goo blog サービス終了のお知らせ 
転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私が予言めいたことを言うと、それをあざ笑うかのように
途端にそこから話が反対方向に行ってしまうことが多いので
楽観的なことは極力、言わないように気を付けているのだが、
とりあえず今日までのところ、事実として、COVID-19感染者数は、
日本に関する限り、夏以降は横ばいが続いている(汗)。

GoToキャンペーンが始まり、各種規制が緩和され始めて、
9月、特に月末の連休以降、患者数は上昇に転じるのだろうと覚悟していたが、
今のところ、総合的に見ると増えも減りもしていない。
全国的には、毎日500名前後の新規感染者が報告され、同じく500名前後が退院し、
その結果、いつも患者数は5000名台のままで動かず、
過去2か月ほど、この状況が大きく変わることがなかった。
夏に感染者数が増えたあと、緊急事態宣言等が出されなかったにも関わらず、
ピークアウトし、控えめに言っても悪くない推移で来ることが出来ている。
ともあれ、良かった(大汗)。

次なる課題は、これからのインフルエンザの季節をどうやり過ごすかだろう。
折しも、そろそろ国境を開いていく話になっているのだが、
欧米ではまたもや感染者数が上昇中で、
再びロックダウンや夜間外出禁止などの規制に入る国も出てきている。
日本だけが無防備に過ごしてコロナ禍を乗りきれるとは思えない。
引き続き、マスクをして手洗いに励み、3密を避け、
インフル予防接種を受けるなど各自でできることは済ませて、
冬に備えるのが最善だろう。
北海道では少ないながらもそろそろインフルエンザの報告が出ている。

私は幸か不幸か、生来が極端に出不精で孤独癖があるために、
相変わらず、必要最小限の外出しかしない暮らしがしっくり来ているのだが、
それでも、どうしても出なくてはならない仕事には行っているし、
買い物等の日常の用事で出かける回数は、4月頃より確実に増えている。
この冬をなんとか越せれば、季節は二巡目に入るので、
社会全体の対処も更に巧くなる筈で、
当面、あと数ヶ月をこのまま頑張れば、なんらかの結論が見えて来るのでは、
と思い、感染状況に一喜一憂しつつも、先行きには某か期待もしている。

統計を見る限り、罹ったら助からない、という病気でないことはわかったが、
肺炎になり最悪は死亡に至る確率が、年齢に応じて上がることは明らかなので、
自分は大丈夫だから気にしない、などという自己中心的な発想は止めて、
誰もが、自分が罹らないことで、人にもうつさないように気を付ける、
という方針を守って行動をするべきだと私は思っている。
少なくとも、私はそうする。

極めて個人的な話になるが、このあとは神社関係が忙しいのだ。
秋祭のあとは七五三、年越祭、そして年末行事、お正月の初詣、
と行事つづきで、私以外の総代会メンバーは前期後期高齢者ばかり(汗)。
宮司さんも禰宜さんも、おじーさんだし(大汗)。
コロナ脳とあざ笑われても、私は一歩も譲らないぞ。
私だってコロナでどうかなってしまうのは避けたいし、それ以上に、
何があろうと神社のじーちゃんたちを守らなくてはならないのだ。
コロナなんか怖くないからマスクしない、
等と脳天気なことを言っている元気な人は、こっちに寄らないでくださいよ(涙)。
マウスシールド程度で、何か対策した気になっている人も今はNo thank you。
私自身「くしゃみ3回」じゃないが、風邪のケでもあったら神社には行かない。
何かあったら困るのだよ。お願いします(祈)。

Trackback ( 0 )




母が引き続き、ホームの食事には辟易していると言うので、
昨日はまた、赤飯・牛煮込みおこわ・サラダ巻き・マカロニサラダ・
ローストビーフと揚げゴボウ・小エビのフライ、
それに御座候の赤白2個ずつを買って、古いアルバムとともに、
昼食時間前にホーム受付まで届けた。
ランチを楽しみ、ひととき思い出の写真など眺めて
オヤツを食べて過ごして貰えば、……と思ったのだが、
以後、今に至るも電話も何もない。
果たして、ちとでも満足できたのかどうか(^_^;?

