転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



朝9時から胡町の歯医者さんへ行って、その帰りに、
曇りがちで暑くないのを幸いに、頼山陽史跡資料館まで出かけた。
その前に、近くの白神社に寄って、お参りもした。

2010年の夏に、漢詩の会で頼山陽の詩を読んだのが出会いで、
なんだかんだとあれから十年。
機会あるごとに、山陽そのほかの頼家の人々の漢詩を味わい、
山陽の長男・頼聿庵の書を見に行ったり、
母・頼静子の日記を読んだり、
頼家発祥の地を訪ねて竹原まで出かけたり
頼山陽の恋人だったという理由で平田玉蘊の展示を見に行ったり、
江馬細香の本を買ったりと、
私の頼山陽・趣味は時間をかけて広がり深まり、今日に至る。
今や私は、「頼家の系図」を眺めるだけで、どの人がどういう生涯を送ったか、
どのような作品を残したか、山陽との関わりはどうだったか等々を思い出せる。
気付いてみれば、頼家の人々は「知らない人たち」ではなくなっていたのだ。

というわけで、きょうは久しぶりに頼山陽史跡資料館を訪ね、
広島頼家 ことはじめ」ということで山陽の父・春水を中心とする展示を
時間をかけて一点一点、じっくりと楽しませて貰った。
朝早い上に天気がもうひとつということで、私以外に誰も来ていなかったから、
3密の心配など皆無で、展示室独り占め状態で心ゆくまで資料を眺め、
時間を気にせず解説をじっくりと読み、妄想にふけった。

書では私は聿庵の激しさに抜群に惹かれているのだが、
聿庵の祖父(山陽の父)春水は、広島頼家を興した人としてやはり偉大であり、
彼の志の高さ、教養の深さ、人間的な大きさや統率力ゆえに、
頼家は学者の一家に相応しい繁栄を実現させたのだなと、
その残された記録の緻密さや、能書家ぶりに、改めて感じ入った。
書簡や日記から読み取れる、春水の弟・春風の尽力や、
春水・静子夫婦と頼家親戚との信頼関係なども印象的で、
当時の人々は「家」を守り立てるために、
家長を中心に一致団結していたのだなということも、強く感じた。
一方、母・静子の父 飯岡義斎が孫の山陽に宛てた書簡は、幼い孫息子に、
「元気に、いい子にして過ごすように」と温かく言って聞かせる内容で、
外祖父という立場からの、大らかで情の篤い人柄が偲ばれ、胸が熱くなった。

何年か前、学芸員さんの直々の解説と案内で展示を見たときに、確か、
「頼家の建物の復元ができたらと思っている」というお話があった筈なのだが、
時間がかかってもそれは是非、いつの日か、実現させて戴きたいと思った。
実物大が難しければ、何分の一かの模型になっても良いから、
春水が倹約に努めながら、精魂込めて充実させて行った屋敷や祠堂の再現を
立体で実際に見てみたいと、今回の展示を見ながらいろいろと夢想してしまった。
この杉ノ木小路に拝領した屋敷は、春水の夢の結晶であったと思う。
山陽が脱藩事件のあと暮らした仁室だけは、史跡資料館の庭に復元があるが、
私は、杉ノ木屋敷全体がどうなっていたかを、可能な限り、この目で見たい。
私はそうでなくても、インテリアが好きだし(汗)。

頼山陽史跡資料館に行くと、いつも、
ああ本当に頼家の人々はここにいたのだな、と実感することができ、
彼らの行動や表情、暮らしぶりなどが様々に想像され、
親戚でもなんでもないのに(汗)、とても身近な人たちのように思われる。
漢詩が始まりだったのだが、ここまで繋がろうとは。
ちなみに私が長年、思い描きながらまだ果たせていないのが、
福山の神辺町に残る菅茶山(山陽の師)の旧宅を訪ねることと、
江馬細香の足跡を辿って岐阜の大垣を旅することである。
コロナの騒動が落ち着く日が来たら、是非に、と思っている。

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