殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

始まりは4年前・16

2024年08月14日 15時35分07秒 | みりこん流

『鬱病』

毎朝、実家へ行くようになって半月が経った。

暖房ガンガンの蒸し風呂の中で、母の回復を待つのが嫌になった私は

その間に洗濯その他を済ませ、やがて起きられるようになった母を連れて

A内科医院とカフェのハシゴという日課だ。

 

日課とはいえ、A医院にもカフェにもそれぞれ定休日がある。

その時は、布団から出て動けるようになると

車で少し遠出をして買い物と外食をご所望。

ドライブ、買い物、外食の三大好物に、母はご機嫌だ。

 

ある日、いつものように母を連れてA内科医院に行くと

待合室に同級生のヤスヒロがいた。

認知症のお母さんを連れて来たのだ。

「ヤッちゃん!」

話しかけると、彼はキョトンとして言う。

「…どなた?」

「やぁね、みりこんじゃん」

「…嘘…」

「嘘じゃないわ」

「どしたんね…あんまり痩せとるけん、わからんかったわ。

どっか悪いんか?それで来たんか?」

「母親を連れて来たんよ」

「あんたも苦労するのぅ…ワシもよ」

そう言って、お母さんを見るのだった。

 

ヤスヒロの話によると、彼のお母さんは最近

要介護1から2に進んだ。

要介護2になって、週1回のデイサービスが

2回になると喜んでいたら、逆だったそうだ。

介護保険で借りる手押し車などの補助や税金の面では

わずかに手厚くなったものの、なぜかデイサービスが隔週になり

困っているとボヤいていた。

 

要介護度が上がったのにデイサービスの回数が減る…

この残念な措置は多分、お母さんとヤスヒロが

一緒に住んでいるからかも。

要介護の人に同居する親族がいる場合

条件が厳しくなるのは聞いたことがある。

ヤスヒロはお母さんの施設入りを切に願っているけど

道のりは遠そうだ。

 

 

さて、6月も下旬にさしかかった頃…

母とA内科医院に行ったら、A先生が言う。

「もう一回、心療内科へ行ってみようや。

薬を変えた方がいいと思う」

 

月に一回の心療内科通いは、ひとまず4月で終了していた。

最初に弱い薬で様子を見て

2ヶ月後に中くらいの強さの物に変え

さらに1ヶ月後、調子が良いのでA内科医院に返されたため

不安神経症の薬はA内科医院から処方されていた。

 

この時、A先生は、母のいない所へ私を呼んで言った。

「鬱病だと思う」

「えっ?朝が調子悪いだけで、午後は普通に元気なんですよ?

昨日だって夕方、私が帰った後で美容院に行ってて

びっくりしたんです」

そうなのだ。

母の具合が悪いのは、とにかく朝。

昼が近づくにつれて元気を取り戻し、午後は元気な頃と変わらない。

 

「それが鬱病なんよ。

朝はドヨ〜ンとして動けんけど、昼頃、だんだん元気になって

午後から夕方はすごく元気。

で、夜になるとまた落ち込んできて、朝起きたら最悪。

典型的な鬱病の症状よ」

「知らんかったです…

寂しいから呼ばれてると思ってました。

私が行ったら元気が出るんじゃなくて

昼が近付くから元気になるということですか?」

「そうなんよ。

調子の悪い時間と、調子のいい時間がはっきりしとるじゃろ。

専門の先生に診断してもらって、治療させんさい」

「わかりました」

母は性格の悪い寂しがり屋ではなく、れっきとした鬱病らしい。

ああ、びっくり。

 

数日後、A先生の紹介状を持ち、母を連れて再び心療内科へ行った。

A先生が言った通り、診断は鬱病。

薬は今まで飲んでいた不安神経症の薬と同じ種類だが

成分が1.5倍程度、強めの物に変わった。

薬が合っているかどうかを見るため

次は1週間後に行くことになった。

 

しかし、この薬はあんまり効かなかった。

母は不安を感じたら飲むことになっている精神安定剤に

依存するようになり、以前は夜間を中心に飲んでいたのが

朝や日中もたびたび飲むようになった。

 

その精神安定剤を飲むと、不安な心はひとまず落ち着くが

副作用として足のフラつきが出たり

ボンヤリするようになると、薬局で聞いた。

だから飲んだ時は、階段の上り下りをしないように

一人で外出しないようにと言われていた。

 

だが、一人暮らしの身でそれを守るのは難しい。

もっと長く一緒に居る必要があるのだろうか…

とも思ったが、今以上の世話をする自信など私には無く

また、今以上の世話をするつもりも無かった。

階段を踏み外しても、外で事故に遭っても、それは運命…

本人も90年は長いと言ってるんだから、年に不足は無かろうよ…

そう思うことにした。

 

心療内科へ行って数日後…

いつものように呼ばれて行ってみると

珍しいことに母は自力で洋服に着替え

鏡台の前で化粧をしているではないか。

「どしたん?今日は気分がええんじゃね」

「ええこともないんじゃけど、これからA先生の所へ行こう思うて。

もう電話してあるけん、連れて行って」

シャキッとした話し方といい、テキパキした動作といい

昨日までの彼女とはとても思えない。

鬱病と聞いてなかったら、昔の母に戻ったと錯覚していただろう。

 

A内科医院へ行くと、受付の周辺にいる数人の女性たちの態度が

何となくいつもと違っていた。

言葉は変わりなく優しいが、ほんのわずかによそよそしく

母と目を合わさないようにしている感じ。

 

医療従事者は絶対に言わないだろうけど

母が「これから行く」と電話をかけた時に、何かあったと思われる。

鬱病だか認知症だかで身内と他人の区別がつかなくなり

私や家族に対するのと同じく、地獄の底から聞こえるような声で

人を人とも思わない命令的でぞんざいな口をきいた可能性大。

他人には高く明るい声で歌うように話す母を

優しい常識人だと思ってきた人は、驚いて怖がると思う。

世話になった人に恩を仇で返すのも、病んだ老人の特徴である。

《続く》

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始まりは4年前・15

2024年08月13日 10時05分05秒 | みりこん流

『猛獣使い』

今年の6月4日に転倒し、首を捻挫してから3日目。

午前10時に、暗〜い声で母から電話がかかった。

「起きられんのよ…」

人に電話をかける時、いきなりこんな声でこんなことを言っても

感じが悪いとは思わない、それが母である。

 

「起きられんとは?布団から起き上がれんの?

どこか、痛いん?」

昨日は元気だったのが、一夜明けたらこれなので

信じられない思いだ。

「首や足が痛うて、起き上がれんのよ…」

「無理に起きんでも、寝ときゃあええじゃん」

「……」

私の発言が不本意らしい。

 

「全然、起き上がれんの?」

「どうしても立たれんのよ…」

「トイレは行った?」

「行った…」

「じゃあ起き上がれるんじゃん」

「……」

また不本意らしい。

 

「病院、行く?」

「ほうじゃねぇ…A先生の所へ行こうか…」

要するに、来いということだ。

ただでさえ忙しい朝

こちらが行くと言うまで引っ張られたら何もできない。

行くと言ってさっさと電話を切り、当面の用事を済ませた方が得策である。

 

実家へ行くと、玄関は閉まっていた。

チャイムを押してしばらく待ったものの、いっこうに出て来る気配は無い。

裏の勝手口へ回ってみたが、ここも開いてない。

仮病かと思ったけど

2階の寝室から降りて来られないのは確実らしい。

 

勝手口には頑丈な折りたたみ式の網戸があり、内側からロックしてある。

母の枕元にあるはずの携帯に電話しても、出ない。

網戸を開けたら、勝手口のドアとの間に鍵がぶら下がっているので

それを使ってドアを開け、家に入れる仕組み。

よってまず、網戸を開ける必要がある。

 

簡単だ、網を破った。

網を挟んで閉じてあるゴムの所へ指を差し込み

強く引っ張ったら、網はゴムから離れる。

家の網戸を修理した時に知った。

そして破った箇所から手を入れて、網戸のロックを外した。

先で何回も、こんなことがあるかもしれない。

だったら先に破って準備をするまでだ。

後で何か言われたって、知ら〜ん。

 

こうして2階の寝室に行ってみると

母は夜中に私を呼び出していた去年と同じく

暗い部屋で暖房をガンガンにかけ、布団をかぶっていた。

「暑いが!」

だって6月だ。

さっき泥棒の真似事をした私は汗をかいていた。

 

「へでも寒いんよ…」

「起きるん?寝とくん?」

「もうちょっとしたら、起きてA先生の所へ行く…」

カーテンを開けようとしたら、ひどく嫌がるので

牛乳とお茶を飲ませ、暗い灼熱の部屋で起き上がるまで待つ。

 

ポツリポツリと1時間ほど会話をしていたら

起き上がれるようになったので服を着替えさせる。

A先生に会うから化粧をすると言うので眉を描いてやったら

曲がっていると気に入らなかった。

ここら辺になると、いつもの母だ。

 

「どうしたん?昨日は元気そうじゃったのに

今日はしんどそうなね」

A先生に言ってもらい、ご満悦の母。

点滴の間、待合室で待ったが

昼前に点滴を終えて出て来た母は、人が変わったように晴れやか。

朝とは別人だ。

 

起きてから何も食べてないので、町内のカフェで昼ごはんを食べた。

母の食欲は相変わらず旺盛だ。

カフェのオーナーは私のママ友、物の分かったソツの無い子なので

チヤホヤしてもらってご機嫌の母は、珍しく奢ってくれた。

 

翌日から毎日、このプログラムが始まる。

朝は「起きられん」、「立てられん」と言って奴隷を呼びつけ

おしゃべりの相手をさせて着替えを手伝わせ

A先生とカフェのハシゴだ。

 

朝になると呼ばれ、暖房ガンガンの暗い寝室で母が起きるのを待ち

昼が近づいたら着替えをさせてA先生、それが済んだらカフェ

それから家に帰って午後3時ぐらいまで、母が一方的に話すのを拝聴。

新たに始まった、この日課に味をしめたのか

それとも本当に朝は具合が悪いのか、私にはわからないまま

5日、1週間と日は経っていった。

 

この日々が始まるまでは、たいてい午後から実家へ行っていたので

時間的には余裕が残っていた。

しかし午前中から呼び出され

午後遅くまで拘束されるようになると負担は倍増した。

 