差し入れ前の電話をしたときには、母は普通に元気にしていて、
父は歩行器を借りて適宜活用している、という話をしていた。
ラクに歩けて快適らしいが、階下のレストランなどに行くと、
歩行器は幅を取って通路が狭く、動きにくいので、
その場合は、父が母の車椅子を後ろから押して『つながって』行くと、
父にとっても捕まるところがあって歩行器代わりになり、具合が良いそうだ。

先日ホームから送られてきた、この夏の二人の健康診断結果では、
父のほうに、これまではなかった中等度の肝機能障害が出ていたが、
なんらかの疾患なのか、薬剤性なのか不明で、
何にせよホームでは内科医に定期的に診て戴いていることではあり、
90歳も過ぎているので、本人が苦痛でなければまあ良いのかなと思っている。
母のほうは軽度のクレアチニン上昇が記載されていたが、
これは昔からなので、体調としては何も変わっていないと思われた。
ふたりとも完全に健康とは言い難い状況ではあるが、トシもトシなので、
いずれ何かあったとしても寿命だと思うべきだろうよ(^_^;。

オンライン面会をそのうちしようと思いつつ、このところ果たせていない。
食事の差し入れをするときは、すぐ食べて貰うのが前提なので、
30分もiPadで喋るという時間が取りにくいし、
何しろホームの場所が実家には近くてもうちのマンションからは遠く、
訪ねるにはそれなりに私の時間を取られるので、予定が組みにくいのだ。

昨日今日は、神社での労働もいろいろとあった。
境内の掃除や神饌の準備や、御札・御守の在庫整理など。
来月初めの例祭に備えて、巫女装束も出して点検しておく必要があった。
合間には、実家に戻って、先日買ったばかりの一人掛ソファで休息した。
本当に快適でこのうえなく心身が休まり、実家に関する限り
こんな素晴らしい買い物は全く久しぶりだったと思った。
古いエアコンは付け替え、染みのたくさんついている壁紙も貼り替え、
この部屋をこれから整えて行こうと、しばし自分本位な妄想にフケった。

Trackback ( 0 )




先日購入した一人掛けソファが、本日、実家に納品された。
実家&神社での労働の合間に、私が休息するために奮発した品だ。
部屋としてはまだまだ完全には片付いておらず、
背景には古いダイニングテーブルや、モノが山積みのデスクがあるが、
こういうボロい部分は今後おいおいに処分して行こうと思っている。

早速に、きょうは昼の仕事のあと夕方まで間があったので、ここで仮眠した。
さすがに座り心地は極楽であったが、実家は田舎だけあって、既に寒かった。
それで暖房しようと思ったら、エアコンも埃だらけの20数年モノで、
本格的に冬が来る前に次はコイツだな、と壁を見上げながら思った。
四半世紀も前のエアコンなんて、本体の不具合や故障も心配だが、
それ以上に、稼働させるだけで電気代がかかり過ぎる。

新調するなら、この際、寒冷地仕様のにしてみようか。
冷房も近年は全く無しでは居られない気候になってきたが、
それでもこの家で重要なのは、とにもかくにも強力な暖房のほうだ。
この界隈は、市街地とは標高が違う。
屋根瓦についている「雪止め」だってダテではないのだ。
昨年大晦日に泊まったときなど、エアコンを点けてもなお寒くて寒くて眠れなかった。
もうあんな思いはイヤだ。

ちょっと来週あたり、家電量販店を覗いてみるか……。

Trackback ( 0 )




先月と今月、閃輝暗点を続けて経験したので、
きょうは夕方、脳神経外科クリニックへ行った。
頭部MRI・MRAを撮って貰い、結論としてはありがたいことに、
何の異常も認められなかった。……良かった(汗)。

閃輝暗点とは、不意に視界の真ん中に光る点のようなものが見えてきて、
最初しばらくは、その一点のあたりが見えにくく感じ、
時間の経過とともに、それがギザギザの輝くようなものへと変化してきて、
15分あまりで、ギザギザは緩く視界の左右に伸びたように広がり、やがて消える、
という症状のことを言う。
原因は、脳の中の、視覚に関係する中枢の部分の血管が収縮して
一時的に血流の具合が変化することだと言われている。

偏頭痛の予兆として経験する人が多いようだが、
私は初めて閃輝暗点を体感した3年前以来一度も、頭痛を感じたことはない。
緊張したり、強く集中して仕事等をしたあと、解放されてふっと緩んだときに、
あれ?なんだか目がおかしくなってる……?と気付くことが多かった。
その程度なので、少々見えづらい以外に、さしたる苦痛はなかったのだが、
30分に満たない短時間とはいえ、視界の一部が僅かでも損なわれるのは、
やはり鬱陶しく、不快ではあった。

