さんらが、
我が家の「中の間」や「座敷」で着替えや食事などをされていたのだ。
我が家は神社のお膝元にあり、地元の古い本家であったので、
そういうお役目も果たしていたようだった。
祭当日、普段は閉ざされている、中庭と表玄関の間の大きな木戸が開かれ、
準備のできた神官さんや笛太鼓さん巫女さんは、
時間になると我が家の座敷から中庭に降り、
木戸から出て出発し、神社の参道を参進して、
鳥居をくぐり、石段を登って、境内に上がられていた。
参道脇にずらりと並ぶ露店と、そこに集まった参拝客が、
しばし手を止めてその様子を眺めていたものだった。
祭が終わると彼らはまた引き揚げてきて、我が家の座敷でくつろぎ、
うちで用意したお膳で、ひととき、食事をされた。
子供だった私は、一番若い神官さんとはときどきお喋りした。
ほかの神官さんや笛吹きさんは割と年齢が高く、近寄りがたかった。
私がもう少し大人に近づいてからは、巫女さんたちの着付けを手伝ったりもした。
神官さんたちの色とりどりの装束や、巫女さんたちの綺麗な舞衣など、
幼い私の目には実に鮮やかで、今も当時の印象を思い出すことができる。
一方、祭の日には、我が家には、
「おとこし」「おんなし」さんたちも集まってきていた。
「おとこし」は「男衆」、「おんなし」は「女衆」の方言だったのだろうが、
祭の日の様々な用事や作業の手伝いに来ていた人たちだった。
彼らにもお膳はあったのだが、明治生まれの祖母は、
彼らを決して座敷まではあげなかった。
こうした手伝いの人たちの食事は、
玄関を入ってすぐの畳の間で、別に用意されていた。
使用する座布団も、座敷のものとは種類が違った。
子供心に私は、どうして別々にするのだろうと納得できなかったものだった。
これは差別待遇ではないのか。
祭員のひとたちも「おとこし」のおじいちゃんも、みんな、
村の祭りを一緒にやる人たちではないか!
思えば、家族の中で戦後生まれは私ひとりだった。
民主主義教育どころか、当時の大人たちは、
士族だ平民だという感覚から全然自由になっていなかったのだった。
今はこういうことは全部、なくなった。
何もかも神社のほうで完結していて、神官さんたち祭員の人たちは皆、
社務所の、カーテンで臨時に区切られた「更衣室」に男女別に入って着替える。
私は今や、自分の娘より若い巫女さんたちの着付けを手伝っている。
宮司さんたちの正装の「袍(ほう)」の衣紋者をやることもある。
そして彼らは皆、お膳でなく「弁当代」を現金で貰って、
神社で源泉徴収された(!)報酬を受け取り、祭典後すぐに帰って行く。
「おとこし」「おんなし」は無く、総代会と地域の当番とで、
祭の準備もお茶出しもやっている。
裏方の関係者に必要な食事は、神社の経費で弁当を取るなどしている。
良くなった。随分とマトモになったと思う。
何より、今も我が家で「おやど」なんかしていたら私がシぬところだった。
私は料理が嫌いだ。早朝から煮物や寿司や吸い物を用意するなんてご免だ。
神戸の街から嫁いできて、母はよくもあんなことに耐えたものだと思う。
誰がいつ、どう言い出して「おやど」が終わったのか知らないが、
私はその決定に心から感謝している。
ありがとう。御蔭で私は、今年もなんとかこの季節をやり過ごしているのだ。
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