なぜなら我が家は、昼休憩に男3人が帰って来る。

私がいなければ、時に気を利かせて外食する者もいるが

帰って来る者もいるので、昼食の支度をして出るのは決定事項。

義母ヨシコは自分一人で男どもの世話をしているつもりになり

気だけソワソワして機嫌が悪い。

「今まで何十年、そこにおるかとも言わんかったのに

身体が弱ったら急にあんたを娘扱いして。

それほど世話になったわけじゃないんだし、ほどほどにしたら?」

彼女にしては珍しく、ごもっともな意見を頻繁におっしゃる。

 

ほどほどに…人は簡単に言うけど

いざ自分が火の中へ飛び込んでごらん。

ほどほどに逃げるとか、ほどほどに焼かれるとか、無理だから。

しかしこんな日常が、いつまでも続かないのはわかっていた。

末期が来ていることは、感じていたからだ。

 

人の首っ玉に食らいついたら、相手が◯ぬまで離さない

母の性格はよく知っている。

◯んで役に立たなくなったら、しれっと他の犠牲者を探して

同じことをするのも知っている。

母が特別なのではなく、手がかかるようになった老人は皆そうなる。

母の場合、昔からそうだったというだけだ。

 

この状況をできるだけ先延ばしにするため

私は長年に渡って彼女をコントロールしてきた。

老人でなく自分が生き残るためには、そうするしかない。

その上で訪れた、末期なのである。

 

何でもハイハイと言いなりになるそぶりはしても

お楽しみや接待などのエサは満腹になる量を与えないことや

何かきついことを言われても、黙ったり凹んだりして弱みを見せず

テンポよくポンポン言い返すことや

何を考えているかわからないという最後の砦を残すために

心の距離を安易に縮めないなど

彼女と接するには数々の技術が必要になる。

みんな逃げたし、戦う技術を持つのは私しかいない。

私はこの死闘に勝つつもりである。

《続く》

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始まりは4年前・14

2024年08月12日 11時17分49秒 | みりこん流

『第三の転倒』

父の実家を見に行ってから数日後の6月4日。

午後3時半に地獄の底から聞こえてくるような暗い声で

母から電話があった。

「こけたんよ…」

 

頻繁に電話をしてくるようになった近年

ありふれた挨拶や「今話しても大丈夫?」などの助走を省き

「しんどいんよ」、「寂しいんよ」、「ゴミが溜まっとるんよ」

と、いきなり本題を口にする。

こっちは母の電話を受けるために生きているわけではないので

急に言われても話題に付いて行けないこともあるが

これはすぐにわかった。

 

「こけたんよ…」

母は繰り返す。

「わかった、すぐ行く」

会話はこれで終了し、実家に向かう。

 

二度目の「こけたんよ」には

「すぐ来て医者へ連れて行け」の言葉が含まれている。

電話ができるのと、自分のミスに腹を立てて機嫌が悪いことから

命に別条が無いのはわかっているが

今忙しいからもう少し待てだの明日行くだのと

こちらが言う権利は無い。

行くまで電話がかかってくるのは決定事項なので

さっさと行くしか道は無いのだ。

 

夕食はすでに作り終えていたので、その点は気楽。

実家へ行く日はもちろん

急にかかって1時間は続く電話に対処するため

家事は努めて早めに行う。

昼食は朝食の前や後、夕食は昼食の後に前倒しで作り

いつ空襲が来てもいいよう備える習慣になっていた。

 

母は時間と自由だけはたっぷりある一人暮らしだが

こっちは働く男3人と、何もしない姑を抱えて平常運転。

本来なら、母の面倒まで見る余裕は無い。

しかし「今忙しいから後で」が通用しない、それが母である。

 

実家に行くと、母は苦虫を噛み潰したような顔で待っていた。

どこもかしこも締め切った暗い部屋で見たら、マジで怖い。

それにしても、転倒はこれで三回目だ。

初回はアゴを打って黒くなり、次はメガネでマブタを切った。

今回は、右の額の生え際が少し赤くなっている。

前回、前々回と同じく手やヒザが無傷のところをみると

また顔から転んだようだ。

やっぱり脳の衰えか…。

 

どこの病院へ連れて行こうかと考えるまでもなく

母はいつものA内科医院へ行く気でいる。

内科だと、結局は外科のある病院に回されて

二度手間になると思ったが、本人が行くと言うのだから仕方がない。

転んで心が折れたこんな時、大好きなA先生を求める母であった。

 

A内科医院へ行く時、裏の勝手口から出て

母が転んだ現場を見た。

隣との境界線にあり、土に少し傾斜があるものの

なんてことない場所。

「何で転んだか、わからんのよ。

何かのバチが当たったんかね。

私が何をした、いうんかしらん」

忌々しげに言う母。

 

そりゃ当たるだろう、と言いたいが、言わない。

多くの人を振り回し、鋭い言葉で傷つけ

言いたい放題やりたい放題で90まで来たのだ。

本当のバチなら転んだぐらいじゃ済まんぞ、あんた…

とも言いたいが、言わない。

 

お目当ての医院は、家から歩いて3分の近距離。

もちろん、いつものように車でお連れしたが

時間帯の関係なのか、A先生はおらず

最近、彼の後継ぎとして戻ってきた30代の息子先生が診てくれた。

 

母は、この子がお好みでない。

優しい笑顔と温かい言葉で機嫌を取ってくれるパパ先生と違い

若いので年寄りに冷たいと言い

「あ〜あ、来て損した」

とまでほざく。

そんなに元気なのに、来て損したのは私である。

 

「安静にしていれば心配ないと思いますが

念のためMRIを撮っておきましょう」

A医院は内科なので、MRIは無い。

痛み止めの薬をもらい、紹介状を書いてもらって

翌朝、別の病院へ行くことになった。

夜中に母を救急病院へ連れて行くことになった時

最初に電話をして断られた、うちの近くの病院だ。

 

その病院で出た診断は、軽い頚椎捻挫。

俗に言う、ムチウチ症である。

今朝起きてから、首が痛いような気がすると本人が言うので

そう診断された。

痛み止めはA内科医院から出ているので

交通事故に遭った人が首に巻く、硬い首輪みたいなのをもらったが

他にこれといった治療法は無い。

 

町の医院から紹介されて総合病院に来た人は

当面の診断や治療が終わったら元の医院へ返すという

医師会の決まりがある。

母もMRI写真と共に、再びA内科医院へ返されたので

さらに翌日、MRIの写真を持って行くことになった。

 

「昼から行ったら息子が診るかもしれんけん、朝行く」

当然のようにのたまう母。

願わくば…あぁ願わくば…

前日もMRIを撮りに行って、朝から午後まで家を空けたので

何時に行ってもいいのなら、せめて今日は

昼からにしていただければありがたいんでごぜぇますが…

しかし、奴隷のささやかな願いに耳を貸す女ではない。

 

A医院へ午前中に行く意義を長々と唱え

反論する私を長々となじり

そんなけしからん私と血の繋がっている亡き家族への恨みを

長々と述べる…長々ルーティンが待っているだけだ。

何を言われても平気だが

彼女が意思を曲げることは無いので時間の無駄。

こっちの都合など気にも止めない、それが母である。

 

A内科医院へ行ったら母の睨んだ通り

息子先生でなくA先生が診てくれた。

彼の話では、日にちが薬だそうで

薬がある間は通院の必要も無いという話。

治療しようにも年寄り過ぎるので

痛くなったら弱めの鎮痛剤カロナールを飲むしか無い…

ということである。

 

朝ならA先生がいるという読みが当たり、母は大満足。

A医院から帰って外食に連れて行ったが

食欲はいつものように旺盛、ご機嫌の方も著しく良好だったので

私は3時頃帰った。

 

しかし、翌朝から大きな変化が訪れる。

その日以来、母も変わったが、私の生活も変わった。

老人がコトの大小に関わらず、何かのきっかけで

坂道を転げ落ちるように衰えていくというのは

周りの例を見て知っているつもりだった。

だから一応は警戒していたものの、こうも急激だとは思わなかった。

《続く》

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始まりは4年前・13

2024年08月11日 21時35分07秒 | みりこん流

マーヤが帰省した時の記憶が薄れて来たからか

私の差し入れがあるので料理を作らなくなって楽になったのか

2月に入ると、母はだんだん元気を取り戻していった。

元気になったら、うごめき始めるのはコーラスの虫。

性懲りもなく、また再開しおった。

 

しかし今度は発表会やコンサートに出ず、練習だけの参加だそう。

舞台に立つと、緊張で胸が苦しくなるという理由からだ。

先生にも病名は伝えてあるため、特例を認めてくれた。

 

けれども母の本意は別のところにある。

舞台でライトを浴びると

その高揚感を生涯忘れられない人がよくいるけど、彼女もそのクチ。

舞台への思いを捨て切れなくて

実はやる気になった時だけ、舞台に出たいのだ。

 

母は老人性の体温低下で、この数年はひどく寒がりになった。

肌を出したドレスが苦になってきたので、寒い時期は避けたい。

けれども初夏以降のコンサートには、出る気満々。

そこで冬の間は病気を理由に練習だけ顔を出し

暖かくなるのを待つ…それが母の密かな予定である。

 

そのことでまたゴタゴタするかもしれないが

もはやどうでもいい。

母はもう、舞台には立てないと思う。

病気でなく、もっと現実的な問題。

身長がますます縮んだので

ドレスのスソはどれも長くなってしまい、床を引きずるはずだ。

銀のハイヒールも足が弱ったので、もう履いて歩けはしない。

 

とはいえこのハイヒールには、秘密がある。

母は数年前、急に「カカトが高い」と言い出し

新しいのを買えばいいのに、なぜか靴の修理屋へ持ち込んで

カカトを切ってもらった。

その時、修理屋さんは止めたそうだ。

「カカトを切ると、バランスが取れなくなってグラグラするから

やめた方がいいですよ」

しかし母は耳を貸さず、どうしても切ってと言い張ったら

シブシブ切ってくれたそうだ。

 

母からそれを聞いた当時、私は隣のおじさんを思い出したものだ。

彼は急に「ベッドが長過ぎるから切れ」と言い出し

おばさんが困って、うちへ来たことがある。

おじさんはやがて認知症とわかったが

最後には包丁を振り回して警察沙汰になり、精神病院へ入院した。

この包丁事件は、記事にした覚えがある。

 