芥川龍之介も経験 片頭痛の前兆で視野の一部がギラギラ(ヨミドクター)

芥川龍之介の小説『歯車』に、まさに閃輝暗点だろうと思われる描写があり、
以前からこういう症状があり得ることは、知識としては知っていたのだが、
実際に自分が経験したのは、前述の通り3年前の春が最初だった。
そして、その翌年は一度もなかったのに、今年になってこれまで3度あり、
頭痛がなく頻度だけが増すときは、まれに脳梗塞や腫瘍のことがある、
という、いつものよけいな医学知識が頭をよぎり、
手をこまねいているのも落ち着かなくなり、意を決して受診をしたのだった。

結果は、冒頭に書いたように画像的には何も問題なく、
梗塞部位も腫瘍もなく、血管も通っており、眼球にも異常は認められず、
「普通の、よくある閃輝暗点です」
「頭痛のある人もない人もいますけど、トシ取ると頭痛は無くなる人が多いです」
「予防法はありませんが、心配もないものなので、気にしなくていいです」
と先生が仰り、頭痛がないので投薬も何もなく、終わった。

上のリンク先の記事で若倉雅登医師がお書きになっている通り、
『はじめから頭痛をほとんど経験せず、閃輝暗点だけが出現するタイプもありますが、
私が外来でよくみるのは、閉経期をすぎた高年女性の閃輝暗点です。』
という、私もまさにこれで、どストライクのお婆さん閃輝暗点であった(汗)。

Trackback ( 0 )




光浦靖子「49歳になりまして」芸歴28年・もう一つの人生も回収したい
「文藝春秋」11月号「巻頭随筆」より - 光浦 靖子


Twitterでトレンド入りしていたので、私も読んだ。
私のような者でも名前とお顔のわかる有名な女性が、
ここまで誠実にご自身と向き合われて書かれたことに、まず感銘を受けた。
自信喪失の体験や現在の寄る辺無さについて、漠然と感じてはいても、
直視するのに耐えられない人のほうが大半だ。
それを、独りよがりな文章でなく他人に伝えるかたちで表現できるとは
光浦氏は実に聡明で、そして強い意志を持った方なのだなと思った。

私自身は人並み外れて得手勝手な人間なので、
『自分に満足するもしないも、他人からの評価でしか決められない』
という要素がもともと少ないのと、そういう仕事をして来なかったのもあって、
常日頃はこの種の身の上話を読んだり聞いたりするのが苦手なのだが、
光浦氏の文章はまっすぐに訴えかけてくるものがあって、そのままに読めた。
光浦氏が、ご自身を突き放して書かれたからこそだと思った。

これまで、私は実生活でもテレビその他の報道の中でも、
他人の評価がないと自分に価値がないと思ってしまうタイプの人を、
何人か見聞きしたのだが、そういう人に限って、
個性的な才能を持っていたり、評判の良い学校を出ていたりして、
客観的には「能力が高い」としか思われない優秀な人が多い、
という印象を私は持っている。
なまじ優れた資質を持っているために、自己に厳しく、抽象的な思考が深まり、
生半可な評価では満足できなくなる、ということなのだろうか。

私から見ると、もっと平々凡々で特色のない人たちが世の中の大半で、
多くは、大して良いこともないかわりに死ぬほど悩む機会もなく、
今日も今日とて出来る範囲のことをやって生活している、……と思われる。
無論、誰しも自分の人生においては自分のことで手一杯であり、
マトモな大人だったら「悩みは何にも無い!」というほどアホな人は
非常に少数派だとは思うが、だからと言って「私なんて何の価値もない」と
いちいち突き詰めて考えてみるほどでもない人は、そこそこ居そうに思える。

私もそういう人間であり、自分の価値の有無についてなど考えない。
「価値があるから生きていてよくて、価値がないなら居なくていい」
などとは私は昔から一度も思ったことがない。
価値があろうがなかろうが全く無関係に、死ぬ日が来るまで生きてるだけです。
それだけのことですよ(^_^;。そこはデフォルト。座標軸のゼロ地点。
どういうのが価値があり、どういうのが価値がないのか、基準が私には不明だし、
なんでいちいち「生きる価値があるか否か」の許可が要ると考えるのかも、謎。
ちなみにキリスト教的に言うと、「生きることは義務」なのだそうですよ。
義務、つまり「正しい務め」。これは三浦綾子氏の本で読んだ。

そこは、しかし人生観の違いというか、「そう思わない!」と主張する人と
私は争おうとは思わないので、まあ良いとして、
上記の文章で、光浦氏がどうして留学をしたいと思われたのか、
だけは、私にはもうひとつ釈然としない箇所ではあった。
まずは、留学も含めて、以前から心惹かれていた様々なことに手を出そう、
と思われたようなのだが、それに加えて私なりに読み取れたのは、ひとつには、
『世界はここだけじゃない』と知る体験をするため、
そしてもうひとつは、
『英語から逃げた分岐点に戻って、もう一つの人生も回収したい』から、
ということだろうかと思うのだが、合っているだろうか。

前者については、外国で暮らすことは確かに意義ある体験になると思う。
私も24歳の夏に40日間、ほぼひとりでニューヨークに滞在したことは
短い期間ではあっても自分にとって大きな意味があった。
言葉も常識も通用しない、地理もわからない知り合いもゼロの場所で、
どうすれば身の安全を確保しつつ、自分を保てる暮らしが出来るのか、
日本に戻る場所の確保された、語学学校の生徒という気楽な立場ではあっても、
若かった私なりに、厳しい挑戦を自分に課した、と感じていた。
広島にだけ居たら思いつきもしなかったことをいろいろと試したし、
喧嘩になろうが、言うだけのことは言ってみる、という勇気も出せるようになった。
光浦氏も、もし、まとまった海外生活はこれが初めてということなら、
きっと最後には「思い切って行ってみて良かった」と思われることだろう。

しかし後者に関しては、もし英語をやり直したいという希望が強いのであれば、
英語圏に留学しても、それ自体は大した決め手になるまいと私は思っている。
入門者ならば、出発点の語学力が極めて低いので、
一ヶ月ホームステイでもすれば、別人になったような達成感があるかもしれないが、
既に受験英語の経験があり、潜在的にせよ一定レベルに達している光浦氏が
その語学力を更に一段階上げようと思ったら、それなりに過酷に自分を追い込み、
語学トレーニングを徹底しないと、成果は見えないと私は体験的に思っている。
生き生きと海外生活を送り、様々な体験をして、気がついたら英語が自由自在に、
……というのは、多くの場合、美しい妄想だ。
昔、松本道弘氏が言われたのだったと思うが、
「米国人と結婚→離婚→訴訟、を3回繰り返せば満足できる英語力が手に入る」と。
外国で暮らしているうちに自分の英語を本物にしたいというのは、
例えばの話、そういう次元まで行かなければならない、いうことだ。

『東京外国語大学に通っていましたが、英語が話せません』
と書いてあるが、光浦氏はインドネシア語学科を卒業されている筈で、
専門でない語学が苦手でも、そのように卑下される必要は全くないと思う。
『丸暗記のザ・受験英語でなんとか合格した』
というのも、普通の人には到底できないことで、高い能力の証なのに、
なぜそこにご自身で価値を認めようとされないのかと、不思議だ。
全国の受験生は、丸暗記のザ・受験英語ができるようになりたい一心で努力している。
このあたり、光浦氏の自己評価の低さが気になるところではある。
今後、現実には多少なりとも英語力がついたとしても、自分ではそう感じられず、
「カナダに留学していましたが、英語が話せません」
という感想で終わりかねないのではと、心配だ。
そうでなくとも、学習が進んで力が上がって来ればそれだけ、
自分の英語力には不満を覚えるものなのだ。
お前がなんでそんなに上から目線なんだよ、
と私が言われそうだが、私だってこれまで英語学習をしてきた人間だ。
「英語が話せるようになりたい」と告白する日本人の気持ちと、
その上達の途上に何を感じるものであるかは、私なりに、わかるつもりだ。