認知症になると、何かとんでもない物を切りたくなるのか。

それとも既存の品物の形を変えたくなるのか。

隣のおじさんと同じ雰囲気を感じた私だったが

本当はあの頃から、おかしかったのかもしれないのはさておき

「舞台に立つと足がグラグラして、立っているのがやっとなんよ」

母はコンサートのたびに言うようになった。

 

だけど本人、カカトを切ったのは忘却の彼方。

グラグラを身体の衰えだと思い込み、徐々に自信を無くしていったが

本当はハイヒールのカカトを切ったからだと思う。

しかし、それを母に言ったところで手遅れだから、言わない。

ともあれ、しばらくは練習のある毎週月曜日の午後は電話がかからないし

呼ばれることも無いのが保証されたのだから、それを喜ぼうではないか。

 

母は小康状態を保ったまま、5月いっぱいまでを過ごした。

毎日の電話と、差し入れ付きの訪問は依然として変わらず。

しかし我々夫婦と行く買い物ツアーの回数は

ジワジワと増加しつつあった。

買い物ツアーとは、午前中から市外に出て

ホームセンターやスーパーをハシゴし

合間で外食をする、なかなかの強行軍である。

 

気がつけば母からの電話は、不安の訴えが目的ではなくなっていた。

人混みと買い物と外食の好きな彼女は、毎日でも出かけたい。

先週や数日前に行ったことなど忘れているのか

忘れたフリなのかは知らないが

こちらが「行く」と言うまで電話をかけて、お出かけをねだる。

母は楽しいかも知れないが、我々は運転と介護で

ちっとも楽しくないのが実情。

自分主導でやって行こうと決めたはずなのに

いつの間にか、また母の主導に変わっていた。

 

一つ許したら最後、当然のように二つも三つも要求し

叶うまで電話をかけてくる彼女の性質は熟知しているので

いずれそうなるとは思っていた。

一人暮らしが嫌になり、人を求める気持ちが強まればなおさらだ。

 

そうなったらもう、我々に休日は無くなる。

母にかまけることが多くなり、同居する義母ヨシコも機嫌が悪い。

そのため、この状況になる時期をできるだけ引き伸ばしたつもりだが

それも限界に来たようだ。

 

そんな5月の末、例のごとく買い物に行った。

先週も行ったばかりだし、運転させる夫に申し訳ないので

「一人で大丈夫」と言ったが、やはり夫は一緒に来る。

家に残っても年寄りに振り回されるので

同じ地獄なら外に出た方がマシという、いつもの夫の弁である。

 

その日の買い物ツアーは、ハシゴする店を一軒飛ばしたため

いつもより早い午後1時半に終了。

早く終わって良かった、と思う我ら夫婦。

しかし母は、「まだ帰るには早いね」と言い出した。

 

ドキッ!

母はひとたび出かけたら、時間いっぱい人を使い倒すので

いつもは帰る時間を早からず遅からずに調節している。

しかし、この日は私に油断があった。

深く反省。

 

「お父さんの実家へ行ってみようか」

それは運転する人間が言うセリフと思うが、それが母である。

夫は変わらず無表情、しかしいつも以上の強引に

かなり驚いているのがわかった。

 

父の実家は、県内の山間部にある。

現在地から、1時間弱というところか。

日頃は人が住んでいないので、ただ見に行くだけだ。

子供の頃は毎年、夏休みや秋祭りに泊まらせてもらったが

1年で一番楽しい時間だった。

優しい伯父一家、広がる田畑、輝く稲穂、吹き渡る風…

私の原点とも言える。

母もまた、父や娘と泊まりに行っていた頃が

良い思い出として残っているようで、道中はツラツラとその話をしていた。

 

やがて目的地に到着。

やっぱりいつ来ても美しく気持ちのいい場所だ。

「ここに来るのも、これが最後になるわね」

母は家の前に立ち、映画のヒロインのように言う。

そのセリフが現実になるとは、その時は思わなかった私である。

《続く》

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始まりは4年前・12

2024年08月10日 09時47分47秒 | みりこん流

『変化』

正月が来て、今年になった。

マーヤが帰ったと同時に電話が。

「置き去りにされた」、「見捨てられた」

嘆きの女王は今年も健在、一心に嘆くのだった。

 

去年まではマーヤたちが帰った後、少なくとも1日か2日は

静かになった家で疲れを癒す余裕があったが

今年は呼び出しが早かった。

寂しさがつのって心を病んだ末に、やっと会えた最愛の娘だ。

例年よりも別れの辛さがこたえるのだろう。

 

以後は再び、毎日の電話と1日か2日おきの訪問が再開されたが

マーヤが帰省した後の母は、マーヤ前のそれと違うように感じた。

待ち人来たりて、精神的な刺激が強過ぎたため

故障がひどくなったのかもしれない。

ボ〜ッとすることが多くなり、物忘れもひどくなった。

かと思えば愚痴や悪口はますます研ぎ澄まされ

的確な描写が冴え渡っていて、時に私は腹を抱えて笑う。

言うなれば、落差が大きくなったのだ。

 

妹のマーヤと連絡をとり始めたのは、この頃である。

何かあっても早めに対応できるよう、備える必要を感じた。

彼女が関西へ帰った直後から始まった、母の口癖も気になっている。

「マーヤの所へ行きたいのに、引き取るとは言うてくれん」

嘆きの女王のセリフが、変わってきたのだ。

 

以前はしきりに「娘に迷惑は絶対にかけられん」と言っていた。

私には迷惑をかけていいらしいのはさておき

それが今度は「行きたい」になった。

行きたいと言って嘆き、それから怒り出し、やがて泣く…

この繰り返しなので、引き取るつもりがあるのかどうか

はっきり確認したいのもあった。

 

答えはわかっている。

無理だ。

教師のマーヤは中学3年の担任である。

加えて働き盛りの夫に、思春期の子供3人。

ここにあの母を投入して、家庭崩壊しないわけがない。

私が確認しておきたいのは、母を任せてくれるかどうかだ。

 

引き取る意思があるのなら、私はそれまでの気楽な繋ぎでいい。

しかし無いのであれば、全てを私に任せるという

実子の承諾を得ておきたい。

それは、親切や信頼といったボヤけた世界の話ではない。

入所や入院に向けた手続きや支払いの現実に

他人の私は踏み込めないからだ。

 

しかし、マーヤの返事は想像の上を行っていた。

年末年始の滞在中は毎晩、「苦しい、死にそうな」

と言って起こされ、大変だったらしい。

仕事でパニック障害の生徒を何例か見ているマーヤには

その様子が芝居がかって見えたそうだ。  

 

年が明け、マーヤたちは実家を後にしたが

隣の市内まで走ったら、母から

「苦しい、死にそうな、戻って来て」と電話があった。

急いで実家に引き返すと、母は平然とテレビを見ていて

机の上には“御供”と書かれた熨斗袋(のしぶくろ)。

正月明けに法事をする予定の母の親戚に、これを持って行けと言う。

マーヤは持って行き、改めて関西へ帰った。

 

「子供たちが怖がってしまって…」

そりゃ怖がるわ。

マーヤは、できることなら私に任せたいと言い

私は本気で母に対峙する決意を新たにした。

 

ともあれその話を聞いて、母の真意がわかった。

母はマーヤの帰省が近づいた12月後半から

一緒に暮らしたい気持ちが強くなったらしい。

以前はマーヤを地元に帰らせることばかり考えていたが

現実的にそれは不可能であり、いつまで待っても叶いそうにない。

そこで自分が行こうと思うようになったのだ。

 

だから大晦日、マーヤたちと一緒にうちへ来るという

大異例を決行した。

私に会わせて礼を言わせ、マーヤに

「自分は何もしてない」という自覚を持たせようとしたらしい。

そこから正月中、引き取って欲しい願望を遠回しにたたみかける。

けれども娘に嫌われたくないので遠慮があり

遠回しになり過ぎて不発に終わった。

 

マーヤが関西に帰ってしまうと、次のチャンスはお盆。

それではあまりにも遠過ぎるので、再チャレンジだ。

仮病の電話だけでは弱いので、熨斗袋もプラス。

いかにも母が練りそうな作戦じゃんか。

 

が、そこは認知症一歩手前。

記憶力に問題がある分、昔より精度は落ちている。

マーヤが再び戻ってくれたことに満足し

熨斗袋を持って行かせた間に、肝心な話をを忘れてしまったのだ。

私に少しは洞察力があるとしたら、それは母の屈折した作戦に

さんざん引っかかってきた成果である。

 

じきに2回目の心療内科へ行く日がやって来た。

薬の方は、調子が良いようなので

今飲んでいる弱目の薬をもう1ヶ月、続けることになった。

 

この時、12月の初診で行った血液検査の結果が出ていて

女医先生が言うには栄養失調の状態だそう。

「食事はちゃんと摂れてますか?

特にタンパク質が足りてない数値が出てるんですけど」

とたずねられた。

 

「この人、毎朝、焼肉食べてるんですよ」

と言ったら

「えっ!朝から焼肉?」

と驚かれた。

「じゃあ、年相応に栄養の摂取がしにくくなってるんですね〜」

だそう。

 

そうなのだ…母は食欲だけはある。

何年か前にテレビで見たらしく

朝食で肉を食べたら身体にいいと信じて、ずっと朝焼肉を続けている。

昼はコンビニのサンドイッチとコーヒー、夜は野菜と魚…

こだわりの強い母は、この方針を崩さない。

 

それでも栄養失調と言われたのだ。

認知症の進行には、栄養状態も深い関わりがあると聞く。

精神の方はもう仕方がないけど

認知症まで進んだら本人も周りも大変になるではないか。

 

帰省して以降、マーヤの家と携帯には

良く言えば恨み言、悪く言えば暴言の電話が続いるそうで

家族も怯えているという。

自分の願いを聞き届けてくれなかった者への報復である。

これを実子にまで執行するようになったとはな。

老化とは、そして病気とは、すごいものだ。

シロウトに、あの電話はきついぞ。

ヅカヅカ踏み込んでアハハと笑える私のメンタルでないと

毒にやられてしまう。

 

そういうわけで、食事を作るのが億劫になってきた母に

もっと頻繁に差し入れを持って行くことにした。

焼け石に水とわかっているけど、私にできるのは料理しかない。

女は食べ物が届くと、一瞬でも頬がゆるむものよ。

少しでも目先の転換になれば、という思いである。

《続く》

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始まりは4年前・11

2024年08月09日 10時23分40秒 | みりこん流

昨日は宮崎県を中心に、大きな地震がありましたね。

元旦に起きた能登半島の地震を彷彿とさせましたが

皆様がお住まいの地域は大丈夫だったでしょうか?