もし本当に、英語に戻りたい、英語に自信を持てるようになりたい、
と考えられているなら、渡航前にトータル・イマージョン(=全没入)方式の
徹底的な英語レッスンを受けることを、私ならば提案したい。
英語習得に的を絞った専門的なトレーニングを日本のスクールで、まず受けるのだ。
光浦氏は、カナダで生活しようと計画されるくらいの資金が準備されており、
『私には時間があり過ぎるし』というほど、自由と健康にも恵まれている。
ならば、まず日本国内で朝から晩まで逃げる暇なく英語を強いられる訓練を
先に積んで、自分を鍛え抜いてから留学に出発されるのが良いと思う。
そのほうが、行ってからのカナダでの生活も何倍も意義あるものになる。
先の、東京外語大の話で
『英語は大学で学ぶものじゃなく、専攻語を学ぶ時に使うもの、話せて当然のもの』
だったという述懐があるが、留学でも本当はそうだ。
現地語は、行ってから学ぶものではなく、行ってからの勉強に使うもの、
行った時点で既にある程度、聴けて話せて当然のもの、と思うべきだ。
そのほうが、学ぶという点からはよほど、行った甲斐のある留学生活になる。

……つらつらと私なりに思うところを書いたが、
Twitterを見ていても光浦氏の話に共感を覚える人が非常に多かったので、
彼女の、この年齢ならではの、『もう一つの人生も回収したい』話は、
大勢の大人たちにとっても、身につまされるものであったということだ。
やり残したことへの後悔を持たない大人は、実は少数かもしれない。
「人間、いろんなことを経験できないままに、死ぬんですよ」
と、これは曾野綾子氏の小説にあった言葉だが、その通りだろうと思う。

一定以上の「能力」「知名度」「健康」「経済力」「自由」、
これらが光浦氏の(必ずしもご自身では評価されていない)強みでありながら、
同時に、悩まれている「現在の孤独や『答えのわからなさ』」の原因でもある。
「やらない後悔より、やった後悔」という言葉もある通り、
光浦氏には、ご自身の望みを叶える方向で、これからも進んで戴きたいと思う。
彼女のような境遇でなければ、そのようなことは現実にはなかなかできない。
そして折々に、それをまた随筆にして戴ければと思っている。
彼女に共感し、彼女の在り方から力を貰える人は、実際には大変多い。
『わかりやすく私を必要としてくれる人が側にいません。』
ということは、本当は、ない、と私は思っている。

Trackback ( 0 )




8月このかた気になっていた、実家の玄関をようやく掃除した。
もともと汚かったのだが、玄関の屋根を修理する工事をしたときに
ゴミや埃や木くずのようなものが玄関内にもたくさん落ちてきていて、
それをなんとかせねばとわかってはいたものの、
私も忙しくてなかなか手をつけることができなかったのだ。
何しろ、片手間にやれるような簡単な汚れ方ではなかったからね(汗)。

前に書いた、外に出たら鍵をかけられない玄関
中に入ったところから見たのがコレで、私が小学生の頃から変わっておらず、
三和土だけは材質を見ると張り替えた形跡があったが、
玄関の戸そのものは昔と全く同じものだと思われた。
マスクをかけて、ホウキで掃き、掃除機でゴミを吸い、拭き掃除をして、
出しっぱなしでカビた靴やつっかけは捨て
どうにか、三和土から上がり框(かまち)までは人が通れる状態にしたのだが、
悪い意味で骨董品である下駄箱は、恐らく裏側が凄まじいことになっていると思われ、
きょうのところは手をつける決心がつかなかった。

それにしても古い田舎家の間取りは、本当に無駄が多い(汗)。
玄関から上がるとすぐ本間の6畳の和室があるのだが、
そこは物置+通路になり果てていて、部屋として活用されていない。
玄関との間を壁で仕切れば客間にできるのに、と私などは思うが、
土地だけは広い昔の田舎のこと、客間も座敷もこの奥に十分あるので、
ケチケチしたスペース有効活用など、もとから考える必要がなかったのだろう。
その、物置化した部分も今回かなり片付けたのだが、
一朝一夕になんとかできるようなモノの量ではないので、
とりあえず、玄関から入って真正面に見える部分だけを片して、
残りのいろいろなものは右側の壁に寄せて、置いてきた。
長い戦いになりそうだった(汗)。

Trackback ( 0 )




うわっ…誤用率、高すぎ?「確信犯」ほか仕事でも使う要注意ワード(ダ・ヴィンチニュース)
『日本語には様々な熟語や慣用表現がありますが、全ての意味を正確に覚えるのは至難の業。そこで本稿では“誤用”しがちな言葉を3つピックアップして紹介します。いざという時に恥をかかないように、正しい意味を確認していきましょう。』