被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

さて、この老人シリーズも11話目。

怠け者で筆の遅い私だが、オリンピックに負けじとばかり

連日アップにチャレンジしている気分になっている。

陰気なテーマだけに、興味の無い方にとっては食傷気味かもしれない。

しかし一旦取り組んだら急いで記録しておかなければ

年齢的に忘れてしまいそうなので、まだまだ続けるつもり。

ご自身やご家族にとって、明日は我が身の方には

ジワジワと迫り来る老いの恐怖を実感していただきたいと思う。

 

 

さて、薬を服用し始めた母は、劇的に落ち着いた。

最初なので、かなり弱い薬で様子を見ると聞いていたが

弱い薬で十分という感じ。

今後は月に一度のペースで受診し

薬が合っているかどうかを見るそうである。

心療内科を紹介してくれたA先生は

「心療内科の薬は患者さんの症状に合わせるのが難しくて

一回でピッタリ合って症状が改善するのは珍しいんよ。

良かった良かった」

と言った。

 

落ち着いたとはいえ、夜中の呼び出しが無くなっただけで

薬を飲んだからといっても性格まで良くなったわけではない。

昼間は今までと同じ嘆きの女王であり

私をアゴで使い倒すブラック会社の社長である。

 

それにしても精神安定剤…つまりよく眠れる薬の服用により

一発で改善された症状を考えると

母は老人性の睡眠障害に陥っていたのだと思う。

睡眠障害は、鬱病の前段階で発生することが多いからだ。

 

彼女は若い頃から、夜の10時に布団に入ると即、寝落ちして

朝の6時まで一回も目が覚めないタチ。

夜中にトイレに起きるなんてことは、別世界の話として生きてきた。

それが近年、夜中に目が覚めるようになった。

夜中に目なんか覚めたことがないんだから、そりゃびっくりする。

びっくりして、色々と考えてしまう。

夜中に布団の中で考えることは、ろくでもないことに決まっている。

あれこれ考えているうちに不安になり、それが癖になったと思われる。

 

母のように、あんまり元気過ぎるまま年を取るのは

自分を追い詰める一因になるのかもしれない。

ともあれ夜中に起こされなくなったので、私に文句は無い。

当面、施設も病院も遠ざかったように思えた。

 

そうこうしているうちに、去年の年の瀬だ。

年末には、母の実子マーヤが帰省する。

毎年のお盆と年末年始、マーヤは一家で実家を訪れ

数日間を過ごすのが恒例である。

 

その間は静かで実家には呼ばれないし、電話もかからないと断言できる。

なぜならマーヤの滞在中、母は我々継子を寄せ付けない。

継子と実子の間に一線を引きたい母の主義と

母娘の蜜月を誰にも邪魔されたくないからだ。

 

この10年ほど、母は年末になると

正月の支度や買い物のために私を呼ぶ。

けれどもその作業は、マーヤの一行が車で到着する前日

または当日の数時間前までと厳密に決まっている。

母は周到に逆算し、私の出入りとマーヤの帰省が被らないよう

ちゃんと調整していた。

 

マーヤの帰省が近づくと

楽しみ半分しんどさ半分で感情が乱高下するが

それをやり過ごせば、数日間は解放されるのだ。

ブラボー!

 

が、その年は例年と少し違った。

マーヤが帰って来るのに、掃除機がどうしてもかけられないと言う。

母は人一倍几帳面なので、台所や部屋を散らかすことは無い。

断捨離もとうの昔に済ませ、家はいつも綺麗に整っている。

ただ、掃除機が無理だと言うのだ。

 

精神が弱ると掃除が苦手になると聞くけど

なるほど、よく見ると隅々にホコリが溜まっている。

そのホコリが見えないのは、白内障の手術も虚しく

とみに衰えてきた視力のせいもあるけど

近年、カーテンを全く開けなくなり

暗闇を好んで生活するようになったのもある。

やっぱり症状は色々な所に現れるんだな〜と思った。

 

例年との違いは掃除機もだけど、そもそも私が掃除機をかけるために

実家の全室に出入りしたこと自体が異例。

長年、実家への出入りは玄関と、勝手口のある台所

それからお坊さんが来た時の仏間しか許されておらず

夜中に呼ばれるようになってから、母の寝室へ入るようになった。

自分の実家ではあるものの、すでに母が相続した他人の家なので

入りたいとも懐かしいとも思わないが

母が私に全室への侵入を許すからには、よっぽどしんどいのだろうと感じた。

 

いよいよマーヤが帰ってからも、異例はあった。

大晦日の午後、母とマーヤ一家が突然うちへ来たのだ。

これにはぶったまげた。

 

マーヤと会うのは父の葬式以来、20年ぶりだ。

彼女の夫と3人の子供たちとも、それ以来…

いや、末っ子の女の子は父の死後に生まれたので

よく考えたら初対面である。

が、マーヤは毎年の年賀状に家族写真をプリントしてくれるので

成長の過程は把握していた。

 

マーヤが小声で言うには

「姉ちゃんに会って礼を言え」

母が言い出したので、みんなで来たのだそう。

腹違いの姉妹が顔を合わせるのを激しく嫌ってきた母が

自ら会わせるのは異例中の異例である。

 

玄関が賑やかなので義母ヨシコも出て来て

母と親しく言葉を交わしていた。

この二人が会うのは、義父アツシの葬式以来9年ぶりだ。

 

が、ヨシコ、それが母だとは気づかないままに終わった。

ずっとマーヤの姑だと信じていたらしい。

「マーヤちゃんの姑さんは、小柄な人じゃね」

一行が帰った後で言う。

「あれは、うちのサチコじゃ」

「ええっ?!

知らん人じゃけん、旦那さんのお母さんだとばっかり…」

ヨシコの驚くまいことか。

母の外見が、それほど変化してしまったということだろう。

それよりも勘違いしたまま、会話がちゃんと成立していたのが怖い。

《続く》

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始まりは4年前・10

2024年08月08日 10時19分29秒 | みりこん流

A先生の紹介で、心療内科を受診することになった母。

そこはうちから車で5分と近いが

先日、母を救急で連れて行っただけの、ほぼ知らない病院だ。

 

私が子供だった昔は、市内唯一の救急病院として名を馳せていたが

歴史の古い病院にありがちな、車社会への対応ができないまま

増築を繰り返して現在に至っている。

到達するには車の離合が難しい坂道を登らなければならず

駐車場も狭いため、私にとっては避けたい場所。

だから、心療内科ができていることも知らなかった。

 

この前、母を連れて行った時は時間外だったので閑散としていたが

今回、明るい時に行ってみると、なかなか賑やかだ。

母が救急で受診した循環器内科から外科まで数種類の科があり

心療内科もその一つになっている。

「待合室で知り合いに会っても、何の病気で来とるかわからんけん

お母さんにはいいと思うよ」

A先生が言っていたのを思い出して、なるほど…と思った。

 

心療内科の先生は40代ぐらいか…あっさりして明るい女医さんだった。

A先生から詳細な連絡が行っているようで

母に少し聞き取りをした後、ここでもやはり先生が気にしたのは

夜中に電話で私を呼ぶ行為。

時間や回数、その時の母の様子を詳しくたずねられた。

 

そして診断はすぐに出た。

“不安神経症”という病名だ。

若い人であれば、パニック障害と言うらしいが

老人の場合は不安神経症なんだそう。

 

「私は精神病なんですね…」

うなだれる母。

しかし先生、そこは心療のプロ。

「精神病じゃありませんよ。

不安神経症という症状が出ているだけです。

お薬で治りますからね、大丈夫ですよ」

老人が聞き取りやすいように、ゆっくりと大きな声でなだめるのだった。

 

それから認知症テストを、先生自らしてくれた。

動物や花なんかのイラストが4つか5つ描いてある絵本を見せて

覚えるように言い、今度は10から20までの数を逆から言わせて

さっきの絵本に何の絵があったかをたずねる。

母、全滅。

さらに鉛筆や腕時計などの実物を並べた小ぶりなケースを見せた後

少し別の話をしてから、さっきのケースに何が入っていたかを聞く。

これは一つクリアして、得意そうだった。

 

「短期記憶が、ちょっと来てますね。

お年寄りがさっきのことをすぐ忘れる、よくあるやつです。

ほら、脳の写真を見ても、前頭葉の萎縮が始まっていますから

物忘れは仕方がないですね。

年相応なので、気にしなくて大丈夫ですよ」

という話だった。

認知症で施設入りの道のりは、遠そうだ。

 

薬は2種類、出た。

様子を見ながらなので、ごく軽い薬だそう。

朝、昼、夕、それぞれ食後に飲む錠剤と

夜中に不安になったら飲む精神安定剤の錠剤。

どっちも直径5ミリぐらいの小さい粒だ。

 

「せっかく行ったのに、注射も点滴も無いなんて!」

残念がる母を連れて帰ったが、その夜から呼び出しがパッタリ無くなった。

そして翌朝、晴れやかな声で電話がある。

「あんた、朝までよう寝られたわ!

あの女医さん、やっぱり本職じゃねえ!」

こんな明るい声は久しぶりに聞く。

 

以後、電話は依然として日中に複数回あるが

母の要請で実家へ行くのは2〜3日に一度でよくなった。

不安時に1錠飲む精神安定剤に依存して、ガンガン飲んでいる様子だが

ようやく訪れた小康状態…

「飲み過ぎじゃないのか」、「3時間は空けるように言われたじゃん」

などと言って生真面目に制限する気は起きなかった。

 

ただ、このまま飲み続けると蓄積して行って

時期は個人差があるのでわからないものの

一気にツケが回ってガクッと来るかもしれない…という話は聞いていた。

次男の別れた嫁アリサが、元は精神科の介護士で

母が心療内科の薬を飲み始めた頃に教えてくれたのだ。

 

それから彼女はもう一つ、貴重な話をしてくれた。

「お年寄りに手がかかるようになると、みんな施設を考えるけど

順番待ちでなかなか入れないでしょう。

だけど認知症と強い不安感はセットになっていることが多いから

精神病院でも扱えます。

聞こえが良くないので、お年寄りも家族も精神病院を避けたがる分

病室は割と空いていて、施設より入りやすいんです。

病棟の出入り口と病室に鍵をかける鉄則はありますけど

それ以外の待遇は施設と同じなので、ある日ガクッと来ることがあったら

施設だけじゃなくて精神科の入院も考えるといいですよ」

医師や看護師が聞いたら怒るかもしれない、際どい内容だが

それを聞いて、ものすごく楽になったものだ。

 

似た内容の話は同級生のけいちゃんから聞いていたので

万一の時の裏技として心に留めていた。

彼女の認知症のお母さんが、精神病院に入っていたからだ。

しかし実際に精神病院で働いていた…

しかも当時は身内だった人物から直接聞くと、現実的でわかりやすい。

今となっては、アリサはこれを伝えるために

うちへ嫁に来たのではないかとまで思ってしまう。

 

精神病院の介護士はストレスが多かったようで

彼女は二度と介護の仕事をやりたくないと言っていた。

そのストレスが残り続けて散財癖に繋がり

離婚に至ったのかもしれない。

有り金を使い果たされた次男は気の毒だったが

私にとっては万金に値する情報だった。

 

アリサは結婚直前に一度、母に会ったことがある。

その時に母の表情や体格を見て、感じるものがあったらしい。

例のごとく、当日になって急に連れて行けと言い出した母の要請で

お寺の行事に行った時、私と母を送迎してくれたのだ。

今日は車検で車が無いと言っても通用しない、それが母である。

「どうして?どうして〜?」

行くまで電話攻撃は終わらない。

私という無料のタクシーに味をしめているので

町内のお寺でも自力で行く気はさらさら無い。

ちょうどうちへ来ていたアリサが見兼ねて、快く車を出してくれた。

 

「ヨシキのお祖母ちゃんです、よろしくお願いしますね」

母は気取って微笑み、迎えに来たアリサに挨拶した。

が、翌月結婚した彼女夫婦に、祝いは無かった。

それが母である。

結局離婚したし、全然いいんだけどね。

《続く》

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始まりは4年前・9

2024年08月07日 15時23分22秒 | みりこん流

『前進』

夜中に長男と二人で母の所へ行った私は、その後どうしたか。

夜間受付のある救急病院へ行くことにした。

だって、前に進むと決めたんじゃ!

 

電気を点けるのを嫌がる母の枕元に座り、真っ暗な部屋で

彼女が昔の恨み言や先の不安をツラツラとしゃべるのを聞きながら

落ち着くまで待つ…このバカバカしさといったら!

しかも最初のうちこそ

1時間ほどで起き上がれるようになっていたものの

回復する時間はだんだん遅くなっていた。

この現象は、体調の問題ではないような気がする。

聞いてくれる者がいるので

毒を吐き続ける時間が長くなってきて、まさに毒演会。

 

つまり母は、今後も悪質化する一方で

私がチャラチャラとお世話ごっこをしてみても

何の意味も価値も無い。

こんなことを繰り返していては、ダメじゃ。

これからは母の主導でなく、私がどうしたいかを主体に動く。

 

施設か病院か…だから私は考えるようになった。

要介護も取れそうにないし、入院できそうな病名も無いので

絵に描いた餅だけど、それでも考えないよりはいい。

考えた結果、施設でも病院でもいいから

とりあえず行動して、ルートを模索するのだ…

という当面の結論に達した。

 

逸れた話が長くなったが、そういうわけで私は

長男が運転役をしてくれたために

母を管理しやすくなったこの夜を好機ととらえ

病院の門を叩くことにした。

もちろん、母には了解を得ている。

一度見てもらった方がいい…その意見は母も私も同じだ。

 

しかし、考えの方は異なる。

今夜は私だけでなく長男もいるので、母は喜んでいた。

孫だからではなく、自分のために複数の人間が動いてくれる…

それが嬉しいのだ。

ドライブが大好きなので

長男の運転で救急病院まで行くのもまんざらでない。

そして私は、その心理を利用したまでだ。

 

私は車中から、救急病院へ電話した。

義父アツシが入院していた、うちの近くの病院だ。

そこには老人施設が併設されているので

先々、病院と施設のどっちへ転がっても大丈夫。

 

通常は家から電話をし

受け入れの返事を聞いてから出発するのだろうが

母は気が変わりやすい。

病院とのやり取りを聞いているうちに

行かないと言い出す恐れは大いにある。

それを考慮し、後戻りしにくい距離を走ってから電話をかけた。

母の気が変わって「降りる!」と言い出しても

そこは寂しい町外れ…一人で帰れないもんね。

行動するために、まず家から出る。

後のことは、それからだ。

 

しかし、私のヨコシマな思惑は天に見抜かれたのか

90才という母の年齢と、胸が苦しいという症状を伝えたら

「当直に心臓の専門医がいない」

と、あえなく断られる。

そして代わりに、別の救急病院を紹介された。

やはりうちの近くだ。

我々3人は、そっちの病院へ向かった。

 

到着後は心電図を取り、色々な検査をしたが

医師の診断結果は「異常無し」。

行動を起こしてみたものの、初戦敗退だ。

 

その頃には母はすっかり元気になり

着て来たコートの下がパジャマだったのを悔やんだ。

帰りに買い物がしたかったらしい。

病院に連れて行かれて懲りたのか、疲れたのか

その夜の呼び出しは無かった。

 

翌日、母を連れて、いつもの内科医院へ行った。

月に一度の健康診断と

夜中に救急病院へ行ったことをA先生に報告するためだ。

「一度、心臓の精密検査をしてみましょう」

A先生は言い、町内にある病院の紹介状を書いた。

私が17年前まで勤めていた病院である。

 

12月半ばを過ぎた頃、母は心臓外科の診察を受け

24時間装着して心電図を取る、小さな機械を付けてもらった。

後日、検査結果を聞きに行ったら、またもや「異常無し」。

チ〜ン。

「バリバリに元気です」

と言われてご機嫌の母は、その晩、私を呼ばなかった。

 

検査結果が出た翌日、書類を持ち

母を連れてA先生の内科医院へ行った。

「もうね、夜になると胸が苦しゅうて苦しゅうて…」

症状を訴える母だが、A先生の興味は別のところにあった。

 

「この前から、夜中に娘さんを呼んどるよね?

僕が知っとるだけでも3回」

「はい先生、胸が押しつぶされそうに苦しいから

いつも呼ぶんです」

A先生は、深刻な表情で言った。

「心臓は大丈夫とわかったから、心療内科を紹介します。

サチコさん(母の名前)、専門の先生に見てもらおうや」

 

母を点滴室に送った後、彼が言うには

「夜中に呼ばれたら、やっとられんよね。

病気じゃないのにそういうことをするのは、心因性なんよ。

精神科だと、お母さんが抵抗を感じるけん

心療内科のある病院にしといたよ」

…母の性格をよくご存知で。

 

それから、母の口癖が気になるそうだ。

“不安で不安で仕方がない”、“夜中に目が覚めたら不安になる”

“不安で居ても立っても居られない”、“私はもうダメ”

“こんなに苦しいんなら死んだ方がマシ“、“一人で死にとうない”…

母が先生に繰り返し訴える言葉を

カルテにそのまま書き留めてあった。

 

こういう嘆きの語録、母にとっては普段の日常語なので

私は慣れている。

が、他の人が聞いたら変に聞こえるんだろうか…

そう思うと、何やら不思議な感じがした。

 

こうしてA先生が紹介してくれたのは

先日行った救急病院の心療内科。

A先生のにらんだ通り、母は心療内科を

内科に毛の生えたような所だと思い、すんなりと付いて来た。

思わぬ方向から、病院と縁ができたような気がする。

《続く》

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始まりは4年前・8

2024年08月06日 08時43分02秒 | みりこん流

『女優』

夜中の呼び出しは、その後も数日間、続いた。

2時、あるいは3時…

車を飛ばして実家へ行き、母が落ち着くのを見届けてから

早朝に帰宅する。

 

私は夜の7時台という超早寝で、夜間の呼び出しに備えた。

このハードな日課でみるみる痩せたため

減量したい人に母を貸し出す商売でも始めようかと

半分真面目に考えたものである。

 

本当に具合が悪ければ、駆けつける甲斐もあろう。

夜中に電話で人を起こし

わざわざ来させるほどの体調不良が生じれば

たいていはそのまま入院するだろうから

夜中の呼び出しはせいぜい1〜2回で終わる。

 

しかし母の場合、電話からして芝居がかっている。

そして芝居なんだから、何回でも続く。

「しんどいんよ…苦しいんよ…」

枕元の携帯に出たら、いきなりこれだ。

次の句も決まっている。

「一人で死にとうない…」

 

一人暮らしの母は防犯に神経質で

家のどこもかしこも、常に厳重に施錠している。

しかし呼び出される時は、いつも玄関の鍵が開けてある。

私は実家の鍵を持ってないので

開けておいてくれれば助かるが、母の寝室は2階。

今にも死にそうな人間が、1階の玄関まで降りて鍵を開け

それからまた2階の寝室へ戻っているというわけだ。

 

わざわざ玄関の鍵を開けたのなら

電気も点けておいてくれれば、なお助かるが

夜中に明かりを煌々と灯したら、向かいの交番が異変を感じる。

異変を感じてもらっては困るため、家中、必ず真っ暗だ。

そして本人は真っ暗な寝室で布団をかぶり

息を潜めて私の到着を待つというホラー。

 

夜中の呼び出しが始まって何日目だったか

やはり深夜3時に電話が鳴る。

「救急車はどうやって呼ぶん…」

毎晩、同じセリフでは芸が無いと思ったのか

この夜はセリフを変えてきた。

 

これを聞いて飛んで来ると思っただろうが

敵は救急車の呼び方を質問しているのだから

優しい!私は、まず呼び方をお伝えしなければ。

「119に電話するんよ」

「……」

不本意な答えだったらしい。

 

少し間を置いて、再び質問が。

「ねえ、救急車はどうやったら来てくれるん…」

「じゃけん、119に電話するんじゃが」

2〜3回、このやり取りを繰り返した後、本題に入る。

「震えがきて、どうにもならんのよ」

「寒いんじゃないん、暖房つけんさい」

「つけとるけど、寒いんよ…

私はもう死ぬんじゃわ…わかるんよ…一人で死にとうない…」

出た…最近お気に入りの、“一人で死にとうない”攻撃。

 

“一人で死にとうない”