という記事があって、平成27年度「国語に関する世論調査」によると、
『確信犯』『さわり』『なし崩し』などの表現が、
7割かそれに近い人たちによって誤解され誤用されている、とのことだ。
私もこれらについては、概ね、誤用のほうで理解していたと思うので、
7割の人間のうちのひとりだとわかった。
しかし今後、更に大多数の人間が誤用のほうしか知らない状態になるならば、
自分ひとりで頑なに正用のほうで通そうとしても、いずれは理解されなくなる。
正用が誤用に駆逐されるのである。

これに関連して、以前も書いたとおり私は最近、
『以来』の代わりに多用される『ぶり』という言い方を非常に嫌っているのだが、
世間ではこれになんの抵抗もない人が、今や多数派になってきている。
本来の正しい使い方を守っている私のほうが、今では頭の固い変わり者だ。
「いつぶり」
「昨年ぶり」
「大学の卒業式ぶり」
「中学校の修学旅行ぶり」
すべて、『ぶり』ではなく『以来』というべきところだが、
若い人を中心に、私と同世代かそれ以上の人たちの間でも、
なんとも思わずに使う人がどんどん増えて来ている。
(ことばの広場)「いつぶり」 柔らかさ求め 広がる誤用(朝日新聞)

「『以来』という漢語的な表現よりも、口頭語として柔らかな表現を求めた」
のが理由かもしれないという考察が上記の記事中にあるが、
私としては、「ぶり」という濁音が頻回に使用されるほうが
よほど耳障りで、柔らかいとは到底感じられない。
しかしそれは極めて個人的な、言語音に関する趣味の話だとわかっているし、
私はその場でいちいち、「~『以来』と言うべき!」などと主張したりはしていない。
『確信犯』『さわり』『なし崩し』などが誤用されても気にならないのに、
『~ぶり』だけ許せないというのは、完全に私の主観なのだ。

だから、冒頭の記事の例だって、既に7割の人が誤用して暮らしているなら、
『いざという時に恥をかかないように、正しい意味を』
などと心がける必要は、実際にはほとんどない、と私は思っている。
発端は誤用でも、大勢の人たちが当たり前に使うようになれば、
慣用として受け入れられ、やがて正用として定着するようになる。
言語の変化、すなわち言語の使用習慣の変化とはそういうものだ。

先日も『重用』の読み方が「ちょうよう」か「じゅうよう」か
とテレビ等で話題になっていたが、これなども
元々は「じゅうよう」であったのを、多くの人が「ちょうよう」と読み慣わして、
結局そちらのほうが定着し、辞書に掲載されるまでになった例だ。
今では「じゅうよう」と読むと、正しい読み方を知っていることで評価されるどころか、
かえって、目上の人から「それは『ちょうよう』でしょ」と訂正されたりする。
使用習慣は多数決なので、皆の知らない正用は、いずれ忘れ去られるのである。
私はもう若くないので、このまま「以来」と心中するつもりでいるが、
そのうち書き言葉で「ぶり」「ぶり」が登場するようになったら、
「以来」の灯が消えるのだろうなと、今から寂しく覚悟している。

Trackback ( 0 )




実家で古いものを片していると、脈絡なく様々なことを思うのだが、
やはり今ちょうど秋祭の季節ということもあり、
子供の頃に印象に残った例祭の小さな風景を
久しぶりに思い出すことが、このところよくあった。
古い座敷にも、昔のままの玄関にも、そのときどきの風景が、あった。

いつ頃やめたのか定かでないが、私が小学生だった頃からしばらく、
つまり昭和40~50年代には、例祭当日は我が家で「おやど」をしていた。
文字通りに宿泊施設になっていた訳ではないのだが、
祭をされる神官さんや笛太鼓さん、巫女さんらが、
我が家の「中の間」や「座敷」で着替えや食事などをされていたのだ。
我が家は神社のお膝元にあり、地元の古い本家であったので、
そういうお役目も果たしていたようだった。

祭当日、普段は閉ざされている、中庭と表玄関の間の大きな木戸が開かれ、
準備のできた神官さんや笛太鼓さん巫女さんは、
時間になると我が家の座敷から中庭に降り、
木戸から出て出発し、神社の参道を参進して、
鳥居をくぐり、石段を登って、境内に上がられていた。
参道脇にずらりと並ぶ露店と、そこに集まった参拝客が、
しばし手を止めてその様子を眺めていたものだった。
祭が終わると彼らはまた引き揚げてきて、我が家の座敷でくつろぎ、
うちで用意したお膳で、ひととき、食事をされた。
子供だった私は、一番若い神官さんとはときどきお喋りした。
ほかの神官さんや笛吹きさんは割と年齢が高く、近寄りがたかった。
私がもう少し大人に近づいてからは、巫女さんたちの着付けを手伝ったりもした。
神官さんたちの色とりどりの装束や、巫女さんたちの綺麗な舞衣など、
幼い私の目には実に鮮やかで、今も当時の印象を思い出すことができる。