それは老人にとって、便利なフレーズだ。

この言葉の本意は

「いつ死ぬかわからないから、いつもそばで見守れ」

ということであり、簡潔な一節の中には

“絶対、逃がさんぞ”という、強い束縛が配合されている。

実際に言われたら、わかる。

 

「はいはい、お見送りに行きますけん

玄関を開けといてちょうだい」

「わかった…」

今夜もこれから死ぬ人が、1階へ降りて鍵を開けてくれるそうだ。

 

実家へ行くために化粧をしていたら、長男が起きてきた。

今宵は電話のやり取りが長く

耳が遠くなった母に大きな声でしゃべっていたので

目を覚ましたようだ。

 

「ワシも行くわ」

彼はそう言って、実家まで車を運転してくれた。

親の欲目かもしれないが

“夜勤続き”の老親が心配になったのだと思う。

 

「死にそうなのに、玄関開けるパワーはあるんか…」

この不可思議に、長男も気づいたようだ。

いつもこうだと言ったら

「女優じゃ…」

小声でつぶやいた。

 

二人で2階の寝室へ向かうと、母は例のごとく暖房をガンガンにかけ

頭から布団をかぶって寝ていた。

が、この夜は長男が一緒だと知って張り切る女優。

「マコト、おばあちゃんは胸が苦しいんよ…」

いつもにも増して迫力の演技。

急に孫扱いされた長男は、目をパチクリするのだった。

 

この頃の私は、すでに覚悟を決めていた。

前に進む覚悟である。

 

それまでの方針は、現状維持。

母の実子であるマーヤを始め、他の人に災禍が及ばないよう

できるだけ長く前座を務めるつもりだった。

そうしているうちに年月が経ち

施設か病院、どちらかの方向が自然に決まるか

あるいは母の生命が尽きて、いずれにしても終了するだろうという

何もかも母次第の受け身の体制を取っていた。

終了まではできるだけ彼女に寄り添い

悔いのない世話をしようと思っていたのである。

 

しかし、夜中に呼ばれるようになってから考えが変わった。

好きな時間に人を呼びつけ

睡眠を取らせないのは立派な暴力だと判断したのだ。

 

母は昔から、人がどこまで自分のワガママを聞いてくれるか

じっと観察するところがあったので

性格上、あるいは精神的な分野の症状かもしれない。

だから私も腹は立たず、仕方のないことだと思っている。

それでも、病人が振るおうと元気な者が振るおうと

暴力は暴力だ。

 

このまま母と私のどちらかが倒れるまで

命懸けのバトルを繰り広げている場合じゃない…

母を施設か病院に入れることを真剣に考え始めた。

それが、前に進むということだった。

《続く》

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始まりは4年前・7

2024年08月05日 13時43分14秒 | みりこん流

『ドタキャンの女王』

音楽会に出たくない母は、数日の間

私を呼んだり電話をかけては、ああでもないこうでもないと

定番の行ったり来たりを繰り返していた。

容赦なく人の時間を食い潰しながら

自分がその気になる時期をじっくり待つ…

これは昔から彼女の悪癖なので、今さら驚かない。

私の気が長いとしたら、それは母に訓練されたのである。

 

やがて音楽会が明後日に迫った日

歌姫はようやく先生に欠席を伝え、あっさり了解された。

舞台を蹴った歌姫は、「このまま引退する」と宣言。

その表情には、欠席を受け入れてもらえてホッとした反面

言葉を尽くして引き留められなかった寂しさが垣間見えた。

 

それでも音楽会を欠席し、コーラスの引退を言い出してから

母は幾分、落ち着いたように感じた。

コーラスに諦めがついて楽になったのか

涼しくなって体力的に持ち直したのかは不明。

しんどいと言っては通っていた内科医院も

たまの点滴も間遠になった。

 

さて例年なら、この音楽会を最後に年内の行事は終わる。

けれどもその年は、12月の始めに大イベントが控えていた。

先生がコーラスグループを立ち上げて30周年の

記念コンサートが行われるのだ。

 

コンサートが近づくと、歌姫の虫は再び騒ぎ出す。

また先生に頼んで送迎をしてもらい、練習に励むようになった。

「私はね、このコンサートだけは出演したいの!

これを最後に引退する!」

歌姫は、キッと顔を上げて断言するのだった。

 

「もう引退したんじゃなかったんかい…」

怪訝そうな私を見て、彼女はムキになる。

「先生の弟子になって25年…

私の送り迎えまでしてくれて、25年よ?!

その恩人の記念コンサートを欠席できると思う?!

私はそんな恩知らずじゃないけんねっ!」

少し前に言ったことと、今日言うことが正反対なのは

彼女の場合、普通である。

 

「はいはい、頑張ってください」

「言われんでも頑張るわいね!」

燃える歌姫であった。

 

30周年記念コンサートが、いよいよ明日に迫った。

前日のその日は、実際の会場を使ってリハーサルをする予定だ。

直前まで張り切っていた歌姫だが、急に行きたくなくなった。

「どうしても行けません」

先生に連絡すると驚いた様子だったものの

歌姫の決心が固いのを悟り、快く欠席を受け入れてくれた。

 

そして一夜明けた当日の朝、歌姫は突如コーラスへの情熱が復活したらしく

泣きながら先生に連絡して訴えた。

「先生…やっぱり私、歌いたい!」

 

先生の反応は冷ややかだった。

「無理よ。

あなたが昨日のリハーサルを欠席したから

みんなの立ち位置が変わってしまったのよ。

本番で急にあなたを戻したら

また立ち位置が変わって、みんなが戸惑うでしょう」

「でも先生、私は歌いたいんです!歌わせてください!」

「ダメよ」

もうワガママは許されなかった。

 

母は自分一人で処理できない問題が起きた時

いつもそうするように、この日も私を呼んだ。

「胸が苦しい!」

と言うので駆けつけたら、またコーラスの件だったので脱力。

話を聞いて、そりゃ苦しかろう…とは、一応思った。

 

「私はただ歌いたいだけなのに!

私のどこがいけないと言うの?!」

ワッと泣き崩れる歌姫。

全部じゃ…と言いたいけど、面倒くさくなるので我慢。

気分を変えてやろうと思い、ドライブに連れ出したが

歌姫の心が晴れるはずもなかった。

 

『荒ぶる魂』

母はその翌日から、胸が苦しいと言っては

とんでもない時間に私を呼ぶようになった。

それでも初回ということで、少しは我慢したのだろう。

電話がかかったのは午前7時だった。

家族を仕事に送り出して駆けつけたら8時になったので 

A先生の所へ連れて行く。

そしていつものように、母の希望で点滴だ。

 

「家で待つか用事を済ませるんなら、長い点滴にするけど?」

A先生は私に問う。

点滴の容量で、時間を調節できるらしい。

「ありがとうございます。

こちらの待合室で待たせていただいてもいいですか?」

と言ったら

「じゃあ早く終わるように、短いのにしとくね。

点滴といってもただの電解水なんだから

あれで元気になるわけないじゃん」

そう言って笑うA先生は、母の詐病を見抜いているらしい。

 

点滴で元気になった母を連れて家に帰り、義母に経過を報告。

それから我が家で一番、家庭的な長男に連絡して

家族の昼ごはんをどこかで買い揃えるように依頼。

母には朝と昼を兼ねた食事を摂らせ、行ったり来たりの話や

コーラスの恨み言を拝聴して午後に帰宅した。

 

そして同じ日の真夜中…

正確には午前3時に、また母から電話だ。

「胸が苦しい!」

どうせ昼まで逃げられないんだから…と思い

ゆっくり化粧をして出かける。

そしてまた午前8時を待ち、前日と同じローテーションをこなした。

母は、舞台に上がらせてもらえなかった悲しみが頭から離れず

苦しんでいる様子だった。

 

それにつけても彼女ほど

何でも思い通りにしてきた人生を他に知らない。

しかし年を取ったことで肩書きや味方、自信や体力を失い

ただの老人になった。

ただの老人を、人は特別扱いしてくれない。

ヒロイン気質の母は、その現実を受け入れたくないようだ。

 

これまで彼女が周囲に振りかざしてきた刃(やいば)は

その鋭さゆえ、身が衰えても消えることは無い。

振りかざす相手がいなくなった今

研ぎ澄まされた刃は血や涙を求め続け

あげくに我が身を傷つけるしか無くなった…

母を眺めつつ、そんなことを思う私だった。

《続く》

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始まりは4年前・6

2024年08月04日 15時13分19秒 | みりこん流

『嘆きの女王』

足の痛みが消え、いっときは喜んだ母だが

お産以来、初めて味わった激痛の記憶に怯え

一人暮らしの不安はさらに増した。

秋に90才になることを異様に意識し始め

「もうすぐ90になる」、「90年は長過ぎる」

「90になってまで、まだ生きないといけないのはつらい」

母の語録に“90”という数字が頻繁に登場するようになった。

 

そして周囲の幸せそうに見える人を数え上げては羨ましがり

「それに引き換え私は、みじめな一人ぼっち…」

そう嘆くのを繰り返したあげく

「あんたは家族に囲まれて楽しく賑やかに暮らしとるのに

何で私だけ、一人で寂しい老後を送らんといけんの?!」

と逆ギレ。

嘆きが高じると攻撃的になるのは人間の本能らしいが

母の嘆きに付き合う気は毛頭無い。

これらは皆、老いという病いのうわごとなのだ。

 

後から知ったが、母は同じ時期、自分の娘にも

「親を放っておいて平気なあんたは、冷たい子じゃ」

「“あんな婆さん、ほっとけ”いうて、旦那が言いようるんじゃろう」

などと、電話で責めていたらしい。

継子も厄介な立場だけど、ヘタに血が繋がっている実子は

遠慮の無い親の毒をダイレクトに受けなければならない。

実子も大変なのだ。

 

後から知ったというのは

母の実子…つまり13才年下の腹違いの妹マーヤと私が

何十年も前から意図的に連絡を取り合っていなかったからだ。

継子と自分の子が親しくすることを、母は昔から激しく嫌っていた。

これはなさぬ仲特有の心境だと思うが

自分の生んだ子供と、先妻の生んだ継子の間に

はっきりと線を引いて上下の身分差を作り

別ものとして扱いたい気持ちが強かったのである。

 