一方、祭の日には、我が家には、
「おとこし」「おんなし」さんたちも集まってきていた。
「おとこし」は「男衆」、「おんなし」は「女衆」の方言だったのだろうが、
祭の日の様々な用事や作業の手伝いに来ていた人たちだった。
彼らにもお膳はあったのだが、明治生まれの祖母は、
彼らを決して座敷まではあげなかった。
こうした手伝いの人たちの食事は、
玄関を入ってすぐの畳の間で、別に用意されていた。
使用する座布団も、座敷のものとは種類が違った。
子供心に私は、どうして別々にするのだろうと納得できなかったものだった。
これは差別待遇ではないのか。
祭員のひとたちも「おとこし」のおじいちゃんも、みんな、
村の祭りを一緒にやる人たちではないか!
思えば、家族の中で戦後生まれは私ひとりだった。
民主主義教育どころか、当時の大人たちは、
士族だ平民だという感覚から全然自由になっていなかったのだった。

今はこういうことは全部、なくなった。
何もかも神社のほうで完結していて、神官さんたち祭員の人たちは皆、
社務所の、カーテンで臨時に区切られた「更衣室」に男女別に入って着替える。
私は今や、自分の娘より若い巫女さんたちの着付けを手伝っている。
宮司さんたちの正装の「袍(ほう)」の衣紋者をやることもある。
そして彼らは皆、お膳でなく「弁当代」を現金で貰って、
神社で源泉徴収された(!)報酬を受け取り、祭典後すぐに帰って行く。
「おとこし」「おんなし」は無く、総代会と地域の当番とで、
祭の準備もお茶出しもやっている。
裏方の関係者に必要な食事は、神社の経費で弁当を取るなどしている。

良くなった。随分とマトモになったと思う。
何より、今も我が家で「おやど」なんかしていたら私がシぬところだった。
私は料理が嫌いだ。早朝から煮物や寿司や吸い物を用意するなんてご免だ。
神戸の街から嫁いできて、母はよくもあんなことに耐えたものだと思う。
誰がいつ、どう言い出して「おやど」が終わったのか知らないが、
私はその決定に心から感謝している。
ありがとう。御蔭で私は、今年もなんとかこの季節をやり過ごしているのだ。

Trackback ( 0 )




両親宅に置くのにひとり用ソファを買ったので、
納品の前に受入態勢を整えておく必要があると思い、
きょうは父の寝室を片付け、家具に隠れていた壁際まで掃除をした。
ベッドと、その枕元にいろいろと積み上げてあったものを動かし、
紙魚(しみ)がついたと思われる紙類は捨て、書籍類は母の寝室の棚に移動させ、
それらを収納するために設置されていた、ローテーブルや箱の数々も撤去し、
古いほうの台所にとりあえず運んだ。

父のベッド本体は、組み立て式の二段ベッドの「下」だけ使っていたもので、
購入したのが40年以上前という、物凄いシロモノだったので、
この機会に処分しても良いのではないかと考え、
部分的にカビた寝具もすべて捨てる方向でまとめた。
ちなみに、その二段ベッドの「上」のほうは、母の旧・寝室にあるのだが、
その部屋は母屋の中でも最も古い一角にあるので、
いつのまにか部屋と寝台は放置されたまま用済みになり、物置化し、
現「母の寝室」というのはそれとは別の場所にあって、
そこでの母の寝台は、私が舅宅から運んできた介護ベッドのほうである。
とにかく実家では万事がこの調子なのだ。
ベッドはこのほかに、納屋を改造して作った別棟にももうひとつあるのだが、
それはゲストルームなどというものではなく、父の旧・寝室だった部屋である。
凄いですねぇ、父母それぞれが、新旧ふたつの寝室を持っていたのですねぇorz