けれどもマーヤは、母が構築した特殊な環境に

影響されるタイプではなかった。

私と同様、父の遺伝子を多めに受け継いだマーヤは

大柄な身体つきや、のほほんとした考え方が似ており

小さい頃は姉ちゃん、姉ちゃんと慕ってくれたので可愛く思っている。

しかし、むやみに接触して母に知れると厄介が起きるのは確定であり

連絡を取り合うような用件も無かったため

結婚式や葬式以外で顔を見たことは無く、年賀状程度の交流を続けていた。

 

マーヤと連絡を取り合うようになったのは

母の問題がいよいよ深刻になってきた今年の初めからだ。

母と私は養子縁組をしてないので、戸籍上はあかの他人。

しかも同居人でもないとなると

入院や、亡くなった際の公的な手続きに支障が出る場合があるのを

私はこれまでに色々な人から聞いたことがあった。

こういうことは急に起きるものなので

準備のために連絡を取ったのが最初である。

 

 

さて、嘆きの女王は嘆き続けたまま、夏を迎えた。

この頃には、しきりに「しんどい」と言うようになり

母が長年、検診を受けている近所の内科医院へ

連れて行くことが増えた。

 

内科医院のA先生は、私より一つ上の男性。

家が近いので子供会が一緒で、彼が医大生の頃

なぜか一緒にカラオケをしたことがある。

あの頃の彼は、髪を肩まで伸ばしたイケイケあんちゃんだったが

何十年ぶりかに見たら、今は亡き先代の院長そっくりの

プックリした優しいおじさんになっていた。

 

母はこのA先生が大好き。

「先生…しんどいんです…」

倒れ込むように診察室へ入っても

彼の顔を見て、優しい声で優しい言葉をかけてもらうと

不思議に元気が出るのだった。

 

夏という季節柄、母は脱水症状の予防として

点滴を打ってもらうようになった。

点滴を打つと気分が良くなるので、母は毎日のように行きたがった。

しかしA先生が言うには月に3回程度しか打てないそうで

母は点滴の日を待ち焦がれながら、嘆き続けて秋を迎えた。

 

涼しくなっても嘆きの女王は相変わらず

どうにもならないことを嘆いていた。

しかし、ご記憶だろうか…

母は嘆きの女王である前に、歌姫でもある。

11月の文化の日、歌姫のコーラスグループは

市が単発的に主催するイベントにゲストとして招かれ

短い歌を一曲、歌うことになっていた。

 

「たった一曲のために行くのはしんどい」

母はそう言って、このイベントを早々に断った。

「早めに判断してエラい!」

歌姫の舞台を見に行かなくて済む私は、その決断を大いに賞賛した。

 

イベントの当日は、大雨が降った。

メンバーの人たちは、ドレスや靴の入った大荷物を持って

会場に集まるのが大変だったようだ。

所定の場所でドレスに着替えた後

舞台に上がるまでの道のりにも難儀をしたという。

参加したメンバーから、それを聞いた母は

「やっぱり行かなくてよかった!」

と大はしゃぎで電話をしてきたものだ。

 

けれども次の練習日…

共に大雨の試練を乗り越えたメンバーの間には

何やら特別な結束が生まれていた。

歌姫としては、これが面白くなかったようだ。

 

秋は芸術のシーズン。

イベントの翌週には、毎年恒例の市民音楽祭が開催される。

市内で歌や楽器の音楽活動をする面々が一堂に集まり

日頃の練習の成果を披露するのだ。

歌姫はこの音楽会に出たくないと言い出し

理由として、胸元や腕を出したドレスが寒いと主張した。

 

イベントの後、グループの雰囲気が変わっていたショックを

引きずっているのじゃな…

私にはピンと来たが、面倒なので余計なことは言わない。

好きにしたらいいのだ。

しかし、音楽会は来週じゃんか。

「出んのなら、先生に早う言わんと」

私は、もしや音楽祭を見に行かなくて済むかも…

そんな期待を胸に秘め、母にはそう言った。

《続く》

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始まりは4年前・5

2024年08月03日 14時30分16秒 | みりこん流

先生の着信拒否にショックを受けた母が

コーラスに行かなくなったので

ボイスレコーダーから解放された喜びを味わっていた私。

けれども世の中には親切な人がいるもので

コーラスのお仲間が、先生と母の間を取り持ってくれた。

 

何ヶ月か経っていたのもあって先生は怒っておらず、お仲間に

「あなたがいないと寂しいから、早く戻ってね」

などと言われるのも嬉しくて、母はしれっとコーラスに復帰した。

今回も、先生の送迎付きだ。

きついので有名な先生だが、かなりの人格者らしい。

 

母のコーラス再開で、またボイスレコーダーが浮上すると身構えた私だった。

けれども今回はボイスレコーダーのボの字も出ず、いささか拍子抜けした。

最初は忘れたのかと思っていたが、真相はどうやら違うらしい。

辞めると言い出したのは、実はボイスレコーダーが使えないから…

そのことをコーラスのお仲間に知られたくない一心だった。

 

あらぬ所で気位の高さを発動するのが、老人というもの。

文明の利器が使えないことを恥じるより

歌は命よ生き甲斐よと豪語して25年…

未だ音符ひとつ読めないのを恥じるべきだと思う私は

意地悪だろうか。

 

さらに母のコーラスグループもご多聞に漏れず、高齢化が深刻だ。

30年前の発足当時は30人いたメンバーも

歯が抜けるようにいなくなり、今では半分以下。

そのため先生が難解な新曲へのチャレンジをやめ

その年以降のコンサートでは、過去に歌った曲をやるようになったので

メロディーを暗記する必要が無くなったのも一因である。

いずれにしても、私には幸運なことだった。

 

ところで、こんなハタ迷惑を繰り返して平気なのか…

普通は思うだろう。

母は元々そういう人なので

私はその行為自体に取り立てて異常を感じなかった。

しかし、その行為は主に身内の前で見せるものと決まっており

外部に披露することは無かったはず。

隠していた面を、他人の前で惜しげもなくさらした現実には

多少の危機感を持った。

 

内と外の顔が同じになってきた…

それは彼女の理性が薄れてきたことを意味する。

今思えばあれが、認知症の前触れだったのかもしれない。

 

コーラスに復帰した母に強制され

私は再びコンサートを見に行くようになったが

舞台の母は、もう以前の母ではなかった。

無理に真っ赤なドレスを着た、ヨボヨボのお婆ちゃん。

歌姫どころの騒ぎではない。

母がよその老人を見て、みっともないと軽蔑していた

“引き際の間違い”を、自身が体現しているのだった。

 

そのうち母は、家に人が来るのを嫌がるようになった。

玄関先で応対できる相手であれば、話ができるので歓迎ムードだが

浄化槽の点検や家電の修理で、あんまり知らない人が家に入るとなると

泣きながら電話で私を呼ぶ。

一人で応対するのがつらいので、お前も来いというわけだ。

 

中でも特に嫌がるのが、お坊さん。

祖父の代から、うちには毎月お坊さんが来てお経をあげる。

その2年前、納骨堂を買った時にはチヤホヤして頼っていたお坊さんが

急に嫌いになったらしい。

日頃は公務員の年金の多さを自慢していながら

毎月のお布施がもったいないとまで言うようになった。

 

お坊さんが来るのを嫌がるのは、認知症の老人を抱える家族からよく聞く。

激しく嫌がるので、家族はスピリチュアル関係を疑うが

私は物理的な理由だと思っている。

仏壇はたいてい玄関から離れた家の奥にあるので

お坊さんを嫌がるというより

他人に奥まで入られることに抵抗を感じるようだ。

 

『魔の訪れ』

月日は経ち、昨年の春。

相変わらず、母の丁稚(でっち)として

気ままな命令に奔走する日々を続けていたある日

母が「足が痛い」と言い出したので

私の住む町にある整形外科へ連れて行った。

 

検査の結果、『巨大椎間板ヘルニア』と診断。

レントゲン写真でも、脊髄からボコッとコブのように

大きなヘルニアが飛び出している。

このコブが、母の左大腿部に痛みをもたらしているそうだ。

通常なら手術かブロック注射が妥当な症状だが

89才の高齢なので、鎮痛剤で様子を見ることになった。

 

怪我や病気をしたことのない母は、痛みに弱い。

今度は、泣きながら足の痛みを訴える電話が続く。

しかし、痛いのはどうしてやることもできない。

困ったことになった…と思いながら週に一度、通院することになった。

 

そして1ヶ月後、奇跡が起こる。

あれほど痛がっていたのに、ある朝、起きたら痛みが消えており

それっきり痛がることはなくなったので、通院も終わった。

 

「なんと、よう効く薬じゃ」

病院慣れしてない母は、薬で完治したと思っている。

しかしそれは普通の痛み止めであり、ヘルニアが治る薬ではない。

そんなすごい薬があったら、全国のヘルニア患者が欲しがるだろう。

私は彼女の脳を疑うようになった。

 

仲良し同級生で結成する5人会のメンバー

けいちゃんのお母さんがそうだったのだ。

アルツハイマー型認知症で病院に入っていたが

ある日、右利きのはずのお母さんが左手でごはんを食べていることに

看護師が気づいた。

検査をしてみたらベッドから落ちたのか

右腕がポッキリ折れていたという。

認知症でなければ七転八倒して痛がるはずが、脳が萎縮しているため

神経が麻痺して痛みを感じなかったそうである。

 

けいちゃんのお母さんと同じケースかもしれない…

そう思いはしたものの、ここが他人。

私は急に痛みが消えた理由をはっきりさせたいとも思わず

再発の恐れも気にならず、ただ「痛い、痛い」の電話が無くなったので

ホッとするのみ。

母の所業をあれこれ言っている私だが、“しょせん他人”はお互い様で

ただ過ぎ去ればオールOKの冷酷な継子である。

《続く》

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始まりは4年前・4

2024年08月02日 10時10分09秒 | みりこん流

ボイスレコーダーは、長く私を苦しめた。

その後、機械が悪いと言って合計3台買い替え

その度に使い方がわからなくて夜昼無く家に呼ばれ

電器店で説明を受ける繰り返しが続いた。

 

その間、母は根性で新曲を覚えていたが

それもしんどくなったのだろう…

再びコーラスを辞めると言い出す。

「先生にはもう言うた。

年齢的にしんどいのなら仕方がないわね、と言うてくれた」

サバサバした様子だった。

引退を大々的に表明して恥をかいた前回の失敗があるので

今度はメンバーに言わず、先生だけに伝えたらしい。

ボイスレコーダーから解放された私もまた、ホッとした。

 

が、それで終わらないのが母。

「やっぱり続けたい!」

数日後にはそう言い出して、先生に復帰を頼んだ。

 

今回も先生はすんなり受け入れてくれ

次の練習日も迎えに来てくれることになった。

が、その日が来ると、母はやっぱり行きたくなくなった。

家の前まで迎えに来た先生に

「やっぱり私、行けません」

と言い、車に乗らなかったのである。

 

それから数日後、地獄の底から聞こえてくるような

暗く低い声で母から電話があった。

「携帯に何回電話をしても出んということは、壊れとるんかね」

「どこへかけたん?」

「……」

黙秘。

「家の電話にかけたらいいじゃん」

「認知症の旦那が出たら面倒くさいけん、嫌じゃ」

このデータによれば、どうやら相手はコーラスの先生らしい。

 

少しずつ話を聞き出して、着信拒否されたと判明。

せっかく先生が迎えに来てくれたのに行かなかった…

それを気に病んだ母は何度も先生に電話をして

次は必ず行くと言ったり、やっぱりこのまま辞めると言ったり

いつも私にやるように、行ったり来たりを繰り返したのだろう。

私は慣れているが、他人なら迷惑この上無い。

先生は、母の電話に出るのをやめたのである。

 

正しい措置だ。

先生は複数のコーラスグループを指導しているので、忙しい。

認知症のご主人と暮らしながら

独りよがりの長電話に付き合う暇は無いのだ。

母は自分だけに注目して欲しくて電話をかけまくるが

先生はたくさんの弟子を見なければならない。

それを認められないのが、母である。

私だって着信拒否したいぞ。

 

ここで一瞬、思案する私。

着信拒否されたと母に言うべきか

それとも言わずに「どうしたんかねぇ?」とトボけておくべきか。

言ったら、ショックで立ち直れないだろう。

言わなかったらコーラスの他のメンバーに長電話をかけまくり

大勢の人を苦しめたあげくに、やっぱり着信拒否されるだろう。

母は昔から、電話魔なのだ。

 

“不幸になる人数は少ない方がいい”

私の持論により、母にはっきり言った。

彼女はトップスターではなく、周囲の配慮と慈悲によって

メンバーでいられる一介の老婆だと

ここらで自分の身の上を認識した方がいいのだ。

 

着信拒否を伝えると

「私は先生に見捨てられた…もうおしまいじゃ…」

母はさらに低音でつぶやく。

「もう少し、日にちが経ってから電話してみんさい」

「……」

 

先生に着信拒否されたのが、よほどショックだったのだろう。

母は、その日を境にガクンと弱気になった。

持ち前の執拗で周囲を戦意喪失させる手段により

何でも思い通りにしてきた母だが、初めて通用しなかったのが先生。

母にとっては前代未聞の、着信拒否なる措置を実行された衝撃は

かなり大きかったと思われる。

 

以後、母は一人暮らしの不安や寂しさを訴えることが増え

これから先の身の振り方をしきりに案じるようになった。

それまでは「最後まで一人暮らしを続けて頑張る」と

自身に言い聞かせるようにたびたび口にしていたが

「どこでもいい…一人じゃなければ…」

という考えに変わり、老人ホームに憧れるようになった。

 

しかし身体のどこにも悪い所が無いので、入居資格が無いのが難点。

毎月検診に行く地元の医師にも、健康には太鼓判を押されている。

施設に入りたいと頼んだら

「ハハ…要介護も付いてないのに無理ですよ。

まだまだ大丈夫」

そう言われて落胆していた。

 

とはいえ母の本心は、老人ホームではない。

関西に住む自分の娘と暮らしたいのだ。

だけど知らない土地へ自分が行くのも、娘婿に気兼ねをして暮らすのも嫌。

母の願いはただ一つ、娘に単身で帰って世話をしてもらいたい。

 

が、その願いを叶えるためには難関がある。

娘夫婦を別居させ、3人の子供たちとも引き離し

さらに仕事を辞めさせなければならない。

 

50代の娘は、母の強い希望で教師になった。

それをみすみす辞めさせるのは、さすがの母も躊躇していたが

ある日、思い余って娘に今後のことを相談。

もちろん、その答えは母が期待する内容だと信じている。

 

娘は軽〜く答えたという。

「こっちに来れば?いい老人ホームがたくさんあるよ」

その言葉に、自分の世話をする気は無いと悟って衝撃を受けた母は

もう帰って来いとは言えなくなった。

継子の私には強気だが、娘には嫌われたくないので遠慮がち。

世間の姑と同じである。

 

ともあれ、コーラスの先生と我が娘…

一番思い通りにしたい執着の対象が、思い通りにならない…

このダブルのジレンマが、母の精神を追い詰めて行ったように思う。

元々、壊れていると言えば壊れている人なんだが

敬愛する先生と最愛の娘にトドメを刺された格好だ。

 

遅まきながら、ここから母の思い通りにならない人生が始まった。

今思えば、これら一連の言動は鬱病の症状だったのかもしれない。

現在、精神病院へ入院している母の病名である。

《続く》

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始まりは4年前・3

2024年08月01日 08時52分25秒 | みりこん流

“歌姫”の電話攻撃は、3日、4日と続いた。

日に何度も携帯、あるいは家の電話にかかり

1時間単位で拘束されては同じ相槌を繰り返している私に

家族は「またか」と呆れつつ、同情するのだった。

 

何日目だったか、母の姪の祥子ちゃんから電話があった。

その内容は、母の電話に辟易しているというもの。

「私はあの人が37であんたとこへお嫁に行くまで

一緒に暮らしてたんだから、難しい性格はわかってるし

できるだけ合わせてきたけど、もう限界」

その気持ちはよ〜くわかる。

 

「私が一番近くにいるから、叔母さんが困った時には

手伝うつもりだったけど、リタイアしてもいいかな?

本当にごめん」

と言うので了解し、着信拒否を勧めた。

母は頼りの姪に、サジを投げられたのである。

 

となると母が頼るのは…

実の娘は関西在住なので、距離的に無理。

一つ下の妹も、広島市在住で無理。

そういうわけで、今後は私のワンオペ決定。

 

その後、祥子ちゃんが電話に出なくなったので、私にかかる回数は倍増。

「コーラスを辞めたら生きていけない!」

相変わらずの歌姫語録に加え、祥子ちゃんが電話に出ない疑問も加わったが

「子供の所へ行ったんじゃないの?」

「旅行じゃろう」

などと言って切り抜ける。

 

励ましたり、なだめたり、すかしたり…

私は渾身で歌姫の嘆きに取り組んだ。

さっさとコーラスに戻らせないと

電話責めの日々が永遠に続くんだから必死さ。

 

やがて、歌姫の心は決まった。

先生に詫びを入れる勇気が出たのだ。

 

そもそも、この先生がとても厳しい。

70代の美人で、かなりの女王体質だ。

母は彼女に強い尊敬と畏怖の念を持ち、接する時は緊張していた。

一方で母はコーラスの練習のたび、その厳しい先生に送迎してもらう。

練習は車で10分余り、私が住む町の公共施設で行われる。

先生と母は同じ町に住んでいて、うちの前を通って行くからだ。

気兼ねではあるけど電車よりマシなので、ずっとその厚意に甘えてきた。

その負い目もあり、先生はこの世で唯一、母が恐れる人物なのだった。

 

母は意を決して先生に連絡した。

カムバックの願いはすんなり受け入れられ

次の練習日から、また先生の送迎で参加することになった。

「行ったら、みんなが拍手して迎えてくれた。

やっぱり私がいないとね」

興奮し、明るい声でまた電話をかけてくる母であった。

 

やれやれ…

胸を撫でおろした私だったが、それはいっときであった。

数日後、歌姫から涙声で電話。

「私はね、コーラスを辞めたくないのよ!」

「…辞めなきゃいいじゃん」

「大変な思いをして戻ったんだから、続けたいのよ!」

大変な思いをしたのは確かこっちだったと思うが

それが母なので、今さら驚かない。

 

「続けりゃいいじゃん」

「私はね、ずっと歌っていきたいのよ!

歌が生き甲斐なんだもの!」

このやり取りを何回も繰り返したあげく、ようやく本題に入る。

長年愛用していたテープレコーダーが、壊れたらしい。

 

母は音符が読めないので

歌を覚える時は手のひらサイズのテープレコーダーを使う。

集まって練習する時に録音し、家で再生してメロディーを覚えるのだ。

テープレコーダーが壊れると、新曲が覚えられない。

それで絶望し、泣いているのだった。

 

「新しいのを買えばいいじゃん」

「こんな田舎に売ってないわいね!」

「買いに連れて行ってあげるよ」

「いつ?ねえ、いつ?

練習日までに使い方を覚えたいんよ!」

さっきまで泣いていたのが、早くも喧嘩腰だ。

つまり今日、これから迎えに来て

私の住む町にある大きい電器店へ連れて行けと言いたいらしい。

 

行ったさ。

明日…なんて言ったら、ずっと電話をかけてくるので

すぐ行動するしかない。

もはや脅迫だ。

 

が、電器店に行ったら問題発生。

大きなカセットデッキとボイスレコーダーならあるけど

手のひらサイズのテープレコーダーは

メーカーが製造をやめているので存在しないそうだ。

 

母はスマホを使わないので、録音といったらボイスレコーダーしか無い。

ネットで個人的に探せばあるかもしれないが

今日頼んで今日来るわけもなく、ひとしきり嘆いた母は

ボイスレコーダーを買うしかなかった。

 

このボイスレコーダーが、またもや私の前に立ちはだかる。

テープレコーダーとは使い方が違うので、母には難しかったのだ。

電器店でさんざん使い方を聞き、メモにも書き

試しに録音となると、店頭で高らかにコーラスの曲目を歌って吹き込んだ。

店員のあっけに取られた顔に、つい下を向く私であった。

 

無事に録音再生ができたので、母は上機嫌だったが

夜になると電話が…。

「どうしても録音できんけど、機械がおかしいんじゃないのっ?!」

明日、電器店で説明を聞くと言うので、また連れて行く。

そして家に帰るが、また夜になって泣きながら電話がある。

数日、この繰り返し。

 

結局、ボイスレコーダーの習得はコーラスの練習に間に合わず

「あんたがテープレコーダーも無いような

ボロの電器屋へ連れて行くけんよ!」

何度も恨み言を賜わった。

私が暴言に動じないとしたら、母で修行を積んだせいである。

《続く》

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