ともあれ、あれこれどけてフレームだけになったベッドを動かし、
長年、その陰にかくれていた床部分に、きょうはゆっくりと掃除機をかけた。
埃がそれこそ何㎝という深さになって、もっさりと堆積していた(汗)。
それらを掃除機で吸い込んでいたら、掃除機から異臭が漂ったのもアレだったが、
埃が減って見えてきた床から、なんと木刀みたいなものが発見された。
父はこれを何のつもりでここに持っていたのか、
……まあ、一番考えられるのは、護身用というか応戦用というか、
夜中に不審者が侵入してきたらこれで闘うつもりだったのだろうが、
埃の深さから推測して、どうだろう、20年くらい前にここに置いて、
それきり忘れていたのでは(爆)。

発掘された木刀もどきを乾いた布で拭って埃を落とし、
座敷へ持って行って、とりあえず床の間に置いた。
謂れも何もわからないが、どの程度古いものなのだろうか。
しばらく置いておくが、座敷を解体するときは処分、で良いだろうか。
父本人に質問してみても良いのだが、あの埃の状況から言って、
本人は何ひとつ記憶していないと思われ、訊くだけ不毛というか……。

きょう掃除を頑張ったので、父の寝室は随分とスッキリしてきたが、
まだ事務机が手つかずだし、クローゼットの中もかなり埃が堆積している。
コロナ騒動で私は常日頃からマスクをつけており、
きょうも最初からマスクのままで実家に入って作業をしたのだが、
もしもマスク無しに、まともにあの埃を吸い込んでいたら
私はクシャミの発作で相当なメに遭っていただろう(^_^;。
人間ゴミや埃では死なない、という言い方をする人がよくいるが、私は賛成しない。

Trackback ( 0 )




1シーターソファを買った@両親宅
最近は神社関連の用事が増え、両親宅で過ごす時間が以前より長くなったので、
座る場所が食卓の固い椅子だけでは疲れが募ると思い、
先日、馴染みのインテリアショップで一人掛け用のソファを買った、
納品は来週になる予定で、これで心身を休めつつ、
今年の年末年始の労働を乗り切ろうという計画だ。
このソファは我が家のリビングにある3人掛けのものと同シリーズで、
その座り心地の良さは既に体感して、よく知っている。
これからの老年に向かって、私は自分の稼ぎや蓄えを積極的にインテリアに投資し、
自分が生きているうちに願い通りの部屋をつくろう
、と2年前に決意した。
実家は本宅ではないので、何かと後回しにはなるが、
行く度に掃除していることではあるし、少しずつ整えて行きたいと考えている。

右足の甲
先月あたりから、歩くとき右足の甲に痛みを感じるようになった。
激痛ではないが、角度がつくと右足の中指薬指の付け根あたりが痛む。
この症状は、考えてみれば6年前に既に体験済みだった。
あのときも、待っていても改善しないので整形外科を受診し、そこで言われたのは
年齢とともに足というのは徐々にO脚気味になるもので、
歩き方の癖によって足の外側に体重がよけいにかかり、痛みが出る、
という話で、確か靴の中に入れるO脚矯正用のインソールを案内されて買ったのだった。
痛みが取れて以来、そのことは忘却の彼方になり、
当時のインソールももう処分したらしくて残っていなかったので、
amazonで検索して、このたび新しく一対のインソールを買い直した。
それを使ってみたら、瞬く間にラクになった。
腰も右寄りに弱点があるし、自分の体の歪みに一定の傾向があるのだなと思った。

ひきつづき配信を堪能する日々
コロナ禍の御蔭で私が手に入れた、世にも素晴らしいものが2つあって、
それは「ひとりで過ごす自宅での時間」と「ライブ等 各種ネット配信」。
後者は特に、私のように東京在住でない道楽者にとっては、
今まであり得なかった天国をもたらしてくれた。
これほどのラインナップを、東京に行かずに直接観る・聴くことができるなんて
何度も言うようだが、本当に、今でも信じられないほど幸せだと思っている。
ちなみにこの二週間あまりで楽しんだものは、以下の通り。
・『紀尾井 江戸 邦楽の風景(二十) 隅田八景〜吹けよ川風』
・長谷川浩二 BIRTHDAY LIVE『歌異種格闘技』
・尾上松緑『紀尾井町家話』
・NHKカルチャーオンライン講座『惑星科学最前線~多様な衛星の多様な起源~』
・仲井戸”CHABO”麗市 70th birthday Online Acoustic Solo Stage [MY ROCK'N ROLL] 

Